第16話 オーバー・ザ・レインボーⅠ

「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」


 美智子がいつも通り電話に出ると、若い男性の弱弱しい言葉が聞こえてきた。


「あの……。相手方を訴えたいんですけど」


 相手方を訴えたいという相談は、圧倒的に女性が多い。しかし、今回のような男性側からの訴えもないことはない。


「はい。相手方を訴えたいとのことですね? それでは、まずはお客様のお名前と生年月日をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「ナラハシ、マコトです。平成十一年、三月四日」


 美智子はパソコンに情報を入力しながら、――若い子だな。なんてことを考えていた。


「はい、楢橋様ですね。それでは、事故の状況を詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「……実は、ネットで知り合って」

 と楢橋が恐る恐る話し出したが、ネットで知り合うこと自体は今の時代それほど珍しいことではない。問題はネットで知り合った相手の場合、相手方の情報に乏しいことが多いことだ。


「それでは、相手方のご連絡先はお分かりになりますか?」

「……それが、ブロックされたようで」


 美智子が問いかけると、ほんの少しの沈黙の後に楢橋が小さな声で答えた。


 しかし、美智子は落胆する素振りは見せない。ネットで知り合ったという案件にはこういう話はつきものだからだ。


「では、何か相手方の情報でお分かりになることはございますでしょうか?」

「あの、名前と、電話番号なら」


 その答えに美智子は少し安堵する。名前は偽名の可能性もあるが、電話番号の情報と突き合わせれば、精度の高い検索が可能だからだ。


「トウジョウ、カオル、です。相手の名前。電話番号は……」

 名前と電話番号を記録してから、美智子はまた連絡をする旨を伝えて電話を切った。


「……さてと」


 美智子は聞き取った名前と電話番号を警視庁の専用データベースに入力し、申請ボタンを押す。


 セックス免許制が施行されるに伴って、警視庁は免許取得者の個人情報をすべて管理していた。そして、警視庁に認可を受けた指定業者のみ、決められた手順を踏むことでその情報を問い合わせることが可能なのだ。


 当然、個人情報の取り扱いは法律上で厳格に定められており、不正な情報取得があった場合には懲役刑を含む厳しい罰則が科せられることとなる。

 美智子の勤める月光生命の場合、それぞれ割り振られた個人IDにより誰が、いつ、どういった情報を取得したかということが記録されるようになっていた。


「これで、よしっと」


 申請をしてから早ければ翌日、遅くとも二、三日中には照会内容が送られてくるはずだ。

 美智子は楢橋のカルテを上書き保存し、次の電話に備えた。



 そして翌日、美智子は警視庁から送られてきた個人情報を目にした途端、ほんの少し息を呑んだ。


 ――え、これって。


 ******


「それで? 保険会社さんがなんの用です?」


 落ち着きのある喫茶店のテーブルで、向い合せた調査員――三上に対し男が訝し気な目を向ける。

 三十代中頃だろうか。短い髪をワックスで固め、黒のタートルネックのセーターの上から灰色のジャケットを羽織った男――東条とうじょうかおるは、ウエイトレスからコーヒーを受け取る。


