第6話 都会の絵の具Ⅰ
「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」
美智子は通話ボタンを押し、いつものセリフを口にする。しかし、電話口の向こうではしばしの沈黙が続いた。
「もしもし。お客様?」
不信に思った美智子が再び声を掛ける。
「あ、あの……」
若そうな女性の声が聞こえてきた。
「はい、いかがいたしましたか?」
美智子が優しい声色で聞き返す。
「あ、あの……。わたし…、わたしは……」
電話の向こうの女性は、そこまで呟くと声を上げて泣き始めた。
******
ラブホテルの窓は
ユウジは全裸のまま、煙草を咥えスマホに目を落としている。
初めの頃はセックスが終わった途端にソファーに向かい、煙草に火を点けるその姿に少しの寂しさを覚えたものだが、今となってはなんの感情も湧かなかった。
「先輩、最近大学行ってます?」
真帆の問いかけにちらりと視線を寄こし、ユウジは再びスマホを操作する。
「いやぁ、なんかめんどくさくて行ってないわ」
親に学費を出してもらっている大学を「めんどくさい」というだけで行かない理由が、真帆にはとても理解出来ない。
ベッドで横になりながら真帆はしばしユウジの横顔を眺める。――やっぱり、この男の横顔は綺麗だな――と真帆は思った。
それは茶髪のゆるやかなパーマの下から伸びる鼻筋か、それとも荒波を乗り越える舟の舳先を思わせるなだらかな曲線を持つアゴのラインか。
男性にしては長いまつ毛も相まって、いつまででも眺めておけそうな、そんな横顔だった。
――きっと私はこの横顔にやられたんだろう。
真帆はふっと息を吐き、ゆっくりと上体を起こす。身体を起こすために手をついたシーツが少し湿っていて、先ほどまでの行為をやけにリアルに思い起こさせる。
産まれたままの姿を隠すことなく、真帆は浴室に向かった。目の前を全裸の女が通り過ぎているにも関わらず、ユウジは一瞥もくれることはなかった。
そんなユウジの姿を思い出し、浴室に入った真帆はシャワーの音で隠すように「はぁ」とひとつため息を吐いた。
自宅に帰った真帆は郵便受けに入っていたダイレクトメールの類をまとめて掴み、リビングに向かう途中で軽くそれらを流し読みする。
少しぶ厚めの封筒で真帆の手が止まった。
「保険……」
封筒の送り主は月光生命株式会社、【保険内容確認のご案内】という文言が書かれている。
「なんの保険だっけ?」
真帆はショルダーバッグとその他のチラシたちをベッドに投げ、小さなテーブルの前に腰を下ろした。
八畳ほどのワンルーム。ベッドを背もたれにして、真帆は封筒を開いた。
「あ、セックス保険」
封筒の中には真帆がいま契約しているセックス保険の契約内容と更新日が記載されていた。特に連絡が無ければ二年間の自動更新となるようだ。
「セックス保険、かぁ」
大学に入る前に同級生と一緒になって免許を取りに行き「何があるかわからないから」と母親に進められるがまま契約した保険。そう言えばあの時の父親は気にしていないようなふりをして、険しい表情で新聞を読んでいたことを思い出す。
「そういえば契約内容もちゃんと見てなかったな」
真帆は封筒に入っていた書類に目を落とす。
――セックスの同意に
「セックスの同意……」
真帆は書類の一文を見て呟く。
セックスをする際に同意書が必要なことは真帆たちの世代にとっては常識だ。――しかし。
「先輩、一回も書いてくれたことないんだよねぇ」
真帆は天井を仰ぎ見るように背中をベッドに押し付ける。
「……初めてだったのにな」
真帆は目を閉じてユウジと出会った頃を思い出す。
山に囲まれた地元から、都会の有名大学に入学したての頃。真帆は同じ大学に進学した友人と一緒にサークルの勧誘を見て回っていた。
真帆は高校と比べて桁違いに規模の大きい大学の雰囲気に興奮していたように覚えている。そこかしこでユニフォーム姿の先輩たちが新入生を見つけては囲い込んでチラシを押し付けたりギャグを言って笑わせたりしながら勧誘を行っていた。
そんな時、真帆の目に留まったのはパイプイスに腰掛けつまらなそうにあくびをしていたユウジの姿だった。
ユウジは「オカルト研究部」と書かれたダンボールの看板をやる気なさげに持ち、目の前に人が通るたびにほんの少しだけそれを持ち上げてみせた。
――ぜんぜん勧誘する気ないじゃん。
真帆はその姿がなんだか気になってしまって、気がつけばユウジの目の前に立っていた。
