斜陽

清野勝寛

本文

斜陽



 夕焼けが、全部溶かしてしまえばいいのに。女は男の腕に抱かれながら、そんなことを考えていた。彼方に沈んでいく眩しい光に目を細めていると、より一層強い力で男に抱きしめられる。痛みで顔の皺を深くしたが、彼にその顔が見えることはない。

「どうしたの、急に」

 女は普段以上に声色に気を使い、男の右耳に囁いた。真面目で、誠実で、それでいて奥手な男。それを演じている男。屋内に二人きりであれば、強めの求愛も考えられなくはないが、人の目があるこんな橋の上で抱きしめてくるなんて、女にとっては想定外の行動だった。

「……時々、不安になるんだ。君が急に、僕の傍からいなくなってしまうような気がして」

 女の問いに、男は女を抱く腕の力を緩めずに答えた。ずいぶんとまぁクサい台詞を平気で吐くものだ、と女は思った。そんな台詞、頭の沸いた登場人物しか出てこない恋愛小説やドラマでしか聞いたことがない。同時に、どの口が言っているんだ、とも。

 女は知っていた。この男が、自分以外の他の女とも関係を持っていることを。恐らく一人ではないだろう。どれだけ痕跡を消したつもりでも、居住空間には「ニオイ」が残る。女が男の部屋を訪れる際に、時折その「ニオイ」がしていた。けれど女は、男を糾弾することも、男から距離を置こうとも思わなかった。だからといって、この男にそれほどの魅力があるとも、女は思っていなかった。ただ、面倒だったのだ。他人との関係を変えることが。空白を作ることが。形が変わったものを元に戻すのは、時間が掛かる。

 季節の変わり目ということもあって、この時間は少し肌寒いことが多いが、今は男の体温で包まれて暖かい。けれど、男は震えていた。顔を女の肩に埋めているので、女は表情を伺うことが出来ない。

「……おかしなひと。死にでもしない限り、音沙汰もなく何処かに行ったりなんかしないよ」

 抱きしめられたまま、女は男にそう告げた。でも、と男は声を荒げ、それから女の肩に手をやって、見つめあう形になってから、女に向かって言った。

「でも君は、僕を抱きしめ返してはくれないじゃないか! 好きだと……言ってはくれないじゃないか!」

 男は頬に涙をすべらせながら、女をもう一度抱きしめた。

 女は、男のことを考える。だから、どの口が、それを言うのか。いや、どの女にも同じことを言うのか。もしかすると、私だけ他の女と反応が違うのかもしれない。それで、警戒しているのか。そうまでして私を繋ぎ留めておきたいのか。何故。寂しさを埋めるなら、十分過ぎるほど相手がいるだろうに。


……ああ。逆か。早く私と離れたいのか。女は気付いた。面倒くさい人間は、男女問わず嫌われるものな。

 気付いてから、女は、急速に自分が冷たくなっていくのを感じた。男と触れ合っている箇所が、まるで金属にでも触れているかのように、自身の熱を奪われているように感じたのだ。

 そっと男の胸を押して、離れようとする。女を強く抱いていた両腕は、容易く女から剥がれた。

「大丈夫。ほら、帰ろう?」

 女は男に笑顔を向けてから、夕日に背を向けて歩き出す。男が付いてくる気配はなかった。


このまま、夕焼けが全部溶かしてしまえばいいのに。女は一つの影を睨みつけてから、男に振り返り、もう一度笑顔を作って手を振った。

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斜陽 清野勝寛 @seino_katsuhiro

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