第6話 同姓同名の想い人(1)

 満員電車に乗るのは久しぶりだった。


 ブラック企業に勤めていた頃は、朝は暗いうちから家を出て、家へ帰るのはほぼ終電かそれに近い時間だった。

 仕事が終わらなければ会社に泊まって仕事をした。だから、いわゆる通勤のピーク時間に電車に乗ることがほとんどなかったのだ。


 我ながらよく過労死しなかったものだと今更ながらに思う。これももしかして、俺の中にある「悪運の強さ」のなせる技だったのだろうか?


 結局会社は「一身上の都合」により退職した。

 例のパワハラクソ上司は俺を許さず、懲戒解雇にしてやると息巻いていたが、俺の方も黙ってはいなかった。


 いつか何かの役に立つかもと思い、深夜に送信した業務メールの写しをとったり、タイムカードを写メしておいたりしてあったのだ。

 あと、上司のパワハラ発言の幾つかも密かに録音しておいたことも役に立った。


 これらの証拠品を会社に突きつけ、これから労働基準局にこの証拠品の数々を持ち込むか、もしくは民事でパワハラの事実を訴えると啖呵たんかを切ったら、会社は俺をあっさりと自主退職扱いにしてくれた。


 大した金額ではなかったが少しの退職金も出た。

 大人しく従順だと思っていた俺が、ものすごい勢いで凄んだことで会社は本気でまずいと思ったのだろう。

 会社はこれが単なる脅しではなく、俺が本気で訴える気があると判断したようだ。

 労基に駆け込まれたり、裁判沙汰になるとブラック企業にとってはいろいろまずい。会社は手のひらを返したかのように俺への態度を急に軟化させてきた。


 それまでサービス残業扱いにされていた残業代のいくらかもなんとか取り戻した。これで失業保険が出るまでの待機期間の間と、次の職場への転職活動中の当面の生活費ぐらいはなんとかなりそうだ。


