第7話 都会の絵の具Ⅱ

 その日の真帆まほは朝からなんだか体調が悪かった。


 ふらつく足取りでバイト先のファミレスに向かってはみたものの、酷い倦怠感で制服にも着替えられずに控室のイスにうなだれるように腰かけた。


「おはよー。……あれ? まほちんどうしたの?」

 控室に入ってくるなりそう声を掛けてきたのは、同い年でフリーターの加奈子だった。


「体調悪い? 大丈夫?」

 膝を曲げ、心配そうに下から覗き込んでくる。派手な化粧のギャルっぽい見た目で普段は底抜けに明るい加奈子だが、こういう時は本気で心配してくれる、心根の優しい子だった。


「ううん。大丈夫」

 真帆は絞り出すように答えた。

「大丈夫じゃないよ。顔真っ青だよ? 今日は休みにしてもらお? 私から店長に言っておくから」


 加奈子が涙目になりながら真帆の肩に手を置く。――本当に優しい子だな。と真帆は少しだけ笑みをこぼす。


「大丈夫だよ」と言って真帆が立ち上がろうとした瞬間、酷い吐き気がして思わず「おぇ」と嘔吐えずいてしまった。


「あー! やばいやばい! トイレ行っておいで! そんで店長には言っといてあげるから今日は帰りなさい!」


 真帆の背中を押してトイレに誘導しながら、加奈子が母親のような口調でそう言った。



 ふらつく身体をなんとか動かし、普段の倍以上の時間を掛けて真帆はようやくアパートにたどり着いた。

 ベッドに倒れこむと、布団をゆるゆると動かし、赤ちゃんのように丸まる。


 ――まさか、ね。


 前に生理が来た日を指折り数えてみる。

 真帆は悪い予感を振りほどくように、目をきつく閉じて夢の世界へと逃げ込んだ。


 そして翌日、悪い予感は当たってしまった。

 真帆は手に持った検査薬に出た反応を何度も確かめる。


「合ってる? ……合ってる」

 そう呟き、力なくベッドに腰を下ろした。


「……どうしよう」

 両手を頭に当てて、髪をくしゃりと握りしめた。


 ******


「で、話ってなに?」


 翌日、大学内で呼び出したユウジがへらりと笑いながら聞いてくる。その顔に、深刻さは微塵みじんも感じられない。


 中庭に備えられたベンチに二人並んで腰かけている。


「実は、……出来ちゃった……みたい」

 真帆は消え入りそうな声でそう告げる。

「は? ……出来ちゃったって。……え、マジで?」


 この期に及んで当事者意識が感じられないような軽い口調でユウジが聞き返してくる。

 真帆はそんなユウジの顔を見ることが出来ず俯いている。自身の手が、小刻みに震えているのが見えた。心臓の鼓動に呼応するように、ぴくりぴくりと跳ねている。


「あー、マジかぁ」

 ユウジが頭を押さえて空を見上げる。

「……で、どうする?」

 続けて聞こえてきたユウジの言葉が信じられずに思わず真帆は顔を上げる。


 ――どうする?


 どうするとはどういうことなのだろう。


 これは二人の問題ではないのか。あなたと私の問題ではないのか。

 ユウジの言葉はどこか他人行儀で、なんといえばいいのだろう。熱、体温が感じられないものだと真帆は思った。


「わ、私は……。先輩はどうしたいですか?」

 声が震える。視界が滲む。意図せずに涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。


 ――私は、なんと答えて欲しいのだろう。


 産んでくれなのか、産まないでくれなのか、一緒になろうなのか、なんなのか。

 真帆自身にもわからなくなっていた。

 ただ一つ確かなことは、一緒になってこの問題について向き合ってほしいということだった。


「あー、おれ、無理だから」

 頭を掻きながらめんどくさそうに放たれたその言葉により、真帆の身体から力が抜け落ちた。


 ――無理。無理とはなんだ? 何が無理? 私が? 子供が出来たことが? それともこの現実に向き合うことが?


