第2話 過失割合とゴールド免許

「……ですので、今回の過失割合は7:3あたりが手の打ちどころかと思われます」


 美智子がそう告げると、電話の向こうから大きなため息が聞こえてきた。


「えー、マジで? そもそも一人暮らしの男の部屋に遊びに来たら、同意したものと思うじゃないですか。保険会社なら、もうちょっとなんとかして下さいよ」


 そんな男の言い訳を聞きながら、美智子は悟られないようにふっと息を吐く。

 セックス同意アンマッチ事故を起こす人の言い訳はいつもそうだ。

「相手が誘ってきたから」「部屋についてきたから」「酔った勢いで」などなど。

 かつて、そんな事故が多発したからこそ出来た【免許制】であるにも関わらず。


「ですがササキ様、今回のケースですと、本来はササキ様の過失割合は9:1や10:0最悪の場合、暴行事件としての起訴までいく可能性があるケースでございます。それを、相手方も最大限譲歩していただいた結果が7:3という割合でございますので、ここはお引きになったほうが宜しいかと」


 美智子は感情を出来る限り抑えた声で、ササキに説明をした。


「マジかぁ。……で、いくらくらいになりそうなんですか?」

「はい。まず、双方で過失割合の同意がなされた場合、その割合によって相殺清算を行います」

「相殺?」

「はい。お車の事故と同じように、互いの賠償額を計算し、それを過失割合で割った後に、それぞれの金額を照らし合わせて差引をするわけです」

「んー? ちょっとややこしくてわかんないんだけど、結局いくらくらいになるの?」


 当然、その質問が来ることを予想していた美智子は、すでにパソコンの計算式に数字を入力していた。


「今回のササキ様の場合ですと……、およそ三十二万円ほどの請求になるかと思われます」


 美智子はディスプレイに表示された金額をササキに告げた。


「んげ! そんなにいくの?」

「ただし、ササキ様のご加入されております【ボクらの明日】Bプランですと、対人三百万円までは補償内ですので、こちらでお支払することも可能です」

「え? マジ? 良かったー」

「ただ、保険をお使いになる場合等級が上がりますので、次回お支払より保険料も上がることになりますが問題はございませんでしょうか?」

「えー。……ま、仕方ないか。いま手元に三十万もないし。じゃあ、それでお願いします」

「承知いたしました。それでは、手続きに関する書類をお送りしますので、ご記入の後、ご返送いただければと思います」

「あ! ちょっと待って! うち、たまに母親が掃除しに来てて、その……、郵送で書類を送ってくるのはやめて欲しいんだけど」


 その返答も、美智子には想定内だった。

 ササキに限らず、セックス保険会社からの案内が郵送で届くのを嫌がる顧客は多い。


「それでは、ご登録のメールアドレスにPDFデータで書類をお送りしますので、そちらからご確認下さい。ただし、期限を過ぎてしまうと交渉が長引く可能性がございますのでご注意いただければと思います」


「了解でーす」


 まるで他人事のような軽い返事をして、ササキからの電話は切断された。


 美智子はちらりと時計を見た。時刻は夜の二十一時前。ちょうど、美智子の勤務が終わる時間であった。

 顧客対応課はその性質上、勤務時間が不定期だ。

 美智子の会社では、早番、遅番の二つの時間帯に分け、夜の二十一時まで顧客の電話に対応している。


「みっちゃん、今日の報告書まとめたら課長のとこ持ってってあげるから声掛けてね」


 隣のデスクのパーテーションから早苗が顔を出して言ってくる。


 美智子の部署では、案件が終了した段階で報告書の提出が義務付けられていた。しかもペーパーレスが進むこの時代に、なぜかこの報告書だけは紙に印刷した上で上長への提出が義務付けられているのだ。

