第4章 戦争を収束させたい!!

第20話 ここで泣き喚けるほど子供ではないので

 明るい窓辺に数羽の鳩が留まっている。


 病的に白い、折れてしまいそうに細い手が伸びる。

 鳩たちが思い思いに首を傾げる。


 白い手が鳩たちの足元に砕かれた豆の破片を撒いた。

 鳩たちが一斉についばみ始めた。


「お前たちはいいですね」


 鳩たちを言祝ことほぐ声は明るいが重い。


「その気になればどこまででも羽ばたいていけるのですね」


 鳩たちが頭を前後させながら一粒残らず豆を平らげる。


「うらやましい」


 白い手が、鳩を一羽捕まえては足輪をつけ、またもう一羽捕まえては、を繰り返す。


「私はひとりではどこにも行けないというのに、ロビンばかりが羽ばたいていく」


 窓を開け放った。


「ほら、おゆき」


 鳩たちが飛び立った。










 アーノルドはロビンを引きずって母屋のほうに向かった。レギーナは寝間着姿のまま慌ててその後を追いかけた。


「お兄様!」


 ロビンは抵抗しなかった。彼もまた自分の罪も重さを思い知っているようだった。


 母屋の食堂に入る。


 そこにはオットーとテオドールが待っていた。

 すっかり足がよくなったオットーは胸を張って立ち、テオドールのほうが椅子の背もたれを抱えて前後逆に座っていた。

 ふたりとも面白くなさそうな顔をしている。


 アーノルドがロビンを壁に叩きつけた。

 ロビンの背中が壁にぶつかった。


 床に崩れ落ちることすら許さなかった。

 アーノルドはロビンの胸倉をつかみ、壁に背中を押しつけさせた。


「やめて!」


 レギーナは兄の腕をつかもうとしたが、アーノルドは声ひとつで止めた。


「お前は黙って見ていろ」


 下唇を噛む。

 悔しい。何と言い返したらいいのかわからない。


 兄ではなく、むしろ自分自身のほうに腹が立つ。


 あまりにも能天気だった。自分たちがどういう立場に置かれているのか何も考えていなかった。


 正直なところ、今もまだ兄がどうしてこんなに怒っているのか理解していない。

 そういう自分自身が情けない。

 きっと何か政治的に深い事情があるのだ、ということはわかるのに、具体的にそれが何なのか想像がつかなかった。


「自分の身分をわきまえろ」


 アーノルドがロビンに言う。


 ロビンもアーノルドに挑むような鋭い目をしていたが、だからといって何かしようとはせず、されるがままにしている。


「お前の軽率な行動のせいでファルダー帝国が保ってきた微妙な均衡が崩れようとしている」


 ロビンが頷く。


「申し訳ございません」


 そして顔をしかめる。


「それでもレギーナに会いたかった」


 ロビンの胸倉をつかむアーノルドの手に力がこもった。


「殴ってはならぬぞ」


 父が言う。


「見えるところに傷をつけるな。誰に何を言われるかわかったものではない」


 それは優しさではない。自己保身だ。この家を守るための方策で、ロビンを傷つけないためのものではない。


「レギーナもロビン王子もまだ若いからな」


 オットーが溜息をついた。


「もっとよく言い聞かせておくべきだったのだな。俺の失敗だ」


 ロビンは「いえ」と呟くように言った。


「ご期待に応えられず申し訳ございませんでした。家と家との公的な婚姻を僕と彼女の私的な婚姻にすり替えた僕のとがです」


 拳を握り、深く深呼吸をしてから、問いかけることを決意する。


「ごめんなさい」


 まず、レギーナは素直に謝罪した。


「わたしには違いがわからないの。お兄様やお父様が何をそこまで気にしているのかわからない」


 悔しさを呑み込んで頭を下げる。


「全部私の不勉強ゆえです。情けないことで恐れ入ります。それで、たいへん申し訳ないのですが、ご説明をお願い致します」


 少し間を置かれた。


 口を開いたのはテオドールだ。


「父上は最初姉上を同盟国の人に嫁がせる気だったんだ。その上で、姉上の夫になる人にパランデ王国との融和策を取るよう持ちかけるはずだった。早急にファルダー帝国をひとつにしなければならなかった。なぜならディールーズ帝国がファルダー帝国に攻め込もうとしているという情報が入ってきたからだ」


