楽観主義者

Ryoya Sano

短編小説

 外の音はもちろん、光ですら一粒も入れないであろう重厚な扉が、静かに閉められた。

 たちまち光は萎んでいく。けれど僅かな照明のおかげで、暗闇になる事はない。

 ほんのりと薄暗い世界。

 そんな世界に一条の光が射す。

 その光を凝視する。

 異様な雰囲気を放つ世界に、コツコツと音が舞い降りる。

 途端、微かに温度が上がった気がする。

 彼女が光の下に姿を現すと、それは勘違いではないことに気づく。

 僕は同じコンテスタントとして、彼女に同情した。

 けれど彼女は、この雰囲気を気にすることなく一礼をした後、椅子に座った。

 ピアノに手を置き、一呼吸間を置いた後、音は発せられた。


 僕にはピアニストとしての才能が無い。

 確信に変わったのは彼女の演奏をコンクールで聞いてからだが、自覚はもっと前からあった。

 けれど音大に通っている。心の中では才能が無いことを認めたくない自分がいた結果だと思う。それ自体悪い気はしないし、数十年やり続けてきたことを簡単に手放せる性格ではない。だから、ピアニストになれなくても、将来的にはピアノに関する仕事に就こうと思う。

 そんなことを考えながら入学し、音大生活に慣れ始めた初夏、教授からお呼び出しをくらった。

 教授からの呼び出しには慣れた。基本的には教授の愚痴を聞くだけだ。今日もそうだろうと思い気楽に講義室に入ると、早々に言葉を浴びせられた。

「内山。お前には悪いと思うが決定事項だから。泣きつかれても俺には何もできない。学園長の推薦だからな」

 教授は哀れみ混じりの笑顔で言いながら、僕に一枚の紙を差し出してきた。

 ざっと目を通す。学園祭の演奏プログラムみたいだ。何もおかしな事はない。

 僕が困惑していると、教授がタバコに火をつけながら呟いた。

「後ろのページ。最後の演目見てみ」

 言われるがまま紙を裏にし、下の方に目を向ける。

 二日目。最終演目。如月花と内山四季による連弾。

 演奏曲 ヴィヴァルディ『四季』

 僕の名前が書かれていた。そして、才能の差を実感させてくれた彼女の名前も。

 血の気が引くのが分かる。立っているのが困難になったため、断りを入れず教授の前にある椅子に腰をかける。

「まぁ、そういう反応になるわな」

 煙を吐き出しながら教授は言った。

「学園祭っていつからでしたっけ?」

 会話を繋げるため、僕は言葉を発した。

「十月中旬だ」

 あと三ヶ月弱。そんな短期間の練習で彼女と弾き合えるのか。断言できる。無理だ。

「僕には荷が重すぎますね」

 喉につっかかりを感じつつも声を出す。

 そしてこの部屋に入って来て早々、言われた言葉を思い出す。この現実は受け入れるしかないことを実感した。

「お前はどこか自分のことを過小評価しすぎている節があるよな。学園長の推薦で学校に入って来たのはお前と如月花だけだ。確かに早すぎるとは思ったが、在学中には必ず二人で連弾する事は決まっていた。頑張れよ。内山」

 そう言いながら、教授は僕を手で押し、講義室から追い出した。

 扉を閉める前に教授は満面の笑みを見せてくれた。初めてそんな笑顔を見たが、胡散臭かった。けれど、普段は気怠げな教授が笑顔で激励の言葉を言ってくれたのが、純粋に嬉しかった。

