第11話 土佐日記

 美智子はその日、朝から憂鬱な気分だった。なぜなら今日は相手方への連絡をする日だったからだ。相手方への電話などもう何度も経験しているものであったが、今回のケースは少し特殊だった。


 ――始まりは昨日のこと。


「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」


 それは、出社してから初めに取った電話であった。


「……あの。……相手方を訴えたいんですけど、相談はこちらで大丈夫ですか?」

 美智子の耳に聞こえてきたのは若そうな女性の声だった。

「はい。大丈夫ですよ。まずはお客様の情報を確認させて頂きますので、お名前と生年月日をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「キタガワ、レイナです。一九九三年、十一月十八日」


 ――北川玲奈、二十七歳、今まで事故の履歴はなし。


「はい、北川様ですね。それでは事故の状況をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「……はい、あの。……相手は、会社の上司で」


 その時点で、美智子は少し安堵した。事故の相手が会社の上司であれば、素性が確実に分かっているので、提訴の処理がスムーズにいくからだ。


「……で、あの、その人の奥さんから訴えられてまして」

 続けて聞こえてきた言葉に、美智子の動きが一瞬止まる。


「はい、ええと、……訴えられているとは?」

「……不倫だったんです」

「……不倫」


 つまり、北川と相手の上司は不倫をしていて、北川は上司の妻から不倫の代償として慰謝料請求をされている。そんな北川がさらに上司を相手取り、セックス合意アンマッチの提訴を行いたいということだ。


「……やっぱり、そんなことって出来ないんですか?」


 思考が追い付かず、しばしフリーズしていた美智子の耳に、不安そうな北川の声が届く。


「あ、あぁ、いえ。可能ですよ。不倫での慰謝料請求とセックス合意の訴えは別物として扱われますので、訴えを起こすこと自体は問題ございません。……ただ、不倫の事実関係を相手方から責められた場合、賠償額が減額されることも考えられますが」

「それでも、いいです。大丈夫です」

「承知致しました。それでは、提訴の手続きをさせて頂きますので相手方の情報をお聞きしてもよろしいでしょうか?」


 美智子は北川の不倫相手である上司の連絡先などの情報を聞き取り、また連絡すると伝えて電話を切った。


「……不倫かぁ」


 美智子はそう呟くと、キーボードに手を置いたまましばしの間空中を見つめていた。


 そして今日、ついに相手方と連絡を取ることになったのだ。


 会社を出て直接話をする場合は三上のような調査員が向かうことになるのだが、電話での対応はほとんどの場合美智子たちのような内勤の社員が担当することとなる。

 美智子は教えられた番号に電話を掛ける。時刻は夜の七時頃。コール音が鳴るか鳴らないかほどの速さで相手が電話に出る。


「はい、刀根とねです」


 良く通る、営業マンに適した声が聞こえてくる。


「刀根様でしょうか? 私、月光生命の松島と申します」

「月光生命? 何かありましたっけ?」

「はい。本日は北川玲奈様の代理でお電話させて頂いております」

「なっ! 玲奈の?」


 その言葉で何かを察したのか、刀根の声が少し低くなる。


「玲奈の代理って……。慰謝料の件なら弁護士さんにお任せしているはずですが?」


 まだ職場にいるのだろうか、周りから話声のような雑音が聞こえるが徐々にそれが遠くなり、扉の閉まる音が聞こえると電話の向こうの雑音はすっかり収まった。


「はい。本日は別件で。セックス同意の有無について、お話をお聞かせ頂きたくお電話差し上げました」

「えぇ? ごほっ! おたく、もしかしてセックス保険の?」


 驚きすぎて声がひっくり返った刀根が咳き込みながら聞いてきた。


「はい。つきましては、北川様の件で刀根様にもお話をお伺い出来たらと思いまして」

 美智子の言葉に、電話の向こうではしばらくの間無言が続いた。


「……刀根様?」

「……冗談じゃないよ」


 それは美智子に言っているわけではなく、心の底から漏れ出た独り言のようなものに思えた。


「そういうことなら、こちらも契約してる保険会社があるから、そっちで話してもらってもいい? ……そうでなくてもこっちは嫁さんの機嫌取るのに必死なんだから」


 最後のセリフも、独り言のように小さく聞こえた。


「でしたら、そちらのご担当に月光生命の松島が担当とお伝え頂けますでしょうか? 電話番号は……」


 美智子が電話番号を告げると、舌打ちとともに刀根のほうから一方的に電話が切られた。


「……なんか嫌な感じ」

 電子音が流れるヘッドホンを外し、美智子はしかめっ面をした。


 ******


「はい、ですので北川様と刀根様は不倫関係でいらっしゃったということですよね? つまり、刀根様が既婚者と分かっていながら幾度となく性交を行ったということは事実です」