 驚きのあまり息を詰まらせた。


「ところがそれを真正面から話を取り合ってくれる婚約者は出てこなかった。みんなファルダー帝国内の覇権争いに夢中でディールーズ帝国に目が向いていないんだ」

「そうなの……」

「そういう大局が見えない男ばかりで父上や兄上にとって納得のいく婚約者がいなかったから、姉上の婚約を全部破談にしてきた」


 レギーナは、目を丸くして、薄く口を開いた。だが声どころか吐息すら口から出すことはできなかった。


「ナスフ家に嫌われてでも――ファルダー帝国が分裂することになってでも、パランデ家に反抗することを選ぶ国がたくさん出てきたんだ」


 ここで、では婚約を破棄されてきたのは自分のせいではなかったのか、と言い出せるほど子供ではない。自分を責め続けた時間はすべて無駄だった。自分は男たちの政治的駆け引きの上で踊らされてきたのだ。だが今この空気の中そうと言えるほど愚かでもなかった。


 かつて父が言っていた。


 ――我が侯国が王家を敵視しているなどということはバレてはならぬ。今の王家は皇帝の一族であり、我々は一応帝冠のもとにひとつという設定になっておるのだ。


 そういう設定でいるのは我が家だけで、他の国々は本当はみんな帝冠を奪い合いたいのだ。


「ここまでくると、もうナスフ家に取りうる手段はひとつしかない。姉上本人を犠牲にして、人身御供にしてパランデ王家とつながる――」


 そこから先を語ったのはロビンだ。


「父はオットー殿から打診が来た時たいへん喜びました。パランデ王国も常にディールーズ帝国を迎え撃てるとは限りませんから、万が一のことがあった場合に南部の騎士団に出陣を要請する構えを整えておきたかった。でも、歴史の浅い、しかもパランデ王国の前王朝の王位の簒奪者である自分たちにはファルダー帝国の中の国すべてをまとめ上げる力がない。帝国最強の騎士団、帝国最強の陸軍をもつ、四百年の歴史に裏打ちされたナスフ侯国が味方になってくれれば、不安は解消される。ただ――」


 自分の前髪をくしゃりとつかむ。


「パランデ王家の中も分裂してしまっています。レギーナと結婚するのは、僕か、ケヴィン兄上か」


 ――王と王妃、つまりロビン王子の父上と母上の間でうまく話が進んでいないという話なのだ。その筋の情報によると、長男のケヴィン第一王子がまだ独身で、先に弟のロビン第二王子を結婚させるのがどうかという話になっておるようでな。手紙でやり取りした感触ではお父上であるパランデ王は気色よかったのだが、お母上が嫌がるのでは仕方があるまい。


「今ここで僕が兄上を捨ててきたことによって、僕と兄上が決定的に決裂したと解釈する者たちが現れるでしょう。ディールーズ帝国からしたらチャンスです。近衛騎士団で育てられた僕がパランデ王国を離れていて、軍隊を動かせない兄上が残っている、この今の状況で攻め込んでくれば勝てるかもしれない――」


 兄とイヴァーノの会話が浮かんでくる。

 もっとちゃんと聞いておけばよかった。


「時間が必要だった」


 諸国にナスフ侯国がパランデ王国と結びつくのを認めさせるための時間と、パランデ王国がロビンのもとに団結するのを認めさせるための時間だ。


「それを僕が今ここに来たことで、ナスフ侯国はザミーン侯国との関係を捨ててパランデ王国の、それも第二王子である僕を選んだことを、国内外に知らしめることになりました」


 オットーがようやく重い口を開く。


「噂を噂のままにしておけなくなったということだ。これから反パランデ王国同盟の連中が大挙してナスフ侯国に押し寄せてくるぞ。ディールーズ帝国との不穏な空気を読めない連中が、な」


 アーノルドがようやくロビンの胸倉から手を離した。


 ロビンがずるずると膝を折り、その場に座り込んだ。


「僕がこの国ごとここで死ねば、パランデ王家は断絶すると思います」


 レギーナは首を横に振った。


「お兄様がいらっしゃるのではないのですか」

「兄は体が弱くて結婚できないのです。余命はあといくばくもないと医者に言われています。パランデ王国の真の後継者は僕です――と、父は主張しています」


 オットーが「やはりか」と溜息をつく。


「そうでなかったらレギーナはケヴィン第一王子と結婚するはずだったのだからな」


 自分のこの家における存在意義の儚さを知る。


 テオドールが立ち上がる。


「姉上」


 名を呼ばれて彼のほうを向いた。


「顔色が真っ青だ。もう部屋に戻って休んだほうがいい」


 そう言って彼はレギーナの手を取った。自分より年下の少年のものとは思えない、大きくて力強い手だった。


「構いませんよね」


 アーノルドが「むしろそうしてほしい」と言うと、テオドールはレギーナの手を引いて部屋を出て、塔の部屋へ向かった。

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