焦燥と絶望


 しかし、そこから私はしばらくトウのことから離れた生活を送るようになる。中学一年の冬に母が亡くなり、私は都会にいる父親の下に戻ることになったのだ。毎年春のお彼岸の頃、陽報に戻ることもあったがトウに出会うような機会には恵まれずにいた。

 私も初めの頃はどうにかして真冬の陽報に行きたくて仕方がなかったのであるが、何度となくその機会を逸し続けているうちにその熱も薄れていった。もちろん、トウのことを忘れてしまったわけではないけれど、受験や就職と言った現実でなすべきことに追われる毎日の中では、どうしてもトウのことは頭の片隅に追いやられがちだった。

 しかし、そんな私の意識を再びトウのことに引き戻す出来事があった。私が大学を卒業しアウトドア関連の出版社に勤めて数年が経った頃、たまたま読んでいた新聞の社会面に暖冬についての記事が載っていて、その中で陽報に生息する幻の動物であるトウの目撃情報がここ数年で急速に減りつつあるという話が載せられていた。

 その記事を目にした私は、横っ面を思い切りひっぱたかれるような衝撃を受けたのを覚えている。私が陽報やトウのことから離れている間に、事態は深刻な方向に向かいつつある。なんでで今まで陽報やトウのことに意識を向けてこなかったのかと、一瞬強い自己嫌悪を抱いたほどだ。私の脳裏には、子供のころに見た白く美しいトウの姿が、今目の前にいるかのように鮮やかに甦りつつあった。

 それから私は半年という時間を掛けて勤めていた会社を辞め、陽報の近隣で働き口を見つけると、昔の母の実家にほど近い集落にある古民家を借り受けて暮らし始めた。

 それからの私は春から秋にかけて近隣の農家の手伝いや旅館などの下働きで蓄えを作り、冬はトウの姿を求め雪原や雪山に繰り出す日々を送るようになった。収入が不安定で生活は厳しかったが、独り身であった私にとって、家族に気兼ねすることなくトウのことだけを考えていられる日々は、むしろ好都合だった。

 だが、そんな私の思惑とは裏腹に、年を追うごとに暖冬の影響は顕著になりつつあった。子供の頃は冬に二メートルを超えるほど積もっていた雪がここ最近は一メートルも積もれば良い方で、ひどい時などは一メートルにも満たない雪しか降らなかったほどだ。私もトウを探しに行く際に、より深く山に分け入っていかねばならなかった。そして、それだけ深く山に入っても、トウの姿を見ることはかなわなかった。

 そして季節は巡り、再び陽報に移り住んで何度目かの冬が巡ってきたとき、それは起こった。



 その年は例年に比べると暖冬傾向は弱まり、大雪が降ることも見込まれるという中期予報が先日発表されていて、私は今年こそトウを見つけようと意気込みながら家路を急いでいた。その日の空は曇り模様で、冷え込みもきつく翌朝までには雪が舞うということでもあり、雪が降る前に帰りたいという気持ちも私の中にはあった。

 当時私が働きに出ていた近隣でたった一つの旅館は峠の途中にあり、通勤には車が欠かせない。田舎暮らしほど車が必要不可欠になるということを、私は陽報での二度目の暮らしで嫌というほど思い知らされている。どこへ行くにも車は必需品で、だからこそ事故などを起こさぬように気を付けて、常に安全運転を心掛けていた。

 勝手知ったる通勤路であるとはいえ、朝夕には野生の動物が道を横切ることも多く、特に夕暮れの時間帯に街路灯の少ない山道を走るときには慎重に慎重を期さねばならない。

 法定速度を守りながら山道を下って集落まで戻ってきたとき、私は少しほっとした。いつものことではあるけれど、それでも動物たちにぶつかって怪我をさせたり、ましてや死なせてしまうことにでもなったら、いくら後悔してもしきれない。しかし、家の周辺まで来れば安心だという思い込みが私にはあった。

 そして、そこでちょっと気を緩めてしまったことが、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう。

 家まであと少しというと所まで来たところで、走らせていた車にドンという軽い衝撃が走る。

 やってしまった。私はすぐに車を路肩に止めて外に降りた。何が起きたのか、などと考える必要もない。動物を視認しきれずにはねてしまったのだ。

 私が強い後悔を抱きながら来た道の方をゆっくりと確認すると、そこには兎ほどの大きさをした動物の体が転がっていた。血を流していて、ピクリとも動かない。

 私はその瞬間、とてつもなく嫌な予感がした。急いでその動物の体に駆け寄り、正体を確認する。

 その動物は血にまみれていたが茶色の毛をしていた。耳は兎ほど長くないが丸い尻尾を持っていて、全体的に野兎によく似ている。しかし、私にとって兎によく似た別の生き物と言えばトウしかいない。



