第3話 ポルノグラフィティ
「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」
いつものように美智子が電話を取るが、電話口の向こうではしばらく沈黙が続いていた。
「……あの、お客様?」
「……あ、あの。……保険を、解約したくて」
その言葉に、美智子はツイてないなと心の中で舌打ちをした。
美智子たち顧客対応課の人間が嫌う電話の一つがこの解約の問い合わせだ。
運悪く取ってしまうが最後、顧客を引き留めきれなかった場合、個人の成績に反映され、査定に響くからだ。
「それではお客様、まずは契約内容を確認させて頂きますので、お名前と生年月日をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「……タカクラ、ハジメ。昭和六十二年十一月三日」
「タカクラ様ですね。確認致しますので少々お待ち下さい」
美智子はすぐさま目の前のパソコンに名前を打ち込み、顧客情報を表示させる。
――高倉元、三十二歳、契約期間十二年。しかも、ゴールド免許。
美智子は顧客情報を確認し、再度気合を入れなおす。
十年以上の長期間契約している顧客であり、ゴールド免許所持者。
――これは何としても引き留めないと。査定に響くぞ。
「お待たせいたしました高倉様、今回解約をされたいとのお申し出ですが、なにかご不満な点がございましたでしょうか? 当社では様々なプランをご用意しておりますので、ご相談次第では高倉様の納得のいくご提案も可能かと思いますが」
「……ないんだよ」
「……はい?」
「ボクには必要ないんだよ! いいから解約の書類を送ってこいよ!」
突然の大声に美智子は思わず肩を揺らした。反動でペン立てがガチャンと鳴ったので、隣のデスクの早苗が何事かとパーテーションごしに顔だけ出してくる。
美智子はそんな早苗に向け顔をしかめて今の気持ちを表現した。
「承知致しました。それではいったん、弊社の担当がご自宅に訪問させて頂きますので、もしご不満な点やご不明点などございましたらお申しつけ下さい」
「……いいよ、もう」
その言葉を最後に、通話は切断された。
「はぁ」
美智子は思わずヘッドホンを取りため息をつく。
「なぁに? クレーム?」
早苗が小声で聞いてくる。
「ううん、解約。……仕方ない。また
「アンタねぇ、いくら三上さんが優しいからって、いい加減怒られるわよ」
美智子の言葉に、早苗が呆れ顔で肩をすくめた。
******
「……と、言うわけで。三上さん、お願いします!」
美智子が頭を下げる。
「うーん。仕方ないですね。ひとまず話を聞きに行ってみますか」
そう言うと男はポリポリと頭を掻いた。年の頃は三十代前半くらいであろうか。顔のパーツ自体はそれなりに整っており、短髪を生真面目にセットして清潔感もあるのだが、まゆげの外側が下がっており、そのせいでいつ見ても困っているような表情に見える。
さらにはスリムな体格のせいか、スーツがダボっと見えてなんとも情けない感じがする男だ。
しかし、美智子がこうやって頭を下げてお願いをすると、いつも承諾してくれる気の優しい男なので、美智子は困ったことがあるといつも彼を頼るのだった。
――保険調査員。
事故の相手方との交渉や、現場検証、果ては独自調査まで行う保険会社の精鋭部隊だ。美智子の会社では外交員と調査員を兼務している社員が多い。
この三上という男も、頼りない見た目とは裏腹に、数々の事故を交渉してきたその道のエキスパートである。
「タカクラ、ハジメさんですね。話の通じる人なら嬉しいですが」
そう言って三上はへにゃりと笑った。
******
――ピンポーン♪
三上がインターホンを押すと、まるでアパート中が響いているかのような呼び鈴が鳴った。
築年数が相当古いであろうそのアパートは、壁中にひび割れが出来ており、よく言えば通気性は良さそうだった。
しかしこれでは、どこの部屋を呼んでいるのかわからないのではないかと三上は思ったが、そんな心配をよそに目の前のドアがゆっくりと開いた。
「こんにちは。私月光生命の三上と申します。高倉元様でしょうか?」
