「ご無礼ながら、ご主人様。ご主人様は、御自おんみずらを飾られることが少なくていらっしゃいますね」


 足利の隠密──乙葉様、とかおっしゃいましたか。死んでしまった者の名前を覚えるのは不得手なのでうろ覚えですが、ともかくわたしは彼女の首級くび化粧けわいつつそう尋ねました。

 ご主人様は、少し離れたところに腰を下ろされて、今しがた届いた書状に目を通されていらっしゃいます。人当たりのよろしい方ではございませんが、人脈は広くていらっしゃるのです。……失礼でしたでしょうか。まあ、口に出して言った訳ではないのでご主人様もお怒りにはならないでしょう。


「それがどうかしたか」


 わたしの方へは目もくれずに、ご主人様はお答えになられました。目線は書状に落とされたままです。

 いつもはこのようにしょうもない質問を投げ掛けると無視されることもございますので、今日は幸運といったところでしょうか。ご主人様と共にいられるのであれば、わたしはいつでも幸せでございますがね。


「だってご主人様は、せっかく綺麗なお顔をしていらっしゃるのに、化粧は薄いですしお着物も地味な色合いのものばかりお召しになるではございませんか。わたしごときが口出し出来ることではないと重々承知してはいるのですが、わたしと致しましてはどうしても勿体なく感じられて仕方がなくて……。死体には化粧をさせるといいますのに、何故ご自分は飾ろうとしないのですか?」


 そうだ。ご主人様は美しくていらっしゃる。

 わたしも此処数年でだいぶ小綺麗になったと自負しておりますが、ご主人様には百年、いいえ千年経とうと敵う気が致しません。

 きっと、これが素材の良さというものでございましょう。ご主人様は何をなさっていても美しく見えて堪らないのです。たとえ他の人間がご主人様をどのように評価しようとも、わたしの中で最もお美しいのはご主人様です。

 当のご主人様はといいますと、やはり此方をご覧になることはございません。視線は書状に向けたまま、凛と響くお声でお答えになられます。


「決まっているだろう。好かないのだ。この他に理由がいるか?」

「好かないのは、どうしてでございましょう? お化粧は苦手でいらっしゃるのですか。もしご自分でなさるのが不得手だとおっしゃるのならば、わたしがあなた様のお顔を彩って差し上げましょう。お着物を見繕うのが苦手ならば、わたしが似合うものを探して参ります。何もかも、ご自分でなさらなければならぬ必要はないのですよ」


 そう──ご自分で身の回りを整えられないとおっしゃるのなら、全てわたしに任せてくだされば良いのです。

 ご主人様は、その生い立ちからでございましょうか。何でもお一人で解決しようとされるきらいがおありのように感じられます。近くにわたしというものがありながら──です。

 たしかに、いざという時に物を言うのは個人の技量でございましょう。必ず自分の味方でいられる存在など、己以外におらぬのですから。

 しかし、ご主人様にはわたしがおります。他人に体を売り、きゃんきゃん鳴くくらいしか能のないわたしではございますが、ご主人様の前でならば幾分かなれたような気がしてならないのです。


「ご主人様、何でもお一人で抱え込むのは、どうかおしくださいまし。あなた様には、わたしがいるではありませんか」


 首級を化粧う作業を放り、わたしはご主人様に近寄ります。

 ご主人様は、お外に出る時にはさすがにうっすらと化粧いますが、今日はお家にいらっしゃることもあってかその肌を覆うものはございません。身に纏っていらっしゃるのも、地味な灰色のお着物。これでは、まるで葬式にでも行く人か、独り身の寡婦のようでいらっしゃいます。