 これはトウの死骸だ。

 私は……この手でトウをひき殺してしまった。



 私はトウの死骸の前で放心した。体中から血の気が引いていく。

 ほとんど誰も通ることのない田舎道の真ん中で、私はただただ立ち尽くしていた。いつの間にか涙を流していたことにすら気付けないでいた。

 トウを追い求めて毎日のように外へと繰り出していた子供時代、一瞬であったがトウを見つけて大喜びしたあの日の記憶が何度も私の脳裏に甦り、私の心を繰り返し苛む。

 トウともう一度出会いたい、という純粋な思いを踏みにじりトウを殺めてしまったのは私自身という皮肉。あまりにも救いようのない現実に打ちのめされた私は、寒空の下、トウの死骸の前でただ呆然と涙を流すことしかできなかった。



 大分時間が過ぎて、ようやく気を取り戻した私は手持ちのハンドライトを使って、もう一度目の前の死骸を確認する。私もトウのことをそれほど詳細に見たことがあったわけではなく、判断の根拠は勘とトウについて書かれた書籍の知識が頼りだったが、この死骸がトウであるのは間違いがなさそうだった。

 唯一引っかかるところがあるとすれば、毛の色が白ではなかったことだが、トウの真っ白な毛は雪の中で活動するための保護色のようなもので、本来の毛色は地味な茶色であるということが、以前に読んだ学術書に書かれていた。

 私は一旦車に戻ると、助手席に置いてあった新聞紙を持ってきて慎重にトウの死骸を包むと車に乗せて、その場を後にした。本来は役場などに届け出なければならない事故であったが、私はトウの哀れな姿を人目に触れさせたくなかった。

 勿論、かつてトウを見つけた幸運な人間が、不可抗力とはいえトウを車でひき殺してしまうという「不祥事」を隠そうとした、などという批判もあるだろう。しかし、いや、だからこそ、私の中ではせめてトウの遺骸を自分の手で弔ってやりたいと考えたのだ。そうでもしなければ、私は私を許すことが出来なかった。

 私は家に帰るとトウの遺骸を庭先に安置し、その上にストーブ用の薪を並べて火をつけた。トウの遺骸が静かに火の中に消えていくのを、私はいつまでも飽くことなく眺め続けていた。

 その翌朝、空からは細かな雪が舞い降りていた。私は残されたトウの遺灰を集めると車を走らせ、良くトウの姿を探しに訪れていた見晴らしの利く広い野原へ赴き、トウの遺灰を埋葬した。墓標は立ててやれないが、どのみちこのことを知るのは私だけである。私はトウを埋葬した場所で静かに手を合わせて冥福を祈ると、静かにその場を立ち去った。



 その後、私は冬の終わりとともにトウの探索から手を引いた。表向きはそろそろ身を固めて家庭を持つために働くということを口にしていたが、実際はトウをこの手で殺めてしまったことによる途方もない虚無感がその原因であったのは言うまでもない。なろうことなら陽報から離れて暮らそうかとも考えたが、それはギリギリのところで思いとどまった。

 今度陽報から離れてしまえば、私は間違いなく陽報のこともトウのことも忘却の彼方に置き去りにしてしまうだろう。全てをなかったことにして、何事もなく暮らそうとするだろう。しかし、死んでしまったトウのことを思えばそのようなことは許されるはずもない。陽報に残ったのは、その時の私に出来た精一杯の責任の取り方だった。

 私は知り合いの農家から小さな農地を借り受けると、農家として再出発した。それまで農作業の手伝いもしていたとはいえ、自分の農地を持つとなると勝手が違ったが、焦らずじっくりと技術を磨いた。

 また、冬にはトウの探索に訪れる人たちにアドバイスも行っている。私は気が付かないうちにトウの探索に情熱を燃やし続けた人物としてそこそこ有名になっていたらしく、探索からは引退をしたにもかかわらず多くの人が助言を求めて家を訪れた。

 私が訪れた多くの人たちに念を入れて伝えたことがある。

 それは、「謙虚に、生き物を慈しむ心を忘れないように」ということだった。

 結局のところ、トウを見たいと思うことも、保護したいと思うことも、人間のエゴから出てきたことに違いない。どんなに美辞麗句を並べ立てようと、やっていることは人間が己の欲求を満たそうとする自分勝手な行動なのだ。そもそも人間がいなかったら、トウだけではなく、ほとんどの動物たちが今も野山でのんびりと自由に生きられたかもしれない。

 人間がすべて悪いというつもりは無いけれど、人間のやっていることがトウを追い詰めてしまっているのかも知れないという、そういう意識だけは持ち続けるべきだと私は思う。

 私は、結局それが出来なかったがゆえにトウを死なせてしまったのだから。

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