三上はにこりと笑い名刺を差し出した。
「……なんの用です?」
半開きの扉の向こうにいる男は不機嫌そうに口を尖らせる。
寝癖のついたボサボサの頭は、脂ぎってテカテカと光っており、みるからに不潔そうだ。
「この度、ご解約のお問合せを頂戴したということでしたので、もし、ご相談出来ることがあればと訪問させて頂きました」
三上の言葉に「ハァ」と大きなため息をついてから、高倉はゆっくりとドアを開けた。
「……どうぞ」
「失礼致します」
三上は玄関で一礼してから、高倉の後に続き部屋の奥へと進む。
部屋は少し広めのワンルームのようだが、脱ぎ散らかした衣類やゴミが散乱しており、足の踏み場もないような状況だった。潔癖な人間であれば、この部屋に足を踏み入れた途端に気絶してしまうことだろう。
高倉は足で軽くスペースを開け、隠れていた座布団を引っ張りだす。
「……どうぞ」
三上は指示されるまま、高倉がゴミの山から発掘した座布団に腰掛けた。
小さなテーブルを挟んで男が二人、向かい合う。
高倉はタンクトップ一枚に短パンといった格好で、所在なさげに頭をポリポリと掻いている。
細い身体にタンクトップを着ているせいで、なおさら貧相に見えてしまう。
「それで……」と三上が切り出す。
「今回解約をされたいとのことですが、何かご不満な点などはございましたでしょうか?」
三上の言葉に答えることなく、高倉はつまらなそうに口を尖らせている。
「こちらが現在高倉様にご契約頂いている内容ですが、このほか、料金面、保障面ともに様々なプランがございますので、きっとご納得頂けるプランもあるかと思いますが」と三上は書類の入ったクリアファイルをテーブルに並べた。
「……ないんです」
高倉が小さい声で答えた。
「……ない、とは?」
三上の問いかけに、再度ため息をついた高倉は、そこでようやく三上と視線を合わせた。
「お兄さん、セックスしたことある?」
「わ、私ですか?」
高倉の言葉に、戸惑いを見せた三上であったが「ま、まぁ、そうですね。誇れるような数ではありませんが」と答えた。
「……じゃあ、わかんないよ」
「わからない? 何をでしょう?」
「……ボクの気持ち」
「高倉様の、お気持ち、ですか?」
高倉はふいに立ち上がり、ゴミの山からカバンを引っ張り出した。ゴミの入った小さな袋たちが雪崩のように崩れ落ちる。
しばらくカバンをあさり、目当ての物を取り出してから、もう一度カバンをゴミの山に投げ捨てた。
そしてカバンから取り出したものを三上の前に置く。
「……これは。高倉様のセックス免許証ですね。しかも素晴らしいことにゴールド免許でいらっしゃる」と三上は高倉に笑顔を向けるが、高倉はフンと鼻で笑った。
「……なにが素晴らしいんです」
「……え?」
「今まで一度も使ったことのないゴールド免許に、なんの素晴らしさがあるんですかっ!」
突如激昂した高倉はテーブルのゴールド免許を掴みとり、床に投げ捨てた。
「こんなもの! こんなものがあったって!」
高倉は顔を真っ赤に染めて身体中を震わせている。
「こんなものがあったって! いつまで経ってもボクはセックス出来ないじゃないか! いつまで経っても童貞だ! いつまで経ってもボクはペーパーセックスマンだ! ペーパーおちんちんだ!」
こんなもの! こんなもの! と言いながら高倉はゴールド免許を何度も踏みつける。
「そんな男に! なんの保険が要るっていうんですか!」
高倉の目は血走り、うっすらと涙が浮かんでいた。
三上はそのあまりの迫力に息を呑み、しばしの間身動きが取れなかった。
*******
「……というわけです」
三上が肩を落として美智子に顛末を報告した。
「……そうですか」
美智子もがっかりしたようにうなだれる。
「近々、もう一度お電話が入ると思います。……恐らく、高倉様の意志は固いでしょうが」
「わかりました。ただ、顧客対応課として、なんとか最後まで喰らいついてみようと思います」
そう言って美智子は三上にお辞儀をし、自身のデスクへと戻った。
――そして数日後。
電話の転送ランプが光ったのを確認し、美智子はボタンを押した。
