第18話 姉として、あなたが傷つくところは見たくないわ
カロリーナが席をはずしている間、カロリーナ抜きで婚約話を進めるわけにはいかない――とイヴァーノもアーノルドもそう思ってくれている――ので、ふたりの話題は国際政治の話題に飛んだ。
レギーナも一応教養として多少の地理と政治情勢のことは頭に入れているつもりだったが、ザミーン侯爵イヴァーノとナスフ侯国騎士団団長オットーの代理人アーノルドはもっとずっと身近に感じていることらしい。その内容の深さに、レギーナは聞いているだけでくらくらした。
まず、ファルダー帝国は北方が海に面している。その海岸線で一番大きな港町がパランデ王国の王都だ。南方は山がちな地方で、一番大きい城塞都市がナスフ侯国の城下町である。
ナスフ侯国とパランデ王国は、パランデ王国から見ると南、ナスフ侯国からすると北で国境線を接している。
大雑把に言って北方がパランデ王国勢力であり、南方がナスフ侯国勢力である。
ザミーン侯国はナスフ侯国の南西にあり、パランデ王国とは接していない。
ファルダー帝国の北方は、細長い湾を挟んで向こう側にまた別の帝国がある。
これが噂のディールーズ帝国である。
ディールーズ帝国はファルダー帝国とは違って中央集権を推し進めている国家らしい。貴族たちの力が
ディールーズ帝国とにらみ合う海軍国の先鋒はパランデ王国だ。
パランデ王国は基本的に海の国だ。したがってパランデ王国軍がしっかりしてくれれば今すぐにディールーズ帝国とどうこうなることはない、はずだ。
ナスフ侯国やザミーン侯国といった内陸の国々はそのパランデ海軍も欲しい。パランデ王国を手に入れたあかつきには、南方の国々も海洋に進出できる。貿易も外交も、もっと拡大できる。
レギーナはそんな話を真剣に聞いていた。これからロビンの妻になるにあたってもっと政治の勉強をしておかなければと思ったからだ。
逃げちゃダメだ。
自分はロビン王子のパートナーとして王国の政治に携わるのだ。
難しいけど、怖いけど、くじけちゃダメだ。
ただ、そんな話をずっと聞いていると意識も飛ぶというもので、ロビン様はあんまり潮風に当たっている感じじゃないな、などと脳内が脱線し始める。いけないいけない、話を聞かなくちゃ。
ぼんやり周囲を見回す。
円卓の席がひとつ空いている。
「――そういえば、カロリーナ様、どうしたのかしら」
レギーナがそう呟くと、イヴァーノが「あれ?」と自分の隣を見た。
「戻ってきませんね。何をしているのだろう」
ちょうどその時だった。
「アーノルド様、レギーナ様、失礼致します」
さっきカロリーナをお手洗いに案内すると言って場を離れていった侍女が慌てた顔をして戻ってきた。
「どうしたの? カロリーナ様に何かあった?」
「はぐれてしまいまして、城内で迷子になっておいでなのではないかと」
ひょっとして逃げられたんじゃ、と思ったが口には出さなかった。
確かにこの城は広い。しかも城攻めに備えて入り組んだつくりになっている。初めて来る人が案内のミスで迷ってしまうことはある。
「わたし、探しに行きます」
そう言ってレギーナは立ち上がった。
アーノルドが「俺も」と言いかけたが、レギーナが「めっ」と手を振る。
「お手洗いの近くにいるなら男の人に来てほしくないでしょ。ここは女同士なんとかするわよ」
「まあ、それもそうか」
侍女を連れて歩き出す。
「どちらのほうへ向かったの?」
「こちらです」
レギーナは侍女とふたり館の中へ入っていった。
お手洗いは基本的に館の壁際につくられている。壁の外から水を流して出すことができるように設計されているのだ。
運悪く一階の中庭近くが埋まっていたということで、ふたりは二階へ上がった。
この二階に上がるのが大変で、ドレスの裾をつまんで階段をのぼりおりしなければならない。着飾った女性がひとりで動き回るのは無理だ。先ほどのカロリーナが連れてきた侍女が寄り添ってくれていればいいのだが。