 もっと彩り豊かなお着物をお召しになれば。まなじりにくっきりと、紅を引けば。

 そうするだけで、ご主人様は今よりも鮮烈な存在になられるでしょう。奈落にありながらも、強烈な存在感を放つ女へと、変わられることでしょう。

 それを、他ならぬわたしが飾り立てるのです。それは何と、愉快なことでありましょうか。


「──ならぬ」


 しかし、ご主人様はわたしを拒まれました。

 切れ長の瞳が、わたしの姿を捉えます。鋭い視線は、まるで刃のよう。見られただけで、わたしは何十にも切り刻まれたかのような感覚を覚えます。


「貴様に求めるは、神母坂常若の情報を掴むことと。何度言わせればわかる」


 ご主人様のお言葉は、きりや槍の切っ先のように尖っていらっしゃいました。しかし、其処に色はございません。感情など、もとより込められてはいないのです。

 無──というのでしょうか。これは。


「貴様はわたしの下僕ではない。使用人であれば、いくらでも人材はある。貴様こそ、全て一人で済ませようとしているだろう。他人のことは言えぬぞ」


 鼻先がぶつかりそうな距離まで近付いてみたのですが、ご主人様はそれ以上近付くことをお許しにはなりませんでした。ぐ、と肩口を強めに押されます。

 しかし──嗚呼、ご主人様はあまりにも非力です。押されたところで、わたしの体はぐらつくことなどございません。

 武器を持ったことなどないであろう、非力でか弱いご主人様。それでも、言葉によってわたしを制そうとするその姿勢がいじらしくて堪りません。


「うふふ、ご主人様の行為とは、また違った意味でございますよ。わたしは、ご主人様のように孤高であろうとはしておりません。むしろその逆──ご主人様の、唯一になりたいのですよ」


 ご主人様がそうされたように、わたしもご主人様の肩口を押してみます。彼女の小さな体は、すぐに後方へと倒れました。

 嗚呼、何ということでしょう。わたしは、ご主人様を押し倒している!


「ご主人様は、人間不信でいらっしゃるのでしょう? うふふ、その程度、わたしのような下賤げせんの者にもわかりますよウ。ご主人様は、幾多の人に裏切られ、傷付けられてきたのですからねエ」


 意識せずとも、頬がゆるみ、微笑みを浮かべてしまいます。だって今、わたしはご主人様を床に組み敷いているのですから。

 小柄で華奢なご主人様。わたしよりも女性らしい体つきをしていらっしゃいますが、その体にはほとんどあらず。その身を駆使して戦ったことなど、きっとないのでございましょうね。

 気高く、感情の機微を見せることなく、常に冷然として振る舞っていらっしゃるご主人様は、果たしてこの不埒者ふらちものに何を思われるでしょう? 何せわたしは興奮しております。獣のように、ご主人様を前にして発情しております。へその下も、熱くてはち切れそうで堪らない。


「人は信じられませんか、ご主人様? それでも構わないのです、ええ、わたしには何の支障もございません。しかしながら、こうもご主人様に忠誠を誓っているわたしは、決してご主人様を裏切りは致しません。何があろうと、あなた様の味方であり続ける所存にございます」


 ご主人様は、瞬きを繰り返すばかり。わたしに声をかけることはありません。

 驚いていらっしゃるのでしょうか。このような半端者に組み敷かれ、屈辱を覚えていらっしゃるのでしょうか。

 嗚呼、どちらもそそる。何にせよ、ご主人様がわたしだけをその目に映してくださっているのなら、それ以上のよろこびはないのです。


「──ねエ、ご主人様。わたしを情夫となさりませ」


 ずっと前から言おう言おうと思っていた言葉を、わたしはこの時やっと口にしました。


「男が恐ろしいとおっしゃるなら、わたしはなれます。わたしには、たをやめなる身体もありますから。──ですから、ね? わたしだけをお側に置き、何もかもを任せてしまえば良いのです。わたしはあなた様を否定など致しません。あなた様は、わたしの全てなのですから。この身、どのように使ってくださっても構わないのですよ」