「はい、この度は楢橋誠人様の代理として交渉に参りました」

 三上が人当たりの良い笑顔を浮かべてそう言うと、東条はふふんと鼻を鳴らした。


「なんのことかよくわかりませんね」

 そう言って運ばれてきたコーヒーに口をつける。


「楢橋様によると、お二人が食事をされた日にお酒のせいか意識が朦朧とし、気が付けば東条様に暴行されていたと」


 三上は真っすぐに東条の方を向き淡々と話しかけるが、東条は目を反らすかのように窓の外に顔を向けていた。


「ふっ、暴行って、穏やかではないですね。……証拠はあるんですか? そもそも、彼も僕も男ですし。そんなでたらめで訴えられると言われましてもねぇ」

 東条はわざとらしく肩をすくめて困ったような表情を浮かべた。


「男性同士だからという偏見は私にはございません。……証拠も、現在は楢橋様の証言のみです。……ですが」

 そこまで言うと三上は笑顔で細くなった目の奥から鋭い視線を東条に向ける。


「当社は顧客のためなら手段を選ばずに動きますが、……それでもよろしいですか?」


 三上の視線に、ほんの少し動揺した素振りを見せた東条だが、すぐに気を取り直し「勝手にすりゃいいよ」と言って席を立った。


 ******


「そうですか……」

 三上のデスクの横に立って、報告を受けた美智子は少し唇を噛む。


「酷い話です。こちらに証拠がないからといってたかをくくっているんでしょう」

 イスに座っている三上も悔し気に息を吐いた。


「このまま相手方の保険会社に訴えても、同じ答えが返ってきますよね?」

 美智子の問いに三上も無言で頷く。


「……私、このまま泣き寝入りだけはしたくないです。男性だろうと女性だろうと、独りよがりの性欲だけで誰かを傷付けた人間が何の罪にも問われないのは許せません」


 その言葉に、三上は少しだけ笑みを零した。


「僕も、同じ気持ちです。善人面する気はありませんがね、せめて自分の会社を選んでくれた顧客の希望くらいは叶えたいと思ってます」


 そう言って自分を見上げて微笑む三上の顔がどこか普段より魅力的に見えて、美智子は少しだけ胸がざわつくのを感じてしまった。


「おおい、お二人さん。どうしたんだ? シケた面して」

 背後から声がしたので振り向くと、源が白い歯を出して手を上げていた。


「別に、源さんには関係ありませんよ」

 美智子はわざとらしく頬を膨らませそっぽを向く。


「おいおい、そう邪険にしてくれるなよ」と言いながら肩に置かれた源の手を、美智子は素早く振り払った。


「実はですね……」

 ふくれっ面の美智子を無視して、三上が源に顛末てんまつを伝える。


「……なるほどね」

 話を聞き終えると、源は顎に手をやりしばし考える素振りをみせた。


「お前ら二人、今日の夜は空いてるか?」

 源が三上と美智子の顔を交互に見ながら聞いてくる。


「僕は大丈夫ですよ」

 三上はほぼ即答するが、美智子は黙ったままだ。


「大丈夫だみっちゃん。今回の案件に関係することだからよ」

 機嫌を取るように源が笑いかけると、そこでようやく美智子も息を吐き、しぶしぶといった様子で頷いた。



 終業後、源に連れられ三上と美智子は夜の街を歩く。木曜日だというのに繁華街はスーツ姿の人間で賑わっていた。ビカビカと光る安居酒屋の看板をいくつか通り過ぎ、源はふいに路地裏といっても差し支えないような細い通りへと入って行く。


 あまり乗り気のしない美智子は、ご機嫌な様子で前を歩く源の背中に声を掛ける。


「どこまで行くんですか?」

「もう着いたぜ」


 振り返り白い歯を見せた源が指さしたのは、落ち着いた雰囲気を醸し出しているバーのような店だった。

 間接照明で朧げに照らされた木彫りの看板には【Sirene】という文字が浮かんでいた。


「……シレネ?」

 美智子が首を傾げながら呟く。


「入るぞ」

 そう言って源は木製の扉を開けて中に入って行くと、三上と美智子も後に続いた。



「あら、ゲンゲン。久しぶりじゃない?」


 入るなりカウンターの向こうにいた男が声を掛けてくる。綺麗に整えた短髪をジェルで固めてこれまた綺麗に整えた口髭を生やしている。黒いタイトなタートルネックの薄手のセーター姿で、そのセーターに浮き上がっている筋肉はさながら格闘家を思わせるような、絞り込まれた美しいものだった。


