かつてのわたしは、惨めでいやしく薄汚い、人以下の見世物でございました。

 猥雑わいざつにして奇特、禍々まがまがしいモノを取り扱う連中にとって、半陰陽のわたしはかっこうの餌だったのでしょう。物心ついた頃には売られて、珍奇なモノを見せることで収入を得る興行集団に買い取られ、以来各地を転々として参りました。

 戦のなくなった世。それは平和なものであったのでしょうが、わたしにとっては地獄そのものでございました。

 だって、戦がなくなったのなら、人々は苛立ちや衝動、不平不満を何処に向けるのです? 彼らの負の感情の行き場は、一体何処になるのです?

 それはまさしく、社会的弱者に向けられます。わたしのような、一般的な常識から逸脱した者たちへ。

 虐待、凌辱りょうじょく、飛ばされる野次という名の罵詈雑言。そのようなものは日常茶飯事でございました。わたしは人でないのですから、それこそ襤褸布ぼろぬののように、塵芥ちりあくたのように扱っても良いと見なされていたのです。残酷ですね。

 わたしと同じように見世物として売られている者たちは、皆いつ負の感情やそれに付随する暴力を向けられるのか、戦々恐々としておりました。自分が標的にされないためにと、他者を売ることもございました。

 これを下らない世界だと笑ってくださる方がいたのなら、その方こそが神様なのだろうとわたしは思っておりました。この汚泥の中からわたしをすくい上げてくださるお方ならば、どのような業を背負っておられようとも救世主に違いないのだと、そう信じて疑いませんでした。


 其処に現れたのが、今のご主人様──奈落御前でございました。


 ある日の夜、ご主人様は唐突にやって来ました。周囲に武士らしき、むくつけき男たちを従えて。そして、わたしの『飼い主』の前にどずん、と何やら重量のある袋を叩き付けられました。

 飼い主は、何事かと思われたでしょう。戸惑う彼を睨み付けて、ご主人様はこう仰せになったのです。


「その者を買いたい」


 わたしのことを買いたいと、たしかにご主人様は仰せになられました。聞き間違えることなど、絶対にあり得ません。

 飼い主は何度か言い訳をしたようでしたが、ご主人様は退きませんでした。買わせるつもりがないのならばこの見世物小屋を解体するぞ、とおっしゃった彼女の冷たい視線を、わたしは決して忘れません。

 こうして、わたしは晴れてご主人様の所有物となりました。彼女はわたしに食べ物や綺麗なお着物をくださって、わたしを泥土の淵より引き上げてくださいました。

 後から聞いた話なのですが、この時ご主人様の側にはべっていたのは豊臣にくみする牢人だったそうで、主家のお膝元である大坂を荒らす如何いかがわしい興行集団を片っ端から始末していたのだそうです。ご主人様によれば、あの後わたしを買った見世物小屋は武力によって解体されたとか。尚、これは有志によって行われたことであり豊臣家はほんの少しも関係していないとのことです。何処にでも過激な連中とはいるものですね。

 ご主人様に、彼らと行動を共にするつもりはないようでした。大坂の宿屋の二階、その欄干らんかんに寄り掛かりながら、ご主人様は道行く牢人たちを眺めつつ、ぽつりと呟かれました。


「豊臣も滅ぶのかな」


 も、ということは、彼女はかつて滅ぶものを目にしたのでしょうか。

 わたしが首をかしげていると、ご主人様はくるりと此方に振り向きました。

 青みがかった黒髪に、白い肌。切れ長の瞳は鋭く、薄い唇が紡ぎ出す声は鈴のよう。

 太陽の光が照らす彼女は、何よりも美しいと思えました。それがたとえ魔性であろうとも、彼女の導くままに堕ちて良いとさえ思えてなりませんでした。


「私は最後の室町幕府将軍の娘だ」


 立ち上がり、わたしを見下ろしながら、ご主人様はそうおっしゃいました。

 わたしに、お偉方のことはよくわかりません。ただ、高貴な生まれなのだろうと思いました。将軍というのは、偉い人ですから。


「私には兄がいたが、普通の兄ではなかった。双子だったんだ、私たちは。それに、兄は白子だった。故に、私は生かされた」


 双子。所謂いわゆる、畜生腹のことでしょう。一人の母親から、二人の子が生まれるという──忌避すべき子供たち。

 片方は殺されると聞いたことがありますが、どうやらご主人様の兄君は白子だったそうです。上から下まで真っ白だった兄君とは離されてお育ちになられたようですが、何の因果かご主人様は兄君と出会ってしまわれた。真っ白な兄君と。

