第21話 夕焼けの中でも、あなたとふたりきりにはなれない
窓に、かつん、と何か小さくて硬いものが当たる音がした。
何だろう。
レギーナが窓に歩み寄ると、塔の下から呼ぶ声がした。
「レギーナ!」
ほっとして息を吐いた。
塔の上からでは顔かたちまでは見えないが、はしばみ色の髪、すらりと伸びた手足、上品で優雅な立ち姿からわかる。ロビンだ。
外は見事な夕焼けだった。西の山の端には燃えるように真っ赤な太陽が沈みつつあり、東の山の端には紫色の空に橙色の雲がたなびいていた。
季節はまだまだ夏だが、日が沈むのは少し早くなったかもしれない。夏至を過ぎたばかりだというのに、レギーナはほんの少し寂しさを覚えた。
「体調はどうですか」
彼がテオドールのような悪ガキがするように小石を投げたのだと思うと、それだけで胸がいっぱいになるほど嬉しい。
「元気です! もともと大して何かあったわけではありませんでしたし、ゆっくり休んで頭を整理できました」
「そうですか。それなら何よりです」
互いの顔を見つめ合う。目と目が合っている気がする。近くに行けば、彼のあの翠の瞳が見えるはずだ。
今すぐそばに行きたい。そばに行って抱き締めたい。
部屋の奥に引っ込んで廊下に出ようと思ったが、ロビンがなおも塔の下から話しかけてくる。
「アーノルド殿にたっぷり絞られました。こんなに叱られたのは生まれて初めてです」
レギーナは思わず「まあ!」と叫んでしまった。
「ひょっとしてあの後からこの時間までずっと?」
「はい」
「ごめんなさい! お兄様ったらどうしてそんなにロビン様を目の仇にするのかしら」
「違うと思います」
塔の上に届くほどの大声だが、ロビンの声は落ち着いていてどことなく優しい。
「アーノルド殿は僕のことを身内だと思ってくれているのだと思います」
「本当に?」
「僕のことを叱ってくれました。僕をこんなにちゃんと叱ってくれる人間は今までひとりもいませんでした」
何を言っているのかさっぱりだ。叱られることは嬉しいことではないはずなのに、彼はどうしてそんなに穏やかでいられるのだろう。これも人格の善性か。兄にはないやつだ。
レギーナは溜息をついた。
ロビンばかりが怒られる。
彼は何にも悪いことなどしていないのに。
いつかお祭りの夕べに見た野外演劇を思い出した。
ほんの少し何かが掛け違えていたら、自分たちは出会うこともなかったのだろう。自分はナスフ侯国の姫で、彼はパランデ王国の王子だ。父の深謀遠慮――というものがあるかどうかは疑問だが、たぶん――がなければ、敵同士の恋だった。
結ばれてはならない恋だったかもしれないのだ。
「ロビン様はどうしてロビン・パランデ様なの?」
窓から見下ろして問いかけると、ロビンの動きが止まった。
「お名前など捨ててください。ロビン・パランデ様がただのロビンだったら誰も苦労はしなかったでしょう。あなたも、わたしも。今はわたしもナスフの名前が重いです。こんなものを背負っていなかったら、わたしたち、誰にも邪魔をされずに結婚できたかもしれないのに」
彼はしばらく黙っていた。
ややして、こう答えた。
「もしあなたの言うとおり僕がこの名前を捨てたら――」
ぎゅ、と。心臓をつかまれる。
「ファルダー帝国は瓦解するでしょう。あなたの身はきっと今以上に危険にさらされます。真の意味であなたを守ることはできなくなります。もしも僕が名前を捨ててあなたを連れて逃げても――たとえどんなにそうしたくても、その先であなたに苦労をさせることになってしまうのです」
切ないせいで息が苦しい。
「僕はこれからもあなたに太陽の下を歩いてほしい。だからこそ……、だからこそ」
腕を塔の上に向かって伸ばす。
「僕はこの名とともに戦います。他の何でもなく、かけがえのないあなたのために」
涙があふれてきた。
自分はなんて幼くて愚かなのだろう。
向こう見ずであることと勇気があることは違う。すべてを捨てることと覚悟を見せることは違う。
「陽の光の下で笑うあなたが好きだから」
レギーナは駆け出した。
部屋を飛び出し、廊下を駆け抜け、階段を駆け下りた。
扉を開けると、そこに衛兵がふたり立っていた。
だが、レギーナに甘い彼らは見ないふりをしてくれた。
レギーナは安心した。
世界でふたりきりになるのはたやすいことだ。
でも、誰かに見られていることを意識することも大切だ。
ここでふたりきりにならないことが、自分の、そして彼の名誉を守る。
ロビンに駆け寄った。