 正直言ってまだかなり不満は残るが、俺はこれ以上はもう噛みつかないことにした。

 あの会社には一切関わりたくないし、あまり追い詰めすぎると、逆に状況が悪化する恐れがあったからだ。


 ほら、俺って超不幸体質だから、やりすぎるとろくなことにならないかもしれないし。


 ここまでなんとかうまくいったのは、実はやこのおかげでもあった。

 やこによると、神使の眷属けんぞくとなることで、多少の悪運なら遠ざけることができるようになるかららしい。


 神様パワーすごい。ありがたや、ありがたや。


 そういうわけで、やこの「神使の使い」になる契約をしてからの俺は、毎日こうして電車に乗ったり、街中ですれ違う人々を観察する日々だった。


 やこが言うには悪縁のかけらが多い人はかなり濃厚な邪気を漂わせているという。

 俺はやこと契約したことでその邪気が見えるようになったらしい。

 俺の役目はこの能力を使って、邪気を漂わせてる人を見つけ、やこのところに導くというわけだ。


 だが、意外にも濃厚な邪気を漂わせている人はそうそういるものではないらしく、俺は今の所それらしい人間をまだ一人も見つけられていなかった。


 人間は誰しもが不満や悪意などの負の感情を必ず抱えているものだが、悪縁のかけらができるぐらい多くの邪気を持つ人間はなかなかいないらしい。


 満員電車なら毎日いろんな人間が乗り降りするし、楽勝だと思ったんだけどなあ……。


 そんなことをぼんやりと考えながら、窓ガラスに映り込む自分の姿をなんとなく見る。

 窓ガラスに映り込む人々はほとんどが下を向いていて、スマホや文庫本などを眺めている。

 きちんとスーツを着た人々の中にまじり、くたびれたパーカー姿で、自分の顔を気の抜けた表情で眺めている自分自身がちょっと異質に見えた。


 終点への到着を告げる車内アナウンスが響き、ドアが開くと同時に人がごっそりと車内からいなくなる。

 まだ閉じている反対方向のドアの向こうでは、折り返しとなるこの電車に乗り込もうとしている人の列が見えている。

 やがて乗車側のドアが開くとまだ乗ってきた人が降り切らないうちに、たくさんの人が乗り込んでくる。


 とりあえず、一旦電車を降りて、今度は駅前周辺でも歩いてみようかと考えていたその時、俺は突然背筋に強い違和感を感じた。


 なんだ? この妙な寒気と違和感は。まるで背中に氷の塊でも押し当てられたみたいだ。

 それまで普通に見えていた車内に黒っぽい霧のようなものが漂い始める。

 異様な状況なのに、周りの人々が騒ぎ立てることもない。


 この黒い霧、俺にしか見えてないんだ。


 違和感は降車側ではなく、乗車側から感じられた。


 間違いない。

 折り返しとなる電車に乗ってきた誰かの中に悪縁のかけらを持った人間がいる。


 俺は降りるのはやめて、そのまま車内に残った。

 人混みをかき分け黒い霧のような邪気を発している者を探す。


 そいつはドア近くにたむろしていた男子高校生の集団の中にいた。

 制服をだらしなく着崩し、大声で笑ったり騒いだりして、どちらかというとあまり近寄りたくない雰囲気の集団だ。

 そんな中で、そいつは一人でドアにもたれかかって不機嫌そうに顔をしかめ、目を閉じている。

 背が高く、何かスポーツでもやっているのか体格もいい。喧嘩したら強そうな雰囲気だ。


 俺は確認のためにさりげなく高校生たちに近寄る。

 ドアにもたれかかっている少年からは黒っぽい霧が無限に湧き上がってきている。こいつで間違いないようだ。


 さて、あとはこの少年をどうやってやこのところまで連れて行くかだが。


 見ず知らずの少年にいきなり声をかけるのはなかなか難しい。

 ましてや集団の中にいるとさらに難易度が上がる。彼が一人になるのを待つしかないだろう。


 考えているうちに車内アナウンスが次の駅への到着を告げ、高校生たちは一斉に電車から降りる。おそらくここが学校の最寄り駅だろう。


 俺は適度な距離を保ちながら、彼らの後ろをついていく。


 あれ?

 あの少年の左手首と左足首についているものは何だ?


 よく見ると少年の左手首と左足首に細い縄のようなものがついている。手首の方は赤く、足首の方のそれは白い。そしてそれらは、彼が歩いても決して巻きつくことも絡まることもなかった。

 手首と足首から伸びる縄の先はだんだん色が薄くなり、消えてしまっている。


 彼と一緒に歩いている他の高校生たちにはそういうものはついていない。


 あれは一体何だ? やこからは何も聞いていない。

 邪気を纏う人間の周りには黒い霧のようなものが見える。それしか聞いてはいない。

 どうやらその縄のようなものは俺以外には見えていないようだ。


 やがて高校生たちは学校の門の中に吸い込まれていく。

 さすがにここから先はついて行くことはできない。


 校門のところには「西稲荷山高等学校にしいなりやまこうとうがっこう」と校名の表示があった。


 とりあえず、ターゲットは見つかった。

 この高校の生徒であることもわかったので、あとは放課後にでも彼を待ち伏せて声をかけることができるだろう。


 放課後まで適当にどこかで時間潰しでもしていよう。


 そう考えて俺は今来た道を駅方面に向けて引き返す。

 この辺りには他にも学校がいくつかあるらしく、西稲荷山高校とは違う制服を着た高校生と何人もすれ違った。


 その中の一人とすれ違った時、俺はまた妙な違和感を感じたのだ。

 さっきの少年に感じた邪気と少し似ているが、それはとても微弱なものだ。


 他にも悪縁のかけらを持った者がいるのか?


 だとしたらこれはなかなかいい感じだぞ。

 悪縁のかけらを一気に集めることができるかもしれない。


 すれ違った相手をよく見ようと振り返った俺は、思わず大きな声をあげてしまった。


「えっ?」


 俺の声に驚いた高校生たちの何人かが立ち止まる。

 すれ違った相手も、不思議そうに振り返る。


 小柄で、眼鏡をかけた気の弱そうな雰囲気の少年だった。

 悪縁のかけらを持つ西稲荷山高校の少年とは違う学校の制服を着ている。


 彼の周りにもうっすらと霧のようなものが漂っているが、明らかな邪気ではないようだった。

 しかし、俺が何よりも驚いたのは、彼の左手首と左足首にも、赤と白の縄のようなものがついていたことだった。


 俺は衝動的に、少年の腕を掴んでいた。


「君、ちょっと話があるんだ。こっちへ来て!」










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