 わたしはそう言って──ご主人様の頬に舌を這わせんと顔を近付けました。

──が。


「無礼者」


 暴力が飛んで来ることはありませんでした。

 その代わりに向けられたのは──燃えるような眼差し。


「貴様、いつ私を下に組み敷いて良いと言った」


 あ、とわたしの口から吐息のような声が漏れます。

 しかし、それは快さから来る喘ぎではございません。むしろ、悲鳴に近いものでありましょう。


「私は貴様の主人ぞ。貴様は私に従い、従順さをもって我が命令に応える存在でなくてはならぬ。それなのに──何だ、この有り様は。貴様、私を犯すつもりか」

「ご主人様、わたしは──」

「思い上がるなよ、鞆音。貴様は私の配下なのだ。私からような存在ではない。貴様が己の頭で考え、その結果私を犯し凌辱しようと思い至ったのならば、それは私に対する謀叛むほんにも等しい」


──謀叛。

 そう聞いた瞬間、途端に私は恐ろしくなりました。全身を震えが駆け抜けて、さあっと寒気に襲われました。


 謀叛、それは主君への裏切り。


 いけません、そのようなこと、あってはなりません。だってわたしは、ご主人様の──唯一の味方でなければならないのですから。

 わたしは本能的に、ご主人様から離れておりました。そうしなければ、取り返しのつかないことに発展すると──そう、身体中が警鐘を鳴らしていました。


「も、申し訳ございません、ご主人様」


 恐ろしくて、なりませんでした。普段は回る舌も、この時ばかりは回ってくれませんでした。

 ご主人様に嫌われるのはまだ良い。ご主人様に捨てられれば、わたしは何処にも居場所がなくなってしまう。

 考えるだけで、叫び出したくなる程の恐怖を感じました。ご主人様はたったひとつの居場所であり、わたしの主君でございますれば、いなくなられることなど考えられないのです。


「どうか、お許しくださいまし」


 床に額を擦り付けます。見世物小屋では地面でしたが──今の方が、余程辛い。

 土下座するわたしを、ご主人様はどのような顔で見つめられていたのでしょう。わたしにはわかりません。わかるはずがありません。今のわたしは、ご主人様を見ることなど出来ないのですから。


「鞆音」


 ご主人様が、わたしの名を呼びます。

 ご主人様のことを思いながら字を探し、そして付けた名前。それを呼ばれる度に、わたしの体には雷が落ちたかのごとき衝撃が走ります。今回は──そう、悪い意味で。

 何をおっしゃられるのだろう。わたしを、どう処断するおつもりなのだろう。

 何を想像しても、悪い方向へしか思い至りませんでした。いっそのこと消えてしまいたいと願う程、わたしにとっては辛く苦しい時間でございました。


「死化粧はまだ終わっていないだろう」


 つ、とご主人様が緩やかにわたしから視線を外されます。声のする方向からして、彼女はいつの間にか立ち上がられたようでした。

 たしかに、わたしに宛がわれた化粧の役目は途中です。ご主人様に近付きたいという気持ちを抑えることままならず、作業を中断していたのでした。


「私なぞにかまけている時間があるならば、まずは任ぜられた役目を果たせ。職務怠慢で追われたいか」

「ご主人、様」


 要するに──わたしは、お許しを得られたのでしょうか。

 嗚呼、良かった。ご主人様から、いらないと断ぜられなくて。ご主人様のもとから離れることにならなくて。本当に、本当に良かった。

 わたしはずるずると這うようにしながら、隠密の首級の置いてあった場所まで戻ります。大幅に形が崩れている訳ではありませんが、やはり異臭は否めません。早いところ、化粧を済ませてやらなければ。

 ご主人様が何を望まれていらっしゃるか、わたしにはわかりません。それでも、きっとご主人様のことですから、素晴らしいことに続くのだと。そう、確信出来ます。

 ですから──ええ。わたしは、ご主人様のお背中に付いて行くのみでございます。

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