彼の翠の瞳が見えた。
至近距離で見つめ合う。
手を伸ばした。
彼の頬を、支えるように、押すように、手の平で包んだ。
彼は一度その手をつかんだ。
少し離して、手の平を見る。
そこには今朝巻いていた包帯はない。かさぶたもほとんど取れて、かさぶたの下にはすでにしっかりとした新しい皮膚ができている。
彼はそれを確認したかったらしい。見て、確かめて、そして、自分の頬にレギーナの手を戻した。
抱き締め合うのは簡単だ。
でもそうしないことが、誠実であるということだ。
「何と戦うんですか?」
レギーナがそう尋ねると、ロビンが声を上げて笑った。
「そんな根本的なことを?」
そう問われると恥ずかしくなった。まだ何もわかっていないとでも思われたのだろうか。頬が真っ赤に染まったのを、夕焼けがごまかしてくれていたらいい。
「最終的には、ディールーズ帝国でしょう。それくらいはわかっています。でも、今はまだ何も起こっていませんよね」
「そのとおりです。まだ本当にディールーズ帝国が攻めてくると決まったわけではないのです」
「では、どう……?」
「まずはザミーン侯国でしょうね。ザミーン侯爵が何を考えているかはわかりませんが、確かに言えることがあるとすれば、彼はナスフ侯国を欲している、ということだと思います」
それはわかる。でなければレギーナと婚約しようとは思わなかっただろうし、アーノルドとカロリーナを結婚させようとは思わなかっただろうし、テオドールを殺そうとも思わなかっただろう。
「ナスフ侯国を併呑できれば、ザミーン侯国はファルダー帝国の反パランデ王国同盟の盟主になれる」
「そんなことさせるものですか」
「まあ、最後まで聞いていただけませんか」
「はい、すみません」
「そうなると、ザミーン侯爵は帝冠に手が届きます。次に狙われるのは僕の父であり兄でしょう」
そこで、ロビンの目の色が少しだけ変わった気がした。
「その後、僕が戦うべき敵は、ケヴィン兄上になるかもしれません」
レギーナは声を漏らすのを我慢するために頬の内側を噛んだ。
「僕は兄から主導権を奪い王国騎士団を率いて最前線に立たなければなりません。パランデ王国を、そして、ファルダー帝国を守るために」
「そのために、兄上様と戦われるのですか」
「はい」
ロビンには迷いはなさそうだ。
「兄は僕が自分より強くなることを何よりも嫌っているのです。僕もそれを察していたのでけして逆らわずにやってきました。でももう遠慮するのをやめます。必要なら兄を廃して僕が王位につきます」
レギーナはケヴィン王子と会ったことはない。話に聞いたこともない。体があまり丈夫でない、という情報しか持っていなかった。したがってこの兄弟の間に何が起こっているのかわからなかった。
ただただ悲しかった。
レギーナはアーノルドを愛している。
兄と対立しなければならないという状況が、根本から理解できない。
そんな恐ろしいことを、ロビンはやろうというのか。
自分との未来のために。
「ザミーン侯国が何をしてきても、パランデ王国は負けません。僕がいる限り、パランデ王国は絶対に負けません。僕がきっとパランデ王国を――そしてファルダー帝国をひとつにまとめてみせるので」
その声が力強い。
「……そして」
レギーナの手を、握り締める。
「パランデ王国とナスフ侯国の間にまことの平和が成ったあかつきには、結婚しましょう」
涙があふれてくる。
「……それ、お兄様には話したのですか」
「ええ、もちろん」
ロビンの笑顔が優しい。
「今の今まで、それで喧嘩していたのですから」
レギーナも笑ってしまった。
「仲良くしてください」
「はい、すみません」
「わたしにとっては、大事な兄なんです」
「はい、わかっていますよ。すみません、すみません」
ロビンが自分の頬からレギーナの手を引き剥がす。
「アーノルド殿は、レギーナが一番幸せになれる道を選んでくださると思います」
頷いた。
そこで少し、間が開いた。
ロビンもレギーナも、何も言わなかった。
レギーナは胸がいっぱいで喉の奥が詰まって言葉が出てこなかったのだが、ロビンは今、何を思っているだろう。
「……準備を、しましょう」
手が、離れた。
「戦うための、準備を」
反パランデ王国同盟からの宣戦布告が通達されたのは、それから間もなくのことだった。
その筆頭になっていたのは案の定、ザミーン侯国だった。
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