 業界特有のことなのか、この会社特有のことなのかはわからないが、旧態依然としたこの無駄な業務に、美智子たち現場の人間はときたまうんざりするのだった。


「いつもありがと。たまには私が持ってくよ?」

「いいのいいの。アンタ落合課長のことあんまり好きじゃないでしょ?」

「別に、そんなことないわよ」と美智子が感情のこもらない声で返す。

「辛気臭いもんねぇ、課長。私はほら、おじさんキラーだから」

 そう言って早苗がへたくそなウィンクをする。


「なに言ってんのよ。ま、そこまで言うなら今日もご厚意に甘えますかね」

「5ポイントたまったらランチのコーヒーね」

 スタンプを押すような仕草をする早苗に、美智子は呆れたように「はいはい」と返事をした。


 美智子は報告書をプリントアウトした後、汗でほんのりと湿ったヘッドホンを外し、ふぅと一息ついてからパソコンの電源を落とした。


  ******


 カウンターに腰掛けている美智子は、マティーニのグラスを傾けた。束ねていた髪を下ろし、すっかりリラックスモードだ。


 彼女がいるのは、遅番の時に決まって立ち寄るこじんまりとしたバルだった。目の前では少し長めの白髪を後ろで上品に纏めたマスターがグラスを丁寧に磨いている。


 美智子はここの雰囲気が好きだった。


 若者には手を出しづらい値段のためか、客層も落ち着いており、なによりマスターが日替わりで作るツマミが絶品なのだ。

 気軽にこういった場所に入れるだけの収入を貰っていることだけは、今の仕事をしていて良かったと思える。

 ナンパ目当ての客などもいないので、一日の疲れを溶かすにはぴったりのお店である。


「お姉さん、一人で飲んでるの?」


 前言撤回、ナンパ目当ての客は【ほとんど】いない。


 美智子が顔を向けると、声の主はにっこりと微笑んだ。紺のスーツを着こなしたさわやかな男だった。

 年は美智子よりも少し上くらいだろうか。


 ――悪くは、ないかな。


 心で品定めしながら、美智子も少しだけ微笑み返す。


「あ、マスター。おれ、バーボンジンジャーで」

 男は慣れた口調でマスターに告げる。

「銘柄はいかがいたしましょう?」

「ワイルドターキー。あ、ジンジャーは辛いやつでね」

「かしこまりました」

 マスターに笑顔で手を上げた男が、改めて美智子に顔を向ける。


「おれ、ムカイって言います。お姉さんは?」

 ムカイと名乗った男は美智子の目をまっすぐ見ながら問う。自分に相当な自信がないと出来ない芸当だ。

「松島です」

「松島さんね。職場はこの近くなの?」

「ええ、まぁ」と言いながら美智子は手に持ったマティーニを少しだけ舐める。

「実はさ、おれ、前から松島さんのこと気になってたんだよね」

 言いながら、ムカイはマスターからバーボンジンジャーのグラスを受け取り、美智子の方へグラスを差し出した。

「だから今日は、おれが勇気を出した記念日。……乾杯」

 思わず鼻をつまみたくなるような臭いセリフではあったが、不思議と悪い気はしなかった。

「ふふ、乾杯」

 美智子は手に持ったグラスをムカイのそれと軽く合わせた。


 そこからしばらくは軽い談笑が続いた。

 ムカイはそこそこ名の知れた企業で働いているようだった。

 酔いの回ってきた美智子は、心のどこかで「いいかな」という気持ちになっていた。

 隣にいる男と、そういうことになっても「いいかな」ということだ。

 大学を卒業してからというもの、早苗が主催するコンパなどには参加したが、これといった良い男には出会えていなかった。

 隣にいるムカイはルックスもそこそこ、清潔感もあり勤めている企業も申し分ない。

 そんなことを総合的に計算しての判断だった。

 ムカイもそんな美智子の雰囲気を感じ取ったのか、かなり近くまで身体を寄せてきた。

「この後、どうする?」

 男の吐息が耳に当たる。

「んー、どうしよっかー?」

 美智子もまんざらではない風に答える。

「ゆっくりできる場所に行こうよ。安心して、おれ、コレだから」

 と男が取り出したモノを見るなり、美智子の酔いは一気に醒めた。


 ――ゴールド免許。


 美智子は心の中でため息を吐いた。

 男が見せてきたのはセックス免許証である。その上部の帯は金色に輝いている。いわゆる「ゴールド免許」というものだ。

 セックス免許証をゴールドにするには、五年間無事故のうえ、指定の医療機関にて性病検査をしたのち、決められた講習を受けることで取得することが出来るものだ。

 つまり、セックスにおいてある程度の信頼がある人物だという証明にもなる。


 ――でも。


 美智子はムカイの顔をちらりと見たあと、つまらなそうに正面にあるカウンター奥のグラス棚へと目線を移した。

「さて、ここで問題です」

 突然の美智子の言葉に、ムカイの肩が少しだけ跳ねた。

「も、問題?」

「当日にセックス同意書を書かなくても違反とならない性交の条件を三つ以上答えなさい」

 美智子はそういうと、グラスを一気に傾けた。

「な、なに? 突然。……み、三つ?」

 ムカイは未だに戸惑っている。

「えーっと、確か……。セックスをした日から一週間以内に、お互いが申請書を提出した場合、だよね?」

 ムカイは空中を見ながら答えをひねり出す。

「……ひとつ」

 美智子はつまらなそうにグラスに残ったオリーブをつまんで齧った。 

「えーっと……、あとは……」

 ムカイはずっと上を向いている。どこかに答えが書いていないか探しているようにも見えた。

「あ! 海外だ! 外国で日本人以外と性交する場合!」

「……ふたつ」

 と言いながら美智子はマスターに向かい手を上げた。

「まだあったっけ? うーんと……」

 美智子はマスターにお金を支払うと、未だに頭を捻るムカイを置いて席を立った。

「残念、時間切れ。……あと、その偽造免許証、造りが甘いわよ?」

「……え?」


 ぽかんと口の空いたムカイに振り返ることなく、美智子は店を後にした。


  ******


「あーあ、なにやってんだろ、私」

 駅に向かう途中で、美智子は大きく息を吐いた。


 正直、いい男だと思った。

 抱かれてもいいとさえ。


 しかし、偽造のゴールド免許をちらつかせ、それをダシに女を落とそうという男だと知ったとたん、美智子の熱はすっかり冷めてしまったのだ。


「ひどい職業病だ」

 親の世代は、ワンナイトラブなんてものはよく聞く話だったという。

 セックス免許が浸透した今の時代に生きる美智子には、到底信じられない話だ。


 ――セックスって、なんなんだろ?


 美智子は立ち止まり空を見上げる。

 ビルに阻まれた狭い空に、うっすらと光る月が見えた。

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