第19話 たかが女ひとりのために

 大事件になった。


 レギーナはベッドの上でぼんやりここ数日のことを回想した。


 あの後、騒ぎを聞きつけたアーノルドとイヴァーノが現場に駆けつけた。


 状況を説明したのはあの時レギーナが中庭から連れてきた侍女だ。彼女が一部始終をすべて見ていたので、現場検証はスムーズに済んだ。


 テオドールも、興奮した侍女が泣いて言葉を詰まらせたところを、自ら補足説明した。

 彼はレギーナが想像していたよりずっと冷静だった。弟の成長を目にしてレギーナはほっとした。


 レギーナの怪我も大したことはなかった。


 呼吸はすぐ安定したし、胸の痛みも残らなかった。医者に診せたところ骨が折れているということはなさそうだ。

 今も、一応ベッドで安静にするように言われているので寝転がっているが、やっぱり元気なので暇を持て余している。


 ただ、唯一、手を前についた時に両方の手の平に擦り傷を作ってしまった。大袈裟に考えた人々が包帯を巻いてくれたが、もともと皮が少し剥けただけだったし、もうかさぶたになっているので今日にははずしてもいいだろう。


 カロリーナは蒸発してしまった。

 城のどこを探しても彼女の姿はなかった。


 アーノルドとその周りの騎士たちが捕らえたカロリーナの侍女を尋問した。


 侍女が言うには、カロリーナが、テオドールを探して狙うように、と言ったのだそうだ。できることなら刺してほしいと言われて短剣を渡されたらしいが、怖くてとてもできなかった、と言って素直にその剣を差し出した。


 テオドールが死ねばナスフ家はアーノルドが継ぐことになる。

 しかし庶子のアーノルドが後継者となれば今まで甘い顔をしていた同盟諸国も手の平を返して攻撃してくるだろう。

 そのどさくさにまぎれてアーノルドを始末できれば、その妻となるカロリーナがナスフ家を乗っ取ることができる――。


 現実的な話ではなかったが、一応道理は通っている。

 それに、テオドールの命が狙われるのも実はこれが初めてではない。

 ナスフ家には敵が多い、ということを、改めて認識させられた。


 さて、ここでイヴァーノである。


 彼は妹の犯行を素直に謝罪した。

 蒼白い顔をして頭を下げ、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。

 不肖の妹が、不肖の妹が、不肖の妹が――。

 すべてカロリーナの罪であると断言して自分にも責任があるとは一言も言わなかった。


 レギーナは心の底から失望した。


 兄というものは妹というものを守ってくれるものだと思っていた。

 だがこの兄妹にそういう信頼関係はない。


 イヴァーノはカロリーナを切り捨てようとしている。


 カロリーナは気が弱く、ひとりではとてもそんなあくどいことなど考えつかないような女性に見えた。兄のイヴァーノが裏で何か画策していたのではないかと思わざるを得ない。


 妹にとって兄は偉大な存在だ。

 たとえそれがイヴァーノのように取るに足らない小悪党であったとしても、だ。


 自分の行動が兄のためになると思っていたのなら――なんと不幸なことか。


 あるいはイヴァーノ自身がどこかで関与している可能性もあったが、証拠はどこにもない。真相を知るのは消えたカロリーナただひとりだけということだ。


 妹の罪を兄が償うかどうか。


 この件は当事者であるナスフ家とザミーン家の間で決着をつけるのはまずかろう、という話になった。

 いったん皇帝であるパランデ王に託すということになる。


 ひとまず、イヴァーノはひとりでザミーン侯国に帰る。


 引き留めるすべはない。


 ナスフ家の誰もが釈然としなかったが、こればかりは皇帝が動くのを待つしかない。


 厄介なことになった。


 ナスフ侯国とザミーン侯国は秘密裏につながっている反パランデ王勢力だ。

 その両国の関係にひびが入ったとなれば、他の同盟諸国はどう思うだろう。


 父オットーはだからこそのイヴァーノとレギーナの縁組だったと言ったが、アーノルドは破談になってよかったと言った。レギーナも今思えばぞっとする話だ。


 ベッドの上で寝返りを打つ。


 ひとりで暇を持て余していると不穏なことばかりが頭の中に浮かぶ。


 この帝国はどうなってしまうのだろう。

 ナスフ侯国は、ザミーン侯国は、パランデ王国は、どうなってしまうのか。

 自分とロビンが結婚することでナスフ侯国とパランデ王国が結びつけば、ザミーン侯国は自然と追い落とされる形になるのか。ナスフ侯国が反パランデ王国同盟を裏切ったことになり、この帝国は内乱へ――?


 背筋が寒くなる。


 自分の結婚はどうなってしまうのだろう。


 扉がコンコンとノックされる音がした。


「レギーナ様」


 エラの声だ。


「起きておいでですか?」


 レギーナは体を起こした。エラが構ってくれるのであれば安心だ。これ以上変なことを考えずに済む。


「起きてるわ! どうしたの?」

「お客様ですよ」

「お客様?」


 きょとんと首を傾げる。


「どなた?」

「それは、お会いしてからのお楽しみです」


 レギーナは口を尖らせた。このタイミングで訪ねてくる相手が思いつかなかったのだ。しかも自分は寝間着姿だ。髪もくるくると渦を巻いている。


「ひとに会える恰好じゃないのだけど」

「レギーナ様の見た目なんて気になさいませんよ」


 ということは親戚か何かだろうか。きっと一応怪我をしたレギーナを見舞ってくれたに違いない。


「いいわ、入って」


 扉が外から開けられた。


 レギーナは仰天した。


 入ってきたのがロビンだったからだ。


「ぎゃあ」


 だらしないところを見られてしまった!