 先方の保険会社の担当が淡々とした口調で話す。


「しかし、不倫関係であったということとセックスの同意書を書かないということは別物として考えるのが通常です」


 美智子も負けじと言い返す。


「おっしゃる通りです。ですが今回の場合に関して申し上げると、刀根様の過失割合はさほど高くなく、率直に申し上げると半々あたりが妥当な線かと考えております」


 相手もプロだ。当然引くことはない。


 こういった保険会社の担当同士のやり取りの場合、ある程度お互いの主張をすり合わせた後、阿吽あうんの呼吸とも言うべき割合で手打ちになることが多い。


 つまり、顧客への見せかけとして形式上何度かやり取りするだけで、案件内容を見ればお互いの過失割合がどの程度になるかということがだいたい分かる保険会社の人間にとっては、この数度のやり取りは言わばプロレスのようなものなのである。


 そして、今回の案件について美智子は、良くて6:4、相手の出方次第では5:5も覚悟しないといけないなと考えていた。


 5:5になったとしても、相殺清算をした場合、男性の賠償額が多くなることがほとんどなので多少のお金は女性側に入ることになる。しかし、それを加味しても、手間を考えると今回の提訴が有意義なものだとは美智子には思えなかった。


 ――まぁ、こっちは顧客の希望に沿うだけだから。


 そんなことを思いながら、美智子は先方の担当と再度の連絡を約束して電話を切った。

 そしてその日の夕方、美智子にとある電話が掛かってくる。


 早番だった美智子が終業の時間を気にする頃だった。内線のランプが光ったのを見て、美智子がボタンを押す。


「はい、松島です」

『お疲れ様です。土井どいです。松島さん宛てのお電話が二十五番に入ってます。あの……結構お怒りのご様子で』


 同じ部署の後輩、土井が電話の向こうから心配そうな声でそう話す。


「やだ、クレームかしら? わかった。名前は聞いた?」

『刀根様とおっしゃっていました』

「……刀根」


 美智子は嫌な予感を抱えたまま、二十五番のボタンを押した。


「大変お待たせいたしました。お電話変わりました松島と申しま――」

「アナタね! あの女の味方をしているのは!」


 電話を繋ぐなり、強烈なボリュームの金切り声がヘッドホンに響き、美智子はびくりと身体を揺らし顔をしかめる。


「はい、あの、お客様?」

「お客様じゃないわよ! なんで浮気された女からこっちが訴えられなきゃならないのよ! ふざけんじゃないわよ!」


 電話口の女性は興奮した様子でまくし立てる。こちらの反論を許さないとでもいった雰囲気だ。


「あ、あの、恐れ入りますが、ご用件をお聞かせ頂いてもよろしいで――」

「要件もクソもないわよ! あの女に伝えておいて頂戴! 提訴を取り下げないとこっちも徹底的にやらせてもらうわってね!」


 美智子の言葉を遮るように一気にそこまでまくし立ててから、バツッと音を立てて電話が切られた。


「あ~、つかれだぁ~」


 美智子は思わずヘッドホンを外し、天井を見上げて息を吐いた。



 そのまま家に帰る気がしなかった美智子は、早苗を誘っていつものバルに向かった。

 カウンター席に座った美智子は、運ばれてきたビールを半分ほど一気に飲んで、力強くテーブルに叩きつけてから「ぶはぁ!」と声を出した。


「あらー、荒れちゃってるわねぇ」


 早苗はカシスオレンジを一口飲んでから、隣の美智子の様子に目を丸くする。


「最近マジでついてない。ワケわかんないクレームの電話は取っちゃうし、顧客の不倫相手の奥さんからは怒鳴られるし」


 そう言って美智子は大げさに肩を落とす。


「まぁ、まぁ。仕方ないわよ。それが私たちのお仕事なんだもん」

 早苗が美智子の肩に手を置いて慰める。


「それはそうだけど。……早苗はなんか割り切って仕事してるよねぇ」

「あら? そう見える? 私はお客様のご希望を第一に考えて業務に励んでおりますわよ」


「めちゃくちゃ棒読みじゃん」

 早苗のふざけた返答に思わず美智子は吹き出してしまう。


「でもね、みっちゃん。そうやって悩めるのはみっちゃんの良いところだと思うよ」


 早苗が目の前に置かれたナッツを二つ三つ口に放り込んでから言う。


「私、正直羨ましいなって思うもん。みっちゃんのその、なんだろう、感受性っていうのかな? みっちゃんクールなように見えてめちゃくちゃお客様のこと考えてるじゃん。この前だってほら、妊娠させられちゃった大学生とか親バレしちゃった高校生とか。めちゃくちゃ親身になって対応してたでしょ? ……なんかそういうの、良いなって」