「ん? 興味ある?」
ユウジは近づいてきた真帆の顔をイスに腰掛けたまま上目遣いに覗き込んで来た。
「あ、いや、あの……」
話しかけられた真帆がどう答えればよいのかと迷っていると、ユウジが唐突に手首を掴んで来た。
「よし、ノルマクリア」
そう言って真帆の手を引き、勧誘で賑わう人ごみの中をずんずんと進んで行く。
「あ、ちょ、あの……」
真帆はユウジに引っ張られながらいつの間にかはぐれていた友人の姿を顔だけを動かし探してみるが、あまりの人の多さに見つけることが出来なかった。
――まぁ、いいか。
友人には後で連絡しようと諦め、引っ張られるままユウジの後を付いていく。
ユウジに握られた手首が熱かった。
高校の時分には片思いこそあったものの、男性と付き合うことはなかったため、こんな風に手首越しに男性の熱が伝わってくるだけで真帆の鼓動は強くなってしまう。
そうしてユウジに半ば強引に連れられた真帆は、流されるまま「オカルト研究部」なる怪しげなサークルに所属することとなった。
正直なところ、もう少し華やかなサークルに入って大学生活を楽しむ予定をしていた真帆であったが、思えばその頃からすでに、真帆はユウジに惹かれていたのだろう。
昔ながらの安居酒屋の小上がりで、オカルト研究部の新歓は行われた。
ユウジ以外のメンバーはというと、まるで昭和の時代から飛び出してきた苦学生かのような雰囲気の小汚くて華のない面々だった。
女子もいることはいるのだが、おかっぱ頭の黒髪にきつめのパープルのアイラインを引き、タイトなパンツにゆるめのTシャツを合わせた女で、いわゆるサブカル系とでも言えばいいのか、さも「私はサバサバしてますよ」とでも言いたげな、ともかく真帆は自分には合わないタイプだと思い早々に彼女からは距離を置いた。
そんなメンツの中に、純朴そうで可愛らしい真帆が入ったものだから、当然男子たちのテンションの上がり方は半端なく、矢継ぎ早に真帆に質問を投げかけていく。
おかっぱの先輩女子は、それが気に食わないのかテーブルの端でハイボール片手に慣れた手つきで煙草をふかしていた。
ひとつだけ気になるのは、そのおかっぱ先輩の前にユウジがいることだった。
ユウジは真帆への質問会の輪に入らずに、おかっぱと一緒にタバコをふかし、ぽつりぽつりと会話を交わしながら時折笑みを浮かべていた。
そんなユウジの姿を目で追いながら、真帆はマシンガンのように浴びせられる質問の数々に律義に答えていくのだった。
一通り真帆への質問も終わり、各々が酒に酔い談笑し始めた頃になって、ようやく真帆はユウジの隣へと移ることが出来た。
真帆はちらちらとユウジの様子を伺いながら、何を話しかければ良いのかと考えていた。
「あれ? 真帆ちゃんはお酒飲まないの?」
と唐突にユウジに問いかけられて、真帆は飲んでいたウーロン茶を吹き出しそうになる。口元で垂れたお茶をおしぼりで拭いながら「まだ未成年ですから」と返す。
「あはは。まっじめー」
ユウジは真帆のほうに顔も向けずにジョッキを傾けて笑う。
「仕方ないんじゃない? なんかお嬢様っぽいし」
向かいに座っているおかっぱ先輩が煙草の煙と共に皮肉っぽい笑みを浮かべながらそう言ってきた。
その言葉にムッときた真帆は、「お嬢様なんかじゃありません。私だって、飲もうと思えば飲めます」と言いながらメニューを手に取る。
「お、いいねぇ」と隣のユウジが真帆を指さす。
しかし、そう言ってはみたもののメニューに書いてあるアルコール類はどれがどんな味かも想像がつかない。
「えーっと、じゃあ、……ユウジ先輩。それなんですか?」
真帆はユウジが持っているジョッキを指さす。
「ん? これ? ジンジャーハイボール」とユウジがジョッキを軽く上げる。
「じゃあ、私もそれで」
真帆はメニューをわざとらしく強めにテーブルに置いてから、おかっぱ先輩をちらりと見やる。おかっぱ先輩はそんな真帆を見て意味深な笑顔を浮かべた。まるで「お手並み拝見」とでも言いたげな表情だ。
店員からジョッキを受け取ると、予想以上の重さにうっかり手を滑らせそうになり、真帆は慌ててジョッキの底に手を添える。
ユウジも新しく来たジョッキを受け取ると、「はい、乾杯」と言って真帆に向けジョッキを差し出してきた。
「……乾杯」
差し出されたユウジのジョッキと自分のを合わせると、鈍く低い音が鳴った。真帆は恐る恐るジョッキを口元に持っていき、舐めるように少量を口に含んだ。
「ん、美味し……んん?」