 慌てて起き上がったがもう遅い。どうしてエラはあんな意地悪を言ったんだろう。


 ロビンは旅装だった。乗馬用のブーツを履き、丈の長いマントを身につけている。腰には剣を下げていた。


「レギーナ」


 彼はレギーナのすぐそばにひざまずいた。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、着替えます着替えます」


 うろたえるレギーナの手を取る。

 そこには包帯が巻かれている。


 その手に、ロビンは自分の額を押しつけた。


「あなたが怪我をしたと聞いて、いても立ってもいられなくて」


 レギーナの手を、強く、強く、握り締めている。

 その強さから彼の不安や焦りが伝わってくるような気がして、レギーナは、胸がじんと温まるのを感じた。


 文字どおりの怪我の功名だ。ちょっと擦り剥いただけなのに、ロビンに会えてしまった。


「すみません、僕のほうこそ、馬をおりたままの恰好で寝室まで入ってきてしまいました」


 レギーナはぶんぶんと首を横に振った。

 そして頬が熱くなるのを感じた。


「一刻も早くあなたにお会いしたくて……」

「ヒエエエ……」


 ロビンが額を離し、震える手つきでレギーナの手の甲を撫でる。


「痛かったでしょう」


 元気よく、ぜんぜん、と言おうとしたが、こういう時だけは頭がくるくると高速回転するレギーナは、しおらしくうつむいて儚くか弱い声で「大丈夫です……」と言ってみせた。テオドールやオットーが見ていたら後頭部をはたかれるやつだ。


「そうですか」


 ロビンが表情をゆがめる。


「そうですよね」


 そして溜息をつく。


「肝心な時にあなたを守れませんでした」


 あららら……必要以上に落ち込ませてしまったかしら。


「話はおおかたテオドール君から聞きました。彼が手紙を書いてくれたのです」

「あの子ったら」


 後でご褒美だわ、と思ったが口先では「余計な心配をおかけして申し訳ないです」と言っておいた。


「恐ろしい思いをしましたね。僕のほうでも父にとりなしてみます。こういうことははっきりしたほうがいいですから。それもできる限り早く」

「ありがとうございます」

「カロリーナ・ザミーンのゆくえも追ってみますが、パランデ王国の者に彼女の顔を見たことがある人間がいませんので、少し難航するかもしれません。なんとか情報を集めてみます、お待ちください」

「はい」


 扉が開いた。今度はノックなしに突然だ。


 扉のほうに目を向けると、アーノルドが息を荒げて入ってきたところだった。


「貴様」


 ロビンをにらみつける。ロビンが立ち上がる。


「何をしている?」


 レギーナは顔をしかめた。

 兄がイヴァーノに対してよりもずっとロビンに対して怒っているように見えたからだ。

 直接レギーナの手に触れているところを目にしたからだろうか。


 ロビンがうつむく。苦々しい顔をする。


 アーノルドが歩み寄ってきた。

 ロビンの胸倉をつかんだ。


「貴様、どこから来た」


 ロビンは渋い表情で「申し訳ありません」と答えた。


「ケヴィン王子はどうした……!」


 そこでようやく、レギーナははっとした。


 つい先週、百合の花とともに送ってきた手紙に、南部の保養地で兄と避暑旅行をしている、と書いてきていた。


 道理でレギーナが怪我をしてからロビンに情報が伝わるまでが早いはずだ。ロビンはもともと王国南部、つまりナスフ侯国の近くにいたのだ。


「ひとりでここまで来たのか」

「……すみません」


 ロビンがうつむく。


「たとえ世界を敵に回してでも、レギーナの怪我の様子を見たいと思ってしまいました」


 アーノルドが怒鳴った。


「たかが女ひとりのために!?」


 そして、自分で言ってから、ひとりで傷ついた顔をした。


「たかが……女ひとりの、ために……」










 自然光の差さぬ地下牢に、松明の炎が揺らめいている。


 カロリーナはひとり膝を抱えて震えていた。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 自分はただ兄の頭上に帝冠を輝かせたかっただけなのに。

 なぜ、その兄が自分をこんなところに入れるのか。

 自分の行いはすべて兄の計画に貢献すると思っていたのに。


 石段をおりてくる音がした。

 カロリーナは弾かれたように顔を上げた。


 松明の炎に照らし出されたのは、この世で至上の存在である兄イヴァーノであった。


「お兄様」


 鉄格子をつかむ。


「これは何かの間違いですよね? 近いうちにきっと出してくださるんですよね?」


 兄の目が、冷たい。


「わたくし……、わたくし、お役に立てたでしょう? これからもお兄様の言うとおりにします。何でも言うことを聞きます。だからもうゆるしてください」


 そしてここから出して、と言おうとしたが、兄の言葉に遮られた。


「本当に何でも言うことを聞く?」


 がくがくと首を縦に振った。


 兄はひきつった表情でこんなことを言った。


「今すぐここでいなかったことになるのとみんなの前で火あぶりになるのとどちらがいい?」

「え……」

「お前のせいで僕の計画が狂った」


 兄の手も、鉄格子をつかんだ。


「この愚図が。もう取り返しがつかない」

「そんな……」

「始まるぞ」

「何が――」


 世界は真っ暗闇の中で何ひとつ見えない。




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