第10話 僕から目を離さないでください

 市場は今日も賑わいを見せていた。


 城下町で一番大きな市広場にはたくさんの屋台が並んでいた。多くは森で採れたベリーの店だが、服、靴、木工品、化粧品や子供向けの人形なども売っていて、生活に必要なものはほぼすべてここで揃う。


 小柄なエラはすっかり群衆に紛れてしまっていたが、向こうのほうがレギーナに気づいてくれて、手を振ってきた。レギーナはそれを見て小走りで近づいた。


「ロビン様たち、どうしてる?」

「あちらです」


 エラの指さすほうに目を向けた。


 屋台で串刺しの塩焼きにした川魚を買っていた。


 平気でかじりついている。あれだけ外で飲み食いするなと言ったのに。


 だが市場の屋台でランダムに手渡される同じ料理で毒殺される危険性はあまりないと思う。現に護衛官たちも一緒になって食べている。むしろおいしそうだ。四人は楽しそうに何やら喋りながら骨までしゃぶっていた。


 串と骨だけになったのを屋台のごみ箱に捨ててから、次に移る。


 ロビンと一行はまた別の屋台の前で立ち止まった。


 今度はパンに肉の腸詰めを挟んだものの店だ。


 また、四人分買った。

 そして、大きな口を開けてかじりついた。


「さっきからずっと何かを召し上がっていますね」


 食いしん坊だったらしい。


「まあ……、ご健康そうで何よりよね」

「そうですね。お背が高いし、筋肉もあるし、あのお体を維持するには食べ物が必要なんでしょうねぇ」

「そういえばお兄様もわたしの三倍は召し上がるわ。テオドールも」

「テオドール様は育ち盛りの食べ盛りだからというのもありそうですが――あ、完食されたようです」


 一行は今度ベリーの屋台の前に止まった。

 ブルーベリーをジョッキで買っている。

 王子様がジョッキに手を突っ込んでブルーベリーを食べるのはやめなさい。


「思っていたほど上品な方でもないのかも……?」

「どうします?」


 エラがにやにやと笑っている。


「パランデ王国の王子という身分が嘘だったら」


 考えたこともなかった。


 レギーナが雷に打たれたように硬直していると、エラが失言したのに気づいたらしく、慌てて「冗談です」と言った。


「パランデ王家は下々の者に慣れ親しんでおいでなのかもしれません、ロビン王子のおじいさまの代に王となられた新しいおうちの方ですし」

「暗に歴史が浅いと言うのはやめなさい」

「はい、ごめんなさい。我らがナスフ家が四百年の伝統をもつ名門なので、つい」


 そうこうしているうちにまたロビンたちが歩き出した。レギーナとエラは慌てて後を追いかけ、市場の向こう側、馬車の行き交う大通りのほうへ躍り出た。



 城下町は山間やまあいの町なので坂が多い。山をぐるりと迂回するように整備された大通りだけが平らな幅広の道路で、脇道は坂か階段だ。しかも細くて狭い。


 迷路のような町並みだからこそ難攻不落の城塞都市として生き残ってきたのだが、こうやって歩いてみると生活には不便だ。鬼ごっこをしたらあっと言う間に相手を見失ってしまう。


 一行が通りの角を左にひとつ曲がったので、レギーナとエラもそちらの方角を覗き込んだ。


 細い路地は下り坂になっていて、突き当たりは川だった。まっすぐ数十歩歩けば川岸だ。


 その大通りと川までの間に、いくつもの細い路地、細い階段がある。


 どこかでどちらかに曲がったのだろう。見失ってしまった。


「……どうしよう」


 エラが「もうやめましょう」と訴えた。


「城に帰りましょう。もう充分ですよ。これ以上深入りされてレギーナ様の御身に何かあっても困ります」

「ここまで来たのに?」

「それに先ほども申し上げましたが、こんなの失礼ですよ。いいじゃありませんか、夜は宿屋でおとなしく過ごされて昼は市場でたくさん召し上がられる、それでご満足いただけませんか」


 レギーナは唇を引き結んだ。


 確かに、これはどこまでやればいいのだろう。何を見れば自分は満足するのか。

 こんなことをしていたなんて、ロビンには言えない。

 言えないようなことは、すべきではない。


 ふらふらとさまようように川のほうへ向かって歩みを進めた。


「散策。そう、これはただの散策よ」

「レギーナ様?」

「もういいの。わたしもお散歩した、ということで」


 はあ、と溜息をつく。


「わたしもずっとお城にいてこの城下町をこんなに歩き回ったことはなかったし、いい勉強になったわ。ロビン様のおかげ。そういうことにして、そろそろ帰りましょう」

「よかった……!」


「最後にちょっとだけ川を見たいわ。川岸で休んでから城に戻りましょう」

「そうですね、レギーナ様も歩き疲れましたよね。わかりました、少し川に行きましょう」


 ふたりで坂を下った。


 ところがまたこの坂が急なのだ。


 坂道というものは、上り坂より下り坂のほうがきつい。

 しかも足元は石畳だ。


「思っていたより歩きにくいわね」


 などと言っているそばから、だ。


 レギーナは、自分のスカートの裾を踏んだ。


「あっ」


 体が前に向かって傾いた。


「レギーナ様っ!」


 エラの悲鳴が響いた。


 視界が揺れる。前のめりになる。


 まずい、転ぶ。


 自然と腕が前に出た。人間は転びそうになると地面に手をつこうとするものらしい。

 無意識に伸びた腕の下、脇のあたりに、たくましい腕が差し入れられた。


 浮遊感が止まった。


「危ない」


 温かい。


 誰かがレギーナの脇から胸の下あたりを抱えてくれている。おかげで助かった。


 それでもまだ前のめりになったままの不安定な姿勢を正したくて、腕を抱きかかえたまま体勢を整えた。


「ありがとうございま――」


 腕を出してくれている人物の顔を見て、レギーナは蒼ざめた。


「す……」


 ロビンだった。


 彼はレギーナを抱えたまま苦笑した。


「あなたでよかった。刺客にしては不慣れな雰囲気だと思っていたのです」

「……えーっと……」

「宿屋を出たあたりからずっと後をつけてきていたでしょう」


 バレバレだった。しかもかなり早い段階で割れていた。


「市場で飲み食いしているあたりで人混みに紛れて何かをしてくるかな、と思っていたのですが、そんなことはありませんでしたし。では、ひとけのないところに行けば何か仕掛けてくるかな、と思ってこうして張っていたら、こんなことに」


 呆然としていると、彼は左腕でレギーナを抱えたまま右手を伸ばし、レギーナの鼻をつまんだ。


「んあっ」

「何が知りたかったのですか?」


 目を細め、くすくすと、笑われた。


 笑ってくれた。


 それに安心した。


 レギーナは涙が込み上げてくるのを感じた。


「ごめんなさい」

「どうして謝るのです?」

「わたし、お兄様に変なことを吹き込まれて――ううん」


 首を横に振る。


「わたしがロビン様を信じられなかったのがいけないんです。ロビン様が町中でわたし以外の女性と会っていたらどうしよう、って。わたしより魅力的な、お色気があって大人の、年上の綺麗なお姉さんと楽しくしていたらどうしよう、って」

「色気があって大人で年上というのがどこから出てきた発想なのか謎ですね、僕は一言もそういう女性が好みだとは申し上げていないと思うのですが」

「全部わたしの妄想ですごめんなさい……」


 やっとレギーナは地面にまっすぐ立つことができた。


 レギーナの姿勢が整ったのを確認してすぐ、ロビンは腕を離してくれた。


 つかず離れず、会話をするのにちょうどいい距離を取る。


「ご安心ください、あなたより魅力的な女性には出会ったことがないですし、これからもあなた以上の方には出会わないと思うので」


 その笑顔があまりにも優しくて、レギーナはよりいっそう自分が情けなくなってくるのだった。


「ご自分に自信がないのですね」


 宿屋の主人にも言われたことだった。ロビンにも指摘されたからにはきっとそうに違いない。


「心配しないでほしいです。僕はアーノルド殿のお許しさえいただければあなたを今すぐにでもくにに連れて帰りたいと思っているのです」


 声が震える。


「浮気されてるかも、なんて考えて尾行するような女でも?」


 ロビンが「そうですね」と息を漏らす。


「そこまで信用させることができなかった僕の落ち度です」

「そんなこと……っ」

「これからは信じてください。僕はあなたから目を離さないので、あなたも僕から目を離さないでください」


 その言葉があまりにも温かくて、レギーナは自分の頬に涙がこぼれ落ちるのを感じた。


「ごめんなさい」

「今回はもういいので、次回からはまず僕本人に確認してからにしてくださいね」

「はい……ごめんなさい……!」


 ロビンの手がふたたび伸びた。

 彼の右手がレギーナの左頬を、彼の左手がレギーナの右頬を押さえた。

 彼の手は兄同様剣だこがあって皮膚が厚そうだった。繊細そうな、上品そうな顔立ちに似つかわしくない、力強い手だった。


「また泣かせてしまいました」

「泣けば泣くほど浄化されていく気がします」

「それならいいでしょう。すっきりするまで泣いてください」


 レギーナはエラやロビンの護衛官たちのことをすっかり忘れ去ってしばらくその場で泣いた。




 帰宅してまず、レギーナは屋上に走った。


 扉のかんぬきとして使われていた棒を握り締め、籐の椅子に座って日光浴をしている兄の頭に向かって、思い切り振り上げた。


 さすが帝国一の騎士である、兄はレギーナが振り下ろした棒を片手でつかんで止めた。


 その隙を狙って、兄の脛を思い切り蹴った。


 兄が言葉にならない呻き声を出しながら自分の脛を押さえた。


「何事だ!?」

「兄様のせいでロビン様にご迷惑をおかけしたじゃない、このすっとこどっこい!」

「俺が? あの男に? なぜ」

「兄様が、ロビン様が遊んでいるから女慣れしている、とかおっしゃるから! 確かめに行ってしまったじゃないのっ!」


 痛みが治まったらしい、彼は鼻で笑った。


「婚約者に女と遊んでいますかと聞かれて正直に遊んでいますと答える男があるか」

「わたしはロビン様を信じます。絶対絶対絶対そういうお方ではありません」

「また騙されてきた」

「ご自分が女性に不人気だからってひがむのをやめたら?」


 アーノルドが硬直した。


 今度はレギーナが鼻で笑った。


「ロビン様が! お優しくてかっこよくていともたやすく女性の心を射止めてしまう素晴らしいお方で! ご自分がそうではないから! ロビン様に嫉妬をするのはやめたらーっ!?」

「お……お前……っ!」


 その日は夕飯の時間まで兄妹の口論の声が絶えなかったという。





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