 真帆の頭はぐるぐると回っている。酷い眩暈めまいがする。両膝を地面につき、気が付けば大声で泣いていた。


 いつの間にか、目の前からユウジの姿が消えていた。

 真帆は胸を押さえながら、溢れ出てくる涙を止められずにいた。


「なんで? ……なんで?」


 口からこぼれて出てくるのはその言葉だけ。何に対してなのか、誰に対してなのか。自分でも良くわからなくなっていた。


「あんた! どうしたんだよ」

 肩に置かれた手に気付き顔を上げると、オカ研のおかっぱ先輩――夏美なつみが心配そうに顔を覗き込んで来た。


「ひどい顔だな。何があったんだ?」


 いつの間にか遠巻きに集まっていた野次馬たちをしっしっと手で追い払ってから、夏美は真帆を抱えてそばにあったベンチに座らせた。


「しっかしまぁ、あんなとこで大声で泣いて。……ユウジに振られでもしたか?」

 そう言って鼻を鳴らした夏美だったが、核心を突かれた真帆はまたべそべそと泣き始めた。


「おいおい、図星かよ」


 夏美は少しだけ頭を抱えてから、ポケットから煙草を取り出し火を点けた。普段は嫌っているその煙の匂いが、今の真帆にはなんだか気分を落ち着かせてくれるような気がした。


「……妊娠したんです」


 真帆の言葉に、夏美の肩が大げさに揺れる。


「おま、バカ野郎! それを早く言えよ!」


 夏美は慌てて煙草を地面に投げ捨て、厚底のブーツで踏みつけた。その動きがあまりにも素早かったので、真帆は思わず吹き出してしまった。


「お、笑える元気は出たか」

 真帆の顔を見て夏美も笑みをこぼす。


 ――あぁ、なんだ。


 真帆は夏美のことを誤解していたことにそこでようやく気が付いた。この人は見た目が派手なだけで、本当は優しい人なんだと。

 そこから真帆は、ぽつりぽつりと今までの事を話し出した。


「……あの野郎」


 話を聞き終えた夏美が絞り出すように呟いた。奥歯を噛み締めているのか、こめかみが盛り上がっているように見える。


「あいつは金持ちのボンボンで、ルックスもいいもんだから今まで甘やかされて生きてきたんだ。ま、私に被害が無い分には傍観してたけど、……ここらでちょっと、お仕置きが必要だよな?」


 夏美が真帆に顔を向け、にやりと笑った。


「お、お仕置きって?」


 その恐ろしい言葉の響きに、真帆は思わず動揺してしまう。


「なに、簡単な話さ。……搾り取れるだけ搾り取ってやろうぜ。もちろん、合法的に」

 そう言って笑う夏美だったが、その目の奥が笑っていないことに真帆は気づいた。


 ******


「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」


 電話口の向こうで、柔らかく、しかしはっきりとした口調の女性の声が聞こえてきた。


 真帆は自身のアパートで、セックス保険の案内を手に持ちながら電話をかけている。しかしなにを言えばいいのか分からず、しばし沈黙してしまう。


「もしもし、お客様?」

 不審に思ったのか、松島と名乗った女性が問いかけてくる。


「あ、あの……」

 真帆はなんとか声を絞り出す。


「はい、いかがいたしましたか?」

 まるで目の前でにこりと笑いかけてくる顔が浮かぶような声が耳に届く。その優しい声色がかえって色んな思いを真帆に浮かび上がらせる。


「あ、あの……。わたし…、わたしは……」


 気が付けばまた涙を流していた。頭の中では言い訳にも似た言葉が浮かんでは消える。


「あぁ! もう! 貸しな!」


 アパートまで着いてきて、隣で様子を見ていた夏美がふんだくるように真帆の手からスマホを奪うと、スピーカーモードに切り替えた。


らしめたい奴がいるんだ」


 夏美が電話に向かいそう告げると、ほんの少しの沈黙の後、ふふっと微かな笑い声が聞こえてきた。


「分かりました。それではまずはお名前と生年月日をお聞きしてもよろしいでしょうか? その後、ゆっくりお話しをお聞かせ下さい」


 真帆が涙声で名前と生年月日を告げ、夏美が真帆のかわりに顛末を説明する。


「……なるほど」


 話を聞いた松島が呟く。


「どうだ? ふんだくれるか?」

 夏美が食べてしまうんじゃないかと錯覚するほどスマホに近づき問いかける。


「そうですね。今回のケースですと……」


 少し間が開いた松島の次の言葉に、どきどきしながら食い入るように真帆と夏美がスマホを見つめる。


「しこたまふんだくれますね」


 その言葉に、夏美が思わず吹き出す。ツボに入ったのか、腹を抱えて笑っている。


「あんた、面白い人だね」

 笑い過ぎて出てきた涙を拭いながら、夏美が女性に話しかける。


「いえいえ、滅相もございません」


 二人の掛け合いに、真帆も思わず吹き出してしまう。


「川島真帆様」


 ふいに呼びかけられた真帆の肩がびくりと揺れる。


「はい」

「これから手続きをさせて頂くうえで、話しにくいことをお聞きすることもあるかと思います」

「……はい」

「でも、少なくとも川島様には味方が二人います」


 真帆は隣の夏美を見る。優しく微笑んで来る夏美に返すように頷いた。


「私は担当の松島と申します。今後、ご不明な点やご相談がございましたらお気軽にお問い合わせ下さいませ」


 真帆の脳内に、再度松島が笑いかけてくるイメージが浮かんだ。


「松島さん」


「はい」


「……よろしくお願い致します」


「お任せ下さい」


 電話を切ると同時に、よくやったと言わんばかりに夏美の手が優しく真帆の頭に乗ってきた。

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