古い城は大きな石で作られていて階段が急だ。しかも踏み締められて磨り減っており、慣れない人にとってはかなり歩きづらい。
何事もなく見つかればいい。
いくつかある踊り場のうちのひとつに出た。
階段の上に金髪の少年の姿が見えた。テオドールだ。
「ねえ、テオドール!」
名を呼んで手を振ると、彼も振り向いて手を振った。
「あれー? 姉上は兄上のお見合いの付き添いなんじゃなかったのー? もう失敗したのー?」
「まあ、そう、なんだか、まあ、とにかくまだ途中なの! ただ途中でお相手の方がいったん母屋の中に戻られて――」
テオドールが手すりに身を乗り出しながら意地悪く笑う。
「逃げられた?」
「……違うと信じたい!」
階段の上と下で叫ぶように会話をする。
「余計なことするからさ! 放っておいてあげたらいいじゃないか、兄上は嫌がっているんだし」
「お兄様が自分はお母様の子じゃないから結婚できないなんて言うんだもの! ではお母様の子だったら結婚したのね、と思ったら、お母様の子であるわたしが推し進めるしかないじゃない!」
「それはまあ、困ったものだね。兄上も姉上もね」
大きな声で「とにかく!」と言う。
「あなたもカロリーナ様を探すのを手伝って! 金茶の長い髪の、濃き緋色のドレスを着た女性で、黒い服の侍女の女性を連れていると思うのだけど――」
次の時だった。
レギーナは目を丸くした。
テオドールの後ろに人影が見えた。
誰かがテオドールの背中に向かって手を伸ばした。
「テオドール!」
テオドールがきょとんとする。
「後ろ!」
レギーナが叫んだ。
テオドールが振り向こうとした。
後ろを向く前に、白い手が二本伸びて、背中を押した。
手すりに乗り出していたテオドールの体が、宙に浮いた。
「テオドール!!」
落ちる。
レギーナは自然と体が動くのを感じた。
「レギーナ様、テオドール様!!」
侍女の悲鳴が響いた。
走る。
手すりの真下、階段の途中に滑り込む。
レギーナの背中にテオドールのまだ華奢な体が落ちてくる。
このままだとテオドールが頭を打つ。
かといってレギーナも頭をぶつけるわけにはいかない。
うつぶせになるようにわざと前に倒れた。
その背中の上に、テオドールが背中からぶつかってきた。
レギーナは床に体の前半分を叩きつけた。
一瞬呼吸が止まった。
苦しい。
「姉上!」
すぐに抱え起こされた。
腕の主はテオドールだ。
「ゆっくり息を吸って」
テオドールに言われるがまま、肺に息を満たそうとする。
吸い切る前に咳き込んだ。
苦しい。
「誰か、医者!」
騒ぎを聞きつけた衛兵たちが駆け寄ってきて、うちひとりが「はい!」と返事をして駆けていった。
「どうしてこんなことを」
テオドールの顔が泣きそうにゆがむ。
レギーナは最大限力強く頬に力を入れたつもりで微笑んだ。
「姉として、あなたが傷つくところは見たくないわ……」
テオドールがレギーナの体をさらに起こした。
そして、腕に力を込めて抱き締めてきた。
ずっと小さな男の子だと思っていたが、その腕の力は予想よりずっと強く、この子も男の子なんだな、などということを思った。
「畜生」
そんな汚い言葉は使っちゃダメ、と言おうとして言えなかった。息苦しい。
テオドールはレギーナを床に下ろすと、階段を駆け上がっていった。
レギーナは床を這いずって階段の下に移動し、手すりの上を見ようとした。
テオドールが階段を二段飛ばしで駆け上がっていく。
彼を突き落とした犯人はまだそこにいた。
カロリーナの侍女だった。
彼女は蒼い顔をしてテオドールを見ていた。テオドールが近づくと腰を抜かしたのか床に座り込んだ。喉を詰まらせたような「ひっ」という声を出す。
テオドールの手が侍女の手首をつかんだ。
「どういうつもりだ?」
「わ、私はただ、お嬢様の命令で――」
「ずいぶんな忠誠心だな」
衛兵たちが周囲を取り囲んだ。
「ちょっと話を聞こうじゃないか」
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