トウと過ごした冬

緋那真意

憧れと邂逅

 今年はトウを見られるだろうか?



 トウというのは陽報ようほうと呼ばれる小さな集落の周辺にのみ生息しているとされる、白い兎によく似た丸い尻尾を持つやや耳の短い小動物で、本当はもっと立派な学名もあるらしいが、私にとってトウはトウ以外の何物でもない。

 トウは冬から春の時期にかけて目撃されることが多い。特に真冬の時期に活発に動き回ることが知られていて、雪が降りしきる中を白い体を躍らせるように駆け抜けていくトウの姿はとりわけ美しく、陽報を訪れる人のみならず元々陽報に住んでいる者たちもみな一様にトウに出会うことを楽しみにしていた。

 しかし、トウの生息数は年を追うごとに減ってきているようで、トウを目撃する人の数も年々減りつつあった。とある高名な学者先生の言うことには、温暖化の影響でそれまで冬眠をしていた動物たちが冬でも活動するようになり、その結果トウがえさとして他の動物に狙われているのではないかということだった。

 それが本当か、それとも出鱈目なのかは分からないが、ともかく確実にトウの姿を見れる機会は失われつつあるのは確かであり、トウを保護するための法律や条例なども制定されたが、その成果ははかばかしいものではなかった。

 多くの人たちが心配する中、再び冬が訪れる。



 私がトウを見たのは、小学生の時だった。

 母が病気の療養のため生まれ故郷であった陽報に転居することになり、私も母に付き添う形で移り住むことになったのだ。

 最初のうちは友達と別れ別れになり住み慣れた場所を離れた寂しさから引きこもりがちだった私は、やがて陽報にあふれる豊かな自然に引き込まれた。

 春は草花が咲き、夏はたくましい緑に満ち、秋は木々が美しく色づき、冬はしんしんと降る雪に包まれる。そして、季節の移ろいとともに代わる代わる現れる生き物たち。都会に住んでいる時には想像も出来ないほど、豊かに表情を変えていく陽報の風景に、私は心を奪われていった。

 そして、陽報での暮らしの中で私がもっとも楽しみにしていたのが、トウと出会うことだった。

 元々トウのことは母や祖父母の話で良く聞いていた。寒い時期にしか姿を見せない、まるで妖精のような生き物。祖父母は一度も見たことがないという話であったが、母は子供の頃に一度だけ見たことがあったのだという。

 子供の頃に友達と遊ぶために広い雪道を歩いていた母は、その途中で道の真ん中を横切っていくトウを見たそうである。勿論、母が見たというだけで証拠も何もないのであるが、母がトウを見たということはあっという間に集落全体に広まり、冬の間母は学校でちょっとした英雄扱いをされたらしい。

 母自身にとってもこの時トウと出会ったことは非常に大きな出来事であったようで、大学で動物学を学ぶことを志すようになったり、病気の療養で陽報に戻ってきたのも、トウに出会ったことがきっかけだったと語っていた。

 私も母の語る物語を聞くにつけ、自分もいつかトウに出会ってみたいと思うようになっていた。冬が訪れると、いつにも増して張り切って外に遊びに出かけたし、雪が降ればトウに出会えるのではないかと心を躍らせた。

 しかし、中々トウに出会うことは出来なかった。当時はトウを親子二代にわたって見かけたものはいないという迷信のような噂も良く知られていて、実際私の母はトウを見ることが出来たが、祖父母は見ることが出来ていない。そういうこともあり、まだ幼かった私も子供心にやっぱりダメなのかなあ、と思うことが少なからずあった。しかし、それでも諦めきれない私は冬が来て雪が降るたびにトウの姿を追い求め続けていた。



 私がトウと出会ったのは小学校六年生のとき、冬も終わりそろそろ卒業式の練習が始まる頃の話だった。

 その年の冬は大雪でトウの目撃情報も早くから届いており、私も内心で今年の冬が最大のチャンスかもしれないと考えていて、雪の降り始めたころから頻繁に外に出てトウを探していたが結局出会うことはかなわず、ただ時間だけが過ぎていった。

 やっぱり自分にはトウを見つけることが出来ないのだろうか。そんなことを考える日も多くなっていた。周囲の友人たちも卒業を控えて中学校での生活に思いをはせていて、未だにトウのことを気にかけているのは私ぐらいのものだったことも、そうした考えに影響を与えていた。

 しかし、出会いというものはいつも唐突に起こるものらしい。



 三月も間近の頃、いつものように学校から下校する途中のこと。前日からの大雪で道の除雪も追いついておらず、私はざくざくと足音を立てながら一人で雪道を歩いていた。

 家までもう少しというところまで来て、私はふと立ち止まる。何か小さな動物のようなものが雪の上を歩いているような、そんなかすかな物音を感じ取ったのだ。

 ただ私自身、この時点ではその物音がトウの足音であるとは想像していなかった。家の付近には野良猫やイタチが住んでいるらしいことは知っていたし、無意識の思い込みでトウは民家の周辺には近寄らないだろうと考えていたのもあった。

 だから、その場に立ち止まって様子を伺っていた次の瞬間、不意に道端から真っ白なふわふわの毛に包まれて、丸い尻尾をもち、耳のやや短い兎のような姿の動物が現れて目の前を駆け抜けていったとき、私はその生き物が一体何であるのかすぐに理解が出来なかった。

 その生き物は道の反対側まで行くと一旦動きを止めて私の方を向き、かすかに首を動かすとすぐに向きを変えて、丸い尻尾を振りつつその場から姿を消していった。

その生き物が姿を消した後になって、私はその生き物がトウであったことに気付き慌てて後を追おうとしたが、既にトウの姿は雪に隠れて見えなくなってしまっていた。

 私はそれから慌てて家に帰ると、まず真っ先に母にトウらしき生き物を見たことを報告した。私の話を聞いた母はそれは間違いなくトウであると言い切り、そして「良かったわね」とねぎらいの言葉をかけてくれた。

 次に私の話を聞いた祖父母も驚くやら喜ぶやら大変に興奮してくれて、すぐに役場に連絡を入れている。私が家に帰ってきたころには既に夕暮れが近かったにも関わらず、役場の人も大慌てで駆けつけてきてトウを見かけた場所まで案内することになった。

 民家のほど近くにある道端というのは、トウを見かける場所としてはかなり稀少であったそうなのだが、幸い人通りの少ない場所でトウのものらしき足あとが残っていたのもあり、私の見た生き物がトウであったと役場の人も認めてくれた。

 私はようやく念願のトウを見られたという満足感を胸に、その日はぐっすりと眠ったのをよく覚えている。

 翌日には里中に私がトウを見かけたという話が知れ渡っていて、学校の朝礼で私がトウを見かけた話を披露したり、ご近所のおじいさんからお祝いに小遣いをもらえたりと大変な騒ぎであった。

 私はそんな騒ぎを横目に、ようやく見ることのできた真っ白なトウの姿を何度となく思い返していた。母から聞いて思い浮かべていた姿より、実際のトウは何倍も美しく、愛らしかった。

 恐らくは幼き日の母も初めてトウを見た時、私と同じように強い感動を覚えたに違いない。それはきっと、白く輝くようなトウの姿を見た人間なら誰しもが感じることだろうと思う。私自身、大人になっても今回の経験を忘れないようにしようと、その時は強く決意をしたものである。


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