 僕はヴィヴァルディについて詳しく知る為、図書室へ向かった後、練習室に閉じこもった。


 初めて彼女の演奏を聞いた時、音楽家の極致はこの場所だと錯覚した。

 それは初めての経験であると同時に、どこか懐かしさを感じさせた。

 聞き進めていくうちに、彼女のピアノにはミスタッチがない事に気づいた。難所を難所と思わせないほど容易く弾き切った彼女の技巧は、一流のピアニストを彷彿とさせた。

 何より、彼女は音楽を楽しんでいた。

 それは音色になって聴衆に届いた。

 僕は目を閉じた。

 すると、教室で笑う彼女の姿が飛び込んできた。次に連想されたのが、練習室で真剣にピアノを弾く彼女だ。

 教室での笑顔よりも、練習室で真剣にピアノを弾いている時の方が楽しそうに見えた。

 まるで昔の自分を見ている気分だ。

 学校も楽しいけど、師匠の家で弾くピアノが一番楽しい。

 そんな記憶がふと蘇った。

 それと同時に、懐かしさの正体にも気づいた。

 初めて師匠のピアノを聞いた時に似たような感覚だ。

 人の心を変化させるピアニスト。

 僕が努力しても届かない場所だ。

 ピアノを楽しく弾く大切さを再度教えてもらった。それと同様に、自分の才能に見切りをつけた。

 そんな相手と連弾する事になるなんて夢にも思わなかった。


 彼女との練習は教授から話を聞いた翌日から始まった。

 最初の頃は優しくダメ出しを言っていたが、一ヶ月が経ち始めた頃から語気に苛立ちが含まれ始めた。

 僕は必死になって練習した。

 彼女にダメ出しを言われるのが嫌なのもあった。しかし、僕を練習へと突き動かしたのは、音大生の生の声を聞いたからだ。

 一ヶ月という期間で、僕が如月花と連弾する事が学内に広がった。

 友人たちからは励ましの言葉を言われ、それを糧に練習に取り組んでいた。

 ある日、外の空気を吸うため中庭のベンチで休んでいる時、隣にいた生徒たちの話している内容が聞こえてきた。

「そういえば如月花、連弾するらしいよ」

「誰と?」

「内山四季。聞いたことある?」

「無いな。お前は?」

「無い」

「そんな奴が如月花と連弾するとかやめてほしいわ」

「分かる。そいつが下手だったら、如月花のキャリアに泥塗るよな」

 二人の方向を見ないようベンチから立ち上がった僕は、伸びをする仕草を行った後、逃げるように練習室へと戻った。

 僕は無名であり、彼女のキャリアに泥を塗るかもしれない存在だと痛感した。

 僕のためにも彼女のためにも、必死になって練習するしかなかった。

 そんなある時、いつも通り練習をしていると、彼女から質問を投げられた。

「今、ピアノ弾く事楽しい?」

 彼女の方を見ると、真剣な表情をしている。

 僕は考える前に言葉を発した。

「楽しくなんかないよ。君に追いつく事に必死だから。努力したところで追いつかないと思うけど。練習するしか方法が分からない。だから練習に励むんだ」

 彼女の目を見て話す事ができなかった。

「そんな難しいことなんて考えずに、ピアノを楽しむだけじゃダメなの?」

「楽しんで弾くだけがピアノじゃない。楽しむ事も大切かもしれないけど、それは技術が伴ってからだ。僕にはまだ早すぎる」

 少し苛立ちを覚えた。彼女はこんな苦労を知らずにピアノを弾いてきたと思うから。

「昔の私みたいだ」

 小さな声で発せられた言葉に耳を疑う。

「けど、それじゃダメなんだよ。そうだ。気分転換にデートしよ。今週の日曜日空けといてね」

 暗い表情を覗かせた後、笑顔で言われた。

「いやだよ。少し練習をしないだけで不安に駆られるんだ。気分転換なんて必要ないよ」

 僕はありのままを述べた。

「デートに付き合ってくれたら、私が四季君を連弾相手に選んだ理由を教えてあげると言っても?」

 憎らしい笑顔で言葉を発した彼女。

 その言葉を解釈するのに少し時間がかかった。

「ちょっと待って。君が僕を選んだ? 学園長の独断じゃないの?」

 そして慌てて僕は聞き返した。

「表向きはそうなってるけどね。事実は私がお願いしたの」

「なんでそんな事を」

 戸惑いを隠せない僕に、彼女は飛び切りの笑顔で言った。

「それを教えてあげるよ。デートしてくれたらね」


 デートは滞りなく進んだ。

 駅前で待ち合わせをし、余裕を持って映画館に入った。

 映画を見ている時は大人しかった彼女だが、外に出ると興奮していた。僕にもその気持ちが分かった。

 そんな僕たちは、次に喫茶店へと向かった。

 僕は彼女から、僕を連弾相手に選んだ理由を聞くためにこの喫茶店を訪れた。しかし、映画の感想で盛り上がってしまい、気がついたら一時間経っていた。

 今更喫茶店で本題を出すのも気が引けたので、近くにある公園に行かないか提案したところ、快諾してくれた。

「こんなに長く、ピアノに触れていないの久しぶりでしょ?」

 公園に向かっている途中、彼女は笑いながら質問してきた。

「たぶん。だけど、今日休んでよかったのかも。気分が晴れたっていうのも変だけど、こういう日もあっていいんだ、って思えた」

 素直な感想だった。

 毎日何時間も室内に閉じこもっている日々に対し、今日みたいな日は必要だったのかもしれない。

「そう思ってくれてよかった。私も昔、四季君と一緒なこと思ってたんだ。周囲の期待に応えるために練習をたくさんする。ピアノを楽しむなんて二の次。けど、そんな私の音を聞いていたピアノの先生が、楽しむ事を忘れたら次第にその事に興味がなくなっていくよって言ってくれたの。そして一日私と遊びましょって外に連れ出してくれた」

 照れ臭そうに彼女は僕に打ち明けてくれた。

「そこからどうやって今みたいに楽しく弾けるようになったの? ただ楽しむだけで君みたいな技術が身につくと思えない」

 僕は疑問を口に出した。

「そんな難しい事は考えなくなったかな。弾きたい曲を弾いていただけなの。弾きたくない曲弾いたって、楽しくないから。けど、かっこいい曲って難曲が多かった。だから楽しく弾きながら、技術が身についていったのかな」