初めはジンジャーエール特有の爽やかな甘みが口に広がったが、その直後にアルコールの苦みと香りが鼻に抜け、真帆は思わず顔をしかめる。
そんな真帆の様子を見て、おかっぱ先輩は「ふふん」と鼻で笑った。
いちいち気に障る人だと真帆は思いながらも、悔しさも相まって思い切ってジョッキに口をつけ、ハイボールを喉に流し込む。
「いいねぇ」
ユウジは真帆の飲みっぷりに笑みを浮かべながら、自身も手に持ったジョッキを傾けごくごくと喉を鳴らした。
そこからしばらくの間の記憶が飛んでいた。
気が付くと、会がお開きになったのか全員が店の外に出て各々が好き勝手に騒いでいる。真帆はゆがむ視界に引っ張られるようにぐらぐらと上体を揺らしていた。
「おっと、危ない」
大きく揺れて倒れそうになった真帆の肩をユウジが抱えた。
「真帆ちゃん、大丈夫?」
心配そうに声を掛けてくるメンバーがいたが、顔がぼやけて誰なのかもわからない。
「おれ、心配だから送ってくわ」
真帆の耳元でユウジの声がした。
「いや、お前が送るほうが危ないだろ」
と言った声に周りもぎゃははと笑う。
「とか言って、羨ましいんだろお前ら」
ユウジも笑いながらそう返す。
「おれには真帆ちゃんを誘った責任があるからね。んじゃ!」
そう言ってユウジは真帆の肩を抱きながらみんなとは違う方向へ歩き始めた。ぼやけた視界の中でおかっぱ先輩の視線だけがまっすぐこちらを向いていることだけは分かったが、そこでまた真帆の意識は遠のいていった。
気が付くとどこか見知らぬ天井が見えた。ここはベッドの上のようだ。
倦怠感でいっぱいの身体をなんとかして起こす。
「あ、起きた?」
声のするほうを見ると、ソファーに腰かけたバスローブ姿のユウジがいた。
「え、ユウジ先輩。……ここは?」
まだはっきりしない頭のまま真帆が問いかける。
「いやー、真帆ちゃん意識がなかったからさ、取りあえず休めるとこに入ったんだよ」
大きなベッドの前には大きなテレビモニター。カラオケでも設置されているのだろうか、モニター横にはマイクが二本あった。
ユウジのいるほうを見てみると二人掛けほどのソファーと、その奥には大きな擦りガラスが見えた。
――もしかして、ここ、ラブホテル?
今まで入ったことはないが、なんとなくイメージ通りのその場所に、真帆の鼓動が早くなる。
「あ、あの、私!」
真帆は思わず自身の身体を確認する。
しかし、衣服はそのままであったため、最悪の事態は免れたと真帆は瞬間的に考え胸を撫でおろした。
「あはは。大丈夫だよ。寝てる間になんて趣味じゃないからね」
そう言ってユウジがベッドに近づいて来て、真帆の顔を覗き込む。
「でも、起きたら話は別だよね」
息がかかるほどの距離にユウジの顔があった。
長いまつげが、瞬きをするたびに自分の顔に触れるのではないかと錯覚するほどであった。
真帆は思わず息を止めた。それは恐怖か、あるいはユウジに見惚れてしまったからか。しかしその直後、真帆の頭をユウジの手が優しく包み、そのまま唇と唇が触れる。
一瞬だけ、びくんと揺れた真帆であったが、次に感じたのは唇に伝わる快感だった。
――あ、ファーストキス。
そんなことをぼんやりと考えた真帆だったが、ユウジに誘導されるように何度も口づけを交わしてしまう。
ちゅくちゅくと小気味の良い音が脳内で反響している。
正直それは、自分でも驚くほど気持ちがよかった。気が付くとユウジの肩に手を添え、されるがままに、いや、むしろ求めるように口づけを交わしている。
そのままゆっくりとベッドに押し倒された。
さして抵抗もせずに押し倒された真帆の顔をみて、ユウジは少しだけ笑みをこぼし、そのまま真帆の首元に顔をうずめた。
首筋にキスをされるたびに、今まで出したことのないような声が漏れ出てしまう。
ふわふわとした浮遊感の中にいた真帆は、ぼんやりとした思考の中で「あれ。セックス同意書っていつ書くんだっけ?」なんてことを考えていた。
それが半年ほど前のこと。
あれから何度も身体を重ねたが、明確に付き合ってくれとも、付き合ってほしいとも言わないままの関係が続いていた。
後になって知った話だが、ユウジはそのルックスの良さから、他にも何人もの女性と噂になっているらしい。
「私って、都合の良い女になってるのかなぁ」
真帆はひとつため息を吐き、セックス保険の書類を机に投げ出した。
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