「えー、ちょっとやめてよー」


 しみじみと語りだした早苗の言葉に、美智子はどこか恥ずかしくなってしまう。


「ほんとだよ? だから、私みっちゃんはこの仕事合ってると思うよ。私が客なら、みっちゃんみたいな人に担当して欲しいなぁ」


 それはお世辞ではなく本心で言っているように聞こえて、美智子は噛み締めるように早苗の言葉に耳を傾ける。


「だからね、みっちゃん。そうやって悩んだりするところもみっちゃんの良いところ。どこか熱くて、青臭くて、でも本気で。お客様のために悩んだりするみっちゃんはカッコいいよ」

「やだもー、ほんと恥ずかしい。……でも、ありがと」


 ひとしきり手を振って照れた後、美智子は早苗に礼を言った。いま早苗にもらった言葉だけで、明日からもまた頑張れそうな、そんな元気が湧き上がってくる気がした。


「ま、とりあえず今日は美味しいもの食べて、飲んで、また明日から頑張ろう。ね?」


 早苗がグラスを掲げる。


「うん。かんぱーい」


 笑顔で合わせたグラスが始まりを告げる鐘のように、カーンと綺麗な音を響かせた。


 ******


 そして翌日、美智子は北川に電話を掛けるかどうかを迷っていた。相手方の奥さんから電話があったことを伝えるかどうかということだ。

 セックス同意の提訴だけで考えるのであれば、伝える必要のない情報ではあるが、刀根の妻の「徹底的にやらせてもらう」という言葉が美智子には引っかかっていた。


 ――うん、やっぱり電話しよう。


 美智子がそう決心したその時だった、電話の着信ランプが点滅しているのに気づくと、流れるような動きで美智子は無意識のうちにその電話を取っていた。それは会社に入ってから身に付いた条件反射のようなものだった。


「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」

「あ、松島さん。……よかった。北川です」


 電話の相手が今ほど自分から掛けようと思っていた北川からだったため、美智子は少なからず驚いた。


「あ、北川様ですね。いかがなさいましたか?」

 美智子は動揺が悟られないよう、努めて明るい声を出す。


「あの……、今回の提訴なんですけど。……やっぱり、やめようかなって」

「えっ、どうかなさいましたか?」


 北川の提訴取り下げの言葉に、美智子は驚いてしまう。


「実は、……向こうの弁護士さんから連絡があって、……裁判で不利になりますよって」

 美智子は昨日の刀根からの電話を思い出し「あぁ」と心の中で呟く。


「私、ほんとは、少しでも、……少しでもあの人に復讐出来たらなって思ってて」

 電話の向こうの北川の声が震えている。


「でも、昨日弁護士さんから電話もらって、……結局こんなことしても意味ないんじゃないかって」

 そこまで言うと、北川は堪え切れずに嗚咽を漏らし出した。


「……北川様」


「私、私、……こんなつもりじゃなかったんです。……彼が好きで、……彼が奥さんとは別れるって言うから、……その言葉を信じて。……あぁぁ」


 美智子の耳に、北川の慟哭どうこくが響いていた。やり場のない感情を吐き出すように、北川はしばらく泣き続けた。そんな北川に対して、美智子も掛ける言葉が見つからず、ただ黙ってその鳴き声を聞いていた。


「……だから、ぐすっ。……もういいんです。……もう、いい」


「本当によろしいのですか?」


 美智子の問いかけにも、向こう側からは鼻をすする音しか聞こえてこない。美智子の脳内には、泣き疲れて呆然としている北川の姿が浮かんだ。


「北川様。提訴の取り下げはもちろん可能です。ですがその前に、良ければお話だけでもお聞かせ願えませんか? それで少しでも北川様のお気持ちが軽くなるのであれば」


 それは余計なお節介だと美智子自身も思っていた。しかし、悲しんでいる人が電話の向こうにいる。それをそのまま無視することは今の美智子には出来なかった。それは昨日早苗から貰った言葉も関係していたのかもしれない。――顧客に寄り添える人間になろう。美智子は今、改めてそう考えていた。