 ご主人様は続けます。


「兄は殺された。足利家に仕える者たちによって。兄は人を殺したのだという。それが私や、足利の生命線を絶ったからと、私の世話をしてきた者たちは兄をほふった」


 ご主人様の口調は淡々としていて、抑揚がありませんでした。

 恨んでいるのでしょうか。憎んでいるのでしょうか。大切な兄君を奪った者たちに、報復したいと考えていらっしゃるのでしょうか。

 わたしにはわかりません。ご主人様の思惑は何もかも、わたしの憶測でしか語れません。


「その中にいた、神母坂いげさか常若とこわかという人物を、私は捜している。奴とは幼馴染のような関係で、ずっといっしょに暮らしていたんだが──行方知れずになってしまった」

「──いげさか、とこわか」


 ご主人様の口から溢れたその人の名前は、わたしにとって忘れられないものになりました。

 これほどまでに美しく気高い人を、放り捨てる人がいるのか。ご主人様程、神様のような方──いいえ、神様はいらっしゃらないというのに。どうして、その──神母坂常若という人は、ご主人様を手放し、打ち捨て、苦しめたのだろう?

 全くもってわかりませんでした。何かの手違いがあったのならまだしも、正常な判断力を有していながらご主人様を手放したのだとすれば、その人は狂っていたか、はたまたもともと頭が可笑おかしかったのだとしか思えませんでした。

 目を白黒させるわたしに、ご主人様は何の感情も浮かばない、然れど透き通った目を向けました。


「故に、貴様には神母坂常若に関する情報を集めて欲しい。私一人では限界もある。私には、貴様の助力が必要だ」

「わたしの、ちからが……?」

「左様。貴様はきっと役に立つ。私の直感が、そう告げていた」


 それゆえに貴様を買ったのだ、とご主人様はおっしゃられました。

 わたしは、お役に立てるのでしょうか。こんなにも美しく、完璧にも見えるお方の力に、果たしてなれるのでしょうか。

 問うても仕方がありません。わたしには、問いかける相手すらいなかったのです。ご主人様ならば答えてくださるかもしれませんでしたが、それは愚かというもの。どれだけ落ちぶれようとも、わたしはご主人様から愚か者と見なされることだけは避けたかった。


 でも、きっと。ご主人様の目は、偽りを通さない。そう、わたしは確信しました。


 わたしは、何が出来るかわかりません。しかし、それはあくまでもわたしの頭で考えられる範囲の話であって、ご主人様の知恵が及ぶところでも同様かは決まっていない。ご主人様は賢そうですから、わたしの知らないこともたくさん知っていらっしゃるのだと思います。

 わたしはうなずきました。それはもう、力強く、全力で肯定を示しました。

 ご主人様はにこりともせずに、では決まりだな、と口になさいました。何が決まったのかはわかりませんでしたが、ご主人様の言うことですから良い方向に進んだのでしょう。


「そういえば、貴様の名を聞いていなかった」


 ふと思い出したようにご主人様がおっしゃられて、わたしは彼女と出会ってから名乗りもしていないことに気付きました。

 何という無礼でしょう。名乗るのは礼儀のいろは、それもいの部分にあたるのに。このような失礼な人間、果たしてご主人様は使ってくださるのでしょうか。

 不安に駆られるわたしを余所に、ご主人様は短く名は、と問いかけました。どうやら、先に名乗った方が良さそうです。

──しかし。


「わたし、名前がないのです。半陰陽とか、半月はにわりとか、そういった風に呼ばれることはありましたが……。個人的な名称というのは、生憎持ち合わせておらず」


 申し訳ございません、とわたしは素直に謝罪しました。

 あの見世物小屋において、見世物たちに人と同じ名前などありませんでした。だって、わたしたちはただの見世物。人とは違う生き物と見なされていたのです。愛玩動物でもあるまいに、名前など付けられるはずがありません。

 ご主人様は、ふむ、とあごに手を添えられました。その仕草でさえも、絵になります。


「貴様、読み書きは出来るか?」

「はい、平仮名や、簡単な漢字でしたら、少しは」

「それなら良い、十分だ」


 いまいち飲み込めていないわたしに、ご主人様は無機質な視線を向けられました。


「名乗りたい名は、貴様が決めよ」


 わたしは、呆気に取られました。

 名を、決めて良いというのです。ご主人様は。わたしに、名を作る権利を与えてくださったのです。

 何とお優しい方なのでしょう。わたしは思わず涙を流し、その場にひれ伏しておりました。

 ご主人様は何かを手に取ってから、す、とわたしの前にしゃがみこまれました。そして、わたしに手を出せ、とお命じになられました。


「私の名は奈落。このような字を書く。覚えなくとも良いが、字を学びたいのならば参考にでもすると良い」


 爪紅によって記された文字は小さく、それでいてとめはねのしっかりとした、力強い筆跡でