第3話 これがわたしとわたしの王子様の出会い

 それからどれくらい経っただろうか。


 待てど暮らせど、レギーナの新しい婚約者候補というのは現れなかった。


 婚約者候補はレギーナに会いたくないのだろうか。母親似の顔のおかげで今まで肖像画の交換の段階で拒まれたことはなかったが、さすがにいよいよダメか。レギーナの悪評はどこまで広がっているのだろう。


 父が何も言ってくれない。


 しかし父の判断は正しいのかもしれない。


 新しい婚約者候補がどんな人なのか知ったら、レギーナはきっとひとりで勝手に盛り上がってしまう。会いもしないうちから恋に落ち、断られたら失恋したものと思い込んで落ち込んでしまう。

 父はきっとそんな娘の心身を案じてくれている。きっとそう。たぶん。ちょっと無神経な人だけど、それくらいはさすがに。


 あーあ、物語のように白馬に乗った優しくてかっこよくてお金持ちで社会的地位のある王子様がやってきてわたしを奪ってくれないかしら……。


 窓辺、というか窓枠に座り込む。

 春も終わりに近づき、外は明るい夏空に変わろうとしていた。レギーナのドレスも袖が短くなり、手袋をはめなくなった。


 レギーナの部屋は三階だ。身分の上では一応お姫様なので外から入り込めないよう高い塔の中の部屋をあてがわれている。


 螺旋階段を三階分下りてすぐ出入り口だ。そんなに複雑な構造の塔に閉じ込められているわけではない。ドレスの裾をたくし上げて駆け下りればあっと言う間だ。


 したがってそれほどすごいところに住んでいる気はしていないが、こうして地面を見下ろすと結構高い。そこを歩く衛兵や使用人の顔は見分けがつかなかった。


 小鳥もここまで高くは飛べない。

 窓の外に手を伸ばして、物語のヒロインになりきって「おいでなさい」と言ってみたが、その手に留まる生き物はいなかった。

 パンくずでも用意すればきっと、と思って空を見上げると、凶悪そうなトンビが飛んでいる。

 いつだったかテオドールに「姉上も鷹狩りどう?」と誘われたことを思い出した。興味はあるがあれは男の子の遊びだ、我慢我慢。


 そんなことをつらつら考えていると、噂をすれば影である。


「あ、いたいた!」


 塔の下からテオドールの声が聞こえてきた。


「姉上ー! ちょっと下りてきてよー!」


 見下ろすと、金髪の少年が大きく手を振りながらぴょこぴょこと跳ねていた。顔は見えないが間違いなくテオドールだ。


 彼の隣には見知らぬ青年が立っている。茶色い髪に簡素なシャツとズボンの青年だ。お友達だろうか。テオドールは目を離すとすぐ城下町をほっつき歩く上アーノルドやレギーナと違ってお調子者で口がうまいので友達がそこらじゅうにいる。


「どうせ暇なんでしょう?」

「ひとを暇人みたいに言わないでよ!」


 窓枠に腰掛けたまま大声で返す。


「用があるならあなたのほうから上がってきなさいよ! この姉上様を自分のほうに呼び出そうなんて百万年早いわ!」

「お客様を三階まで行ったり来たりさせないでよ! それに僕は兄上や姉上のような体力おばけとは違うんだからね!」


 顔をしかめる。曲がりなりにも騎士の家の息子が大した度胸である。


「早く! 空に手を伸ばして舞台女優みたいに歌っていたことをみんなにばらすよ!」

「歌ってないわよ!」


 手を伸ばしたところは見られていたのか、恥ずかしい。


「いや一番ばれないほうがいい相手にはもうばれているんだけどさ!」


 そう、テオドールに余計な情報を握られると後でどのように使われるかわからない。


「下りてきて! 体力おばけ! はねっかえり! あんぽんたん!」

「どうしてあなたにそこまで言われないといけないのよーっ」

「今のうちから下げておいたほうが期待をさせなくていいかなと思ってーっ」


 腹が立ってきたので、レギーナは一回部屋の奥に引っ込んだ。


 扉を開ける。掃除係が隅々まで磨いてくれてつやつやの床の廊下に出る。


 角に防火用の水の入った桶が置かれていた。


 これだ。


 レギーナは桶を手に取った。

 テオドールいわく体力おばけのレギーナの腕では多少の重みなど何ということもない。

 両手でしっかり縁を握ったまま部屋の前に戻り、扉を蹴り開け、窓辺に戻った。


 弟のくせに生意気だ。ちょっとは頭を冷やしなさい。


 塔の下に向かって桶を引っ繰り返した。


 テオドールの「あーっ!?」という絶叫が響き渡った。


 ざまあみろ。


 そう思って下を見て、はっとした。


 テオドールだけではなく、テオドールのすぐそばにいた青年も盛大に水をかぶっていた。


 これはさすがに可哀想かもしれない。


「今すぐ謝らないと後悔するのは姉上だからね」


 仕方なく、レギーナは部屋を出て階段を下りた。桶を抱えたまま、だ。どうせ下に行くのならついでに井戸から水を汲んできてやろう、なんと使用人思いの姫君か。


 塔の一番下に辿り着き、桶を小脇に抱えたまま片手で頑丈な鉄の扉を開けると、まぶしい夏空が広がっていた。いいお天気。テオドールに構っていないでどこか遠乗りでもしたい。


 テオドールと客の青年がそこに突っ立っている。


 青年の顔を見て、レギーナはぽっと頬を赤らめた。


 美しい青年だった。高い鼻筋、少し薄いが形のいい唇、アーモンド形の二重の目にはオリーブに近い翠の瞳が埋まっている。

 年はレギーナより少し上だろうか。背丈はかなりの高身長で、おそらくテオドール以上アーノルド未満だろう。服が濡れて肌に張り付いているためにしなやかな筋肉の形が見えていた。

 よくよく見ると、シンプルに見えた服は絹のシャツに綿のズボンで、そこそこ高そうだった。


 彼は、水をぶっかけられたにもかかわらず、穏やかな笑みを浮かべてレギーナを見つめていた。上品そうな笑みだった。


 濡れたはしばみ色の前髪を右手で掻き上げ、綺麗な額を出す。


「ごきげんよう」


 レギーナはたじろいだ。


「ご……ごきげんよう」

「お元気そうで何よりです」

「わたしたち、どこかでお会いしましたっけ」

「いえ、初対面ですが、朗らかで健やかな女性がいいな、と思っていたので」


 背中に冷や汗が流れた。

 レギーナの脳内で警鐘がカンカンカンと鳴った。

 まずい。やってしまったかもしれない。


 彼が、物語の騎士のように膝をつき、レギーナの手を取った。


「お初にお目にかかります。パランデ王国第二王子、ロビンと申します」


 やってしまったかもしれない、じゃない。やってしまったのだ。


 彼――ロビンは困ったように微笑んでいた。


 や、やってしまった……。


「ええっと……、殿下」

「はい」

「本日は……どのようなご用件で……」


 ロビンが立ち上がる。


「ナスフ侯爵がご息女の婚約者を探しているとお聞きして、これはぜひともお会いしたいと思って馳せ参じましたが、ご迷惑でしたか?」


 頭頂部から爪先まで雷が落ちたような衝撃が走った。


「えーっと……」

「はい」

「これ、あげます……」

「ありがとうございま……す?」


 桶を押しつけられ、ロビンが首を傾げた。


 どうしたらいいのかわからなかった。


 おしまいだ。




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