『松島さん、タカクラハジメ様からのお電話です』
――きたか。
美智子は了承し、通話のボタンを押した。
「お電話代わりました。担当の松島です」
「……やっぱり、解約します」
電話口の向こうの自信なさげな声からは、三上の言うような暴れっぷりは美智子にはとても想像ができなかった。
「しかし高倉様、無保険となりますと事故が起きた時に保障が効かなくなりますし、備えあれば――」
「備えるのに、疲れたんです」
美智子の言葉を遮り、高倉が呟く。
「備えていれば、期待してしまうんです。ゴールド免許の申請をしたのも、保険料が安くなるってこともありますが、いつかもしそういう場面になった時に、少しでも自信になるかと思ったからです。……でも、もういいんです」
いつの間にか電話の向こうの声が震えてることに美智子は気づいた。――考えれば酷な話だ。
赤の他人に自分の性生活を語らなければならない。この状況はなんなのだろう。
美智子は自分の仕事ながら、疑問を感じずにはいられなかった。
電話口からは、高倉のすすり泣く声が聞こえている。
「高倉様」
美智子は優しく声を掛ける。
「……高倉様にとって、セックスとはどういうものでしょう?」
「……え?」
美智子の問いかけに、高倉も戸惑いの声を上げる。
美智子自身も、自分がなぜそんな問いかけをしたのか分からないでいた。思わず口を出た言葉だった。
「……セックス。そうですね。……月、みたいなものですかね?」
しばらく沈黙が続いた後に、高倉が呟くように答えた。
「……月」
「そう、月みたいなものです。目に見えて、確かにそこにあるのは分かっているけど、決して手が届かない。……ボクにとってセックスとは、月みたいなものです」
「そうですか」
その言葉に、美智子は不覚にも素敵な言い回しだと思ってしまった。
――目に見えているのに決して届かない。……月。
「……でも、アポロ十一号は月に行きましたよ」
そう言って美智子はふふっと笑った。
「……アポロ?」
高倉がチョコレートの名前を言うようなイントネーションで聞き返す。
「そうです。アポロ十一号。ご存知ですよね?」
「はぁ、まぁ、聞いたことくらいは……」
「本気で月に行きたいと願えば、人はロケットだって作るんです。……高倉様、今一度、月を目指してみませんか?」
「月を?」
「実は、当社ご契約の方で、ゴールド免許をお持ちの男性にのみご紹介させて頂いている特別なマッチングサービスがあるんです」
「マッチング、サービス……」
「はい。女性の皆様も当社のご契約者様ですので、身分は保証されておりますし、このサービスをご利用になる女性の方も意外と多いんですよ」
「で、でも、ボクなんか……」
「特別な、と申し上げたはずですよ。高倉様のマッチングが成功するまで、専属の担当が親身になってご相談に乗りますのでご安心下さい」
高倉は反応せずに黙っている。
「いかがでしょう? 今一度、当社を信じてご契約を継続していただけませんでしょうか?」
美智子のその言葉を最後に、長い沈黙が続いた。
「……わかりました」
聞こえてきた高倉の言葉に、美智子は思わず小さくガッツポーズをした。
「それでは、マッチングサービスの詳細をお送りしますので、ご確認下さい。ご不明な点がございましたら、いつでも私、松島までお電話いただければと思います」
「……松島さん」
「はい」
「……いや、……ありがとうございます」
「……滅相もございません」
美智子は電話越しにもかかわらず、深々とお辞儀を返した。
「うまくいったの?」
隣のデスクの早苗がパーテーションから顔だけを出し聞いてきた。
「うん。……もう一度だけ、月を目指してみるんだって」
「……月? ふ、ふーん?」
美智子の言葉に首を傾げながら、早苗はゆっくりと自身のデスクへとフェードアウトしていった。
美智子の耳に新たなコール音が届く。
美智子はふっと笑みをこぼし、通話のボタンを押した。
「お電話ありがとうございます。こちら月光生命セックス保険コールセンター、担当の松島です」
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