「おう、ご無沙汰してたな、カツミママ」

 そう返した源の顔を驚いた表情で美智子が見る。


「……ママ?」

「ああ、なるほど」


 美智子の呟きと同時に、三上が合点がいったという様子で声を漏らす。


「そういうお店ってことですね」

 三上の言葉に源が振り返り、意味深な笑みを浮かべた。


「そういうって……」

 美智子は未だに理解が追い付かない様子で源と三上の顔を交互に見やるが、源が手招きをして二人をカウンターに案内した。


「こちらのお二人さんは初めてね」

 カツミママと呼ばれた男がおしぼりを目の前に置きながら話しかけてくる。


「おう。今日はあれだ、社会科見学みたいなもんでな。うちの若いのを連れてきた」

「あらやだゲンゲン。うちを工場か何かと勘違いしてるの?」


 源の言葉にカツミママは拗ねた口調で、しかし嫌味なく微笑みながらそう返す。


「ハハハ。ただの言葉のアヤさ。最近調子はどうだい?」

「まぁ、なんとかってところね。一時期ゲイバーがブームになった時なんかはお客さんも増えたんだけど、そういう客って一回来たら満足するみたいでね。まぁ、マナーも悪かったからこちらとしても良かったというか」


 ――あぁ、そういうこと。


 ここまで聞いてようやく美智子にもこの店がどういう店なのかが分かった。


「こちら、メニューです」

 源とママの会話を聞いていると、ふいに後ろから声が聞こえメニューを持った手がすっと伸びてきた。


 美智子が振り返ると、細身の青年がそこにいた。白いシャツに黒いズボンといったシンプルな姿だったが、幼さの残るその顔は美少年といっても差し支えがないほど整っていた。


「お、初めて見る顔だな」

 源がどこか嬉しそうな声を上げる。


「最近入った子よ。まもる

 守と呼ばれた青年は源のほうを向き、礼儀正しくお辞儀をした。


「なかなかいい顔立ちじゃねぇか。ママの新しい恋人か?」

 源が下品に白い歯を見せる。


「そんなんじゃないわよ。ネットでうちのこと知ってくれたみたいでね。田舎から身体一つで上京してきたって言うんだから、世話してあげるしかないでしょ」

 カツミママが呆れたように息を吐く。その言葉に守は居心地悪そうに頭を掻いた。


「まぁ、ママは優しいからな。一生懸命働くんだぞ、青年。……んじゃ、とりあえずビールでももらおうか」

 源が三上と美智子に目配せをすると「あ、じゃあ僕も」「私も」と二人とも答えた。


「はいはい。守、お通しの準備しといて」


 そう言ってママがカウンターの奥でグラスの準備をし出す。守も声を出すことなく店の奥に引っ込んでいった。


「今回の案件に関係あるって、こういうことだったんですね」

 美智子が小声で源に問いかける。向かって右から、源、美智子、三上の順番で座っていた。


「まぁな。みっちゃん今までこういう世界に触れることもなかっただろ?」

「それはそうですけど……」

「ま、難しく考えずに今日は楽しもうや。ママ! なんか腹に溜まるツマミも頼むわ!」


 源が手を上げると、ママはビールサーバーに手をかけながら笑顔だけで返事をした。

 ほどなく、三人の前にビールが並んだ。


「お兄さん、なんかスポーツしてたでしょ? 細身だけど引き締まったいい身体してる。陸上とか、ボクシングとかかしら?」

 三上の前にグラスを置きながらママが問いかける。


「え、なんでわかったんですか?」

 三上が目を丸くして返す。


「私は服の上からでもその人の身体がはっきりと見えるのよ。……もちろん、男性限定だけどね」


 そう言って目配せをしたママに対し、三上がひきつった愛想笑いで返す。


「おいおいママ。うちの若いのには手を出さんでくれよ。……まぁ、三上が新しい世界に興味があるってんなら止めはしないがよ」と源が下品な笑顔を三上に向ける。

「ちょ、ちょっと源さん」

 三上が慌てた様子で手を振る。


「そうよ、お兄さん。一度オトコの味を知ったら、戻れなくなっちゃうわよぉ」

「いやぁ、まいったなぁ」


 ママの艶めかしい目線から逃げるように三上が頭を掻く。美智子は自身を囲んで続けられる下品な会話に呆れた様子で小さく息を吐いた。


 仕切り直して乾杯をした後、ママが出してきたパスタやローストビーフに舌鼓を打つ。美智子がいつも通うバルのマスターの料理に負けず劣らず、カツミママの作る料理は美味しかった。