「そんな事もあるんだね」

 言っていることが僕とかけ離れている。彼女はかっこいい曲を弾いている過程で技術を習得した。僕は違う。技術を習得するために練習をし、その結果として難曲を弾けるようになる。

「たぶん私は特殊なんだと思う。けど、四季君は連弾に楽しい思い出があるはずだよ」

「なんで?」

「四季君の演奏を聞いた時、すごく連弾したくなった。楽しそうに弾いてるし、曲の解釈も私と似てたからだと思った。けど、よく聞くと違った。音に寂しさが含まれていたの。相手がいない事に対する寂しさ。純粋に楽しいと思えるのは、横に人がいる時だって。音がそう言ってる気がしたの」

 彼女の言葉を聞いて、どこか納得している自分がいる。

「まさかこれが?」

 そして疑問を口に出す。

「そう。私が連弾相手に四季君を指名した理由だよ」

 僕の目を見ながら、彼女は言った。

 公園についた僕たちは、ベンチに腰をかけた。

 自動販売機で買った缶コーヒーを口に含み、飲み込んだ後、僕は口を開いた。

「多分。君の言っている事は当たっていると思う。連弾相手を探していた、というよりも師匠がいなくなってから、ピアノに対して特別な感情が無くなっていった」

 彼女の演奏を聞いた時、ピアノが楽しいと感じていた記憶には、常に師匠がいた。

「それなら私が四季君の師匠の代わりになるよ。一緒に楽しく弾こうよ。それに、四季君は自分の事を過小評価しすぎていると思う。私が同年代で具体的な音を聞き取れたのは四季君だけだよ。ミスタッチがないから音に集中できた。それだけ技術がある証拠だよ」

 同じような事を前に言われた気がする。教授か。けれど、教授から言われるよりも、彼女から言われたときの方が何倍も嬉しかった。

「楽しくピアノを弾けるように頑張ってみるよ」

 僕はそう言って、久しぶりの感覚に襲われた。

 早くピアノが弾きたい。


 一条の光の下へと歩みを進めている。

 静かな館内に響き渡る二つの足音。

 皆が横の彼女目当てで来ている。僕はそのおまけ。

 だけど楽しく弾ければそれでいいや。

 そう思いながら、僕はピアノに触れた。


 四季君が音を出した瞬間、行ったこともない庭園がそこに現れた。

 私はそれに続いて音を出し、風景を彩るように努める。

 庭園の奥にはお城が見えたらいいかな。綺麗な松の木が池の先に見えるのもいいかも。

 この三ヶ月間で四季君は色々な顔を見せてくれた。最初に聞いた時、私よりも遥に才能があると思った。けれど、四季君自身はそう思っていなかった。連弾初日に彼の演奏を聞いて初めて分かった。

 どうすれば四季君に自信が宿るか、最初の一ヶ月はそればかりを考えていた。でも、上手に伝えることが出来なかった。それならばと思い、デートに誘って直球で伝えた。

 それからの四季君の変化は、私の想像を軽々と越えた。

 今もそうだ。私が風景を彩らなくても、彼の世界が広がっていく。

 『春』周囲には桜が咲いている。そこから曲が進むに連れ、松の周囲に咲いていた桜も枯れていった。

 『夏』先ほどと違い、青々とした一面を見せてくれた庭園に感嘆していると、強風や激しい雷雨に撃たれる。池には無数の雨が落ち、音を立てて沈んでいく。

 『秋』紅葉が池に浮かび始めた。そして視線を松の木に向ける。辺り一面、赤と橙に覆われていた。その紅葉も次第に無くなり、木々には雪吊りが施される。

 『冬』雪吊りや地面が白く染まっている。木々も白い帽子を被っている。寒気を感じながらもその光景に目を奪われていると、次第に緑が顔を出し始める。それと同時に白い雪は消えていき、残った桜の蕾が緑の中で際立っていた。

 ヴィヴァルディの感じた『四季』ではなく、四季君の感性を存分に詰め込んだ、彼ならではの『四季』が目の前にあった。

 たった数ヶ月で遠くに行っちゃったな。


 曲が終わった。一時間という時間は短い。まだ弾き足りない。

 そんな感情に駆られた。

 そして改めて分かる。舞台上の如月花は別格だ。彼女の音のイメージが僕に流れ込んできた。僕はそれに合わせるだけでよかった。

 彼女が席を立ったのを見て、僕もそれに合わせる。

 盛大な拍手。絶叫。口笛。

 毎回この景色を見れている彼女を羨ましいと思ってしまった。

 これで最後なのかな。

 それは嫌だな。久しぶりに楽しい演奏を出来た。イメージを音に乗せる事ができた。

 舞台袖へと進む彼女の背を見つめながらそんな事を考えていた。

 舞台袖に着いた時、スタッフの学生が褒めてくれていたが、それを無視して僕は声を発していた。

「如月花さん。これからも僕と連弾をしてくれませんか?」

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楽観主義者 Ryoya Sano @shirataman

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