「……ずずっ。……松島さん、ありがとうございます。……私にとっては、あれは純粋な恋であり、愛だったんです」


 そう言って北川がゆっくりと、自分の気持ちを語りだした。

 

 ――仕事の愚痴を聞いてもらううちに、私は彼にどんどん惹かれていきました。初めてそういう関係になった時、私の胸は幸せでいっぱいでした。満たされた気持ちだったんです。彼が既婚者だということは当然知っていました。なのでセックス同意書を書かないことも納得のうえでした。いつしか彼も、私のことを本気で考えてくれるようになりました。……少なくとも、私の目にはそう見えたんです。『妻とは別れる』『君を愛している』そんな言葉を言ってくれるようになりました。


 そこまで言うと、北川は息を整えるようにずびびと鼻を啜った。


 ――でも、それは嘘だったんです。ある時、怪しんだ彼の奥さんが探偵に依頼して、私たちの関係はバレてしまいました。その時から、彼の態度は急変しました。『妻とは別れられない』『妻が君を訴えると言っている』『お互い気まずいから会社を辞めてくれないか』そんな言葉を言われました。私は頭が真っ白になり、言われるがまま会社を辞めました。


 北川の静かなトーンの声が、逆に美智子の心に浸透し、言いようのない息苦しさを与えてくる。自分の知らない世界。でも、すぐそばに確かにある世界。それはまるで飢えで死んでいくどこかの国の子供の映像を観た時のような。その苦しみを、北川はいま必死で吐き出しているのだ。美智子は息を殺すように、北川の言葉に耳を傾けた。


 ――でも、私、……このままで終わりたくなかったんです。彼のことはもう諦めました。でも、なぜ私だけが責められないといけないのだろう。すべて私が悪いんだろうか。そう自問自答していく中で、セックス保険のことを思い出したんです。……でも、もう、いいんです。


「ありがとうございます。……聞いてもらって少しすっきりしました」


 涙声ではあったが、はっきりした口調で北川が言う。


「ダメです、北川様」

「へ?」


 突然の美智子の言葉に、北川は気の抜けた声を出した。


「北川様にとっては、それは確かにあったことで、その気持ちに嘘はなかったんですよね? であるなら、北川様と相手方の関係も、なかったことにしてはダメだと思います」


「……松島さん?」


「差し出がましいこととは分かっています。ですが、お客様が助けを求めて来てくださった。そして、こちらがそれを手助け出来る状況にある。……北川様、二人の関係を、その日々を、言われるがまま無かったことにしてしまって本当によろしいんでしょうか?」


 冷静に話していたつもりの美智子の口調が、どんどん熱を帯びてくる。電話の向こうでは北川のすすり泣く声が聞こえている。


「……嫌でず」


 泣き声の中からぽろりと零れ落ちるような言葉が聞こえた。


「……私、ほんとは。……嫌です。無かったことになんかしたくないでず!」


 鼻水をずるずると啜りながら、しかし、強い口調ではっきりと北川が叫んだ。


「なら、戦いましょう。彼に、アナタとの関係は嘘じゃなかったと。幻じゃなかったと。認めさせてやりましょうよ」

「……松島さん」


 うわーんと子供のような泣き声がひとしきり聞こえた後、「よろじくおねがいじまずぅ」と言う言葉が聞こえてきた。


「はい。辛い戦いになるかもしれませんが、頑張りましょう」


 そうして今後のことについて一通り説明した後、北川との通話は切断された。


 美智子は電話を切ったあと、ヘッドホンを外して目頭を押さえる。ふいに肩を叩かれたので振り返ると、そこには早苗が立っていた。


「どした?」

 早苗が心配そうに聞いてくる。

「あー、ごめん。今、私、たかぶってる」

 真っ赤になった目を隠すように右手で顔を押さえる。


「なによそれ」


 早苗は笑みを浮かべながら「ま、それがみっちゃんの良いところだよ」と言って自分のデスクに戻って行った。


 その夜、家に帰った美智子は風呂上がりにベランダに出て、どこかへ電話を掛ける。

 火照った身体には、日が落ちた夏の風もどこか涼しかった。


「……あ、もしもし。うん、私。いやいや、なんもないよ。……うん、大丈夫やき。がんばりゆうよ。うん。また正月には戻れると思うきに。……うん。……ありがと」


 電話を切った美智子はベランダの手すりにもたれかかり、星の見えない空を見上げてふっと笑みを零した。

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