 美味しい料理に機嫌を良くした美智子は追加でお酒を注文し、三上と源もそれぞれのペースでグラスを開けていく。


 三上は顔に出るタイプのようで、一杯目のビールを飲み終える頃には顔が茹で上がったように真っ赤に染まっていた。対する源はまるで水を飲むかのようにすごいペースでグラスを開けていた。


「で? 用もなく来たわけじゃないんでしょ?」


 仕事の愚痴――主に美智子によるものであったが――も一段落したころ、カウンターの中からカツミママが源に声を掛ける。


「ああ、そうだった」

 源がわざとらしく手を叩き、現在美智子が担当している案件についてざっと説明する。

「なるほど、ネットでね」


 源の話を静かに聞いていたママが顎に手を当て、髭を数度さすった。


「最近多いのよ。ゲイ専用のマッチングアプリなんかもあるし、そうでなくてもSNSで繋がれる時代だしね」

 そう言ってママが一つため息を吐いた。


「いい時代になったもんよね。最近じゃLGBTに理解のある人も増えたけど、私たちが若いときなんかそれこそ日の当たらない場所でこそこそと隠れて生きるしかなかったのに」

 そこまで言うと、ママはいつの間にか注いでいたウィスキーのグラスを少し舐める。


「でも、ほんとは今の流れも私はあまり好きじゃないの。なんていうか。昆虫学者が岩をひっぺがして、その下にいる珍しい虫に光を当てて『この虫は珍しいから保護しよう』って笑顔で言ってるような。……そういうことじゃないのよ。普通でいいの。普通で。……普通に恋して、愛し合っている人間がいる。それさえ分かってくれるなら別に無理に光を当ててもらう必要はないのよ」


 カツミママは少し寂し気に、伏し目がちにそう続けた。


 三上と美智子はそんなママの話を聞きながら、何も言えずに静かにグラスを傾ける。


「あらやだ。なんだか重い空気になっちゃったみたいで、ごめんなさいね。私も普段はこんなこと言ったりしないんだけど、ゲンゲンの前だとつい気が緩んじゃって」

 そう言ってママが源に笑顔を向けると、源はふんっと鼻を鳴らした。


「で、私は何をすればいいの?」


 問いかけられた源はグラスに残ったビールを一気に飲み干してからママに顔を寄せる。


「用意して欲しいモンがある」




 店を出た三人の頬に、優しく夜風が当たる。

 アルコールで火照った身体には、それはとても心地の良いものだった。


「……いいんですか? あんな方法」


 美智子が源に問いかける。それは責めているというよりかは、戸惑いの気持ちのほうが強いような口ぶりだった。


「仕方ねぇだろ。これが一番手っ取り早い。……みっちゃんにはちょっと刺激が強かったかもしれねぇがな。それに、本当のことを言うとあれがママの本職だ」

 そう言って源がにやりと笑う。


「でも……」

「僕も、源さんの意見に賛成です」


 美智子の隣で、三上が呟くように言葉を吐いた。


「僕たちは仕事として人の性と関わっています。ですが、顧客にとっては人生を左右するようなセックスの可能性だってあるはずです」


 酔っているせいか、いつもより饒舌に三上の言葉は続く。


「特に今回のように何もしなければ顧客が泣き寝入りするような場合などは。僕たちに出来ることはなんだってやるべきです。……一生懸命」


 真っ赤に火照った顔を美智子に向けて、しかしそのまっすぐな目は強い信念のこもったものだった。


「三上さん……」


 美智子とは違い、三上は外に出て顧客や相手方と直接やりとりするのが仕事だ。その中にはきっと、顧客の希望に添えないケースも多くあったことだろう。

 心優しい彼のことだ。真っすぐに顧客と向き合い、そしてそうすることで後悔することや不甲斐ない気持ちになったことも一度や二度ではないのだろう。


 美智子は三上の熱い気持ちが伝わり、静かに頷いた。


「いいねぇ、三上ちゃん。熱い男だ。……ま、安心しな。汚れ仕事はおれの役割だ。お前らはお前らの仕事をしっかりやっといてくれ」


 源は笑いながらそう言うと、二人の肩を一度ずつ叩き、振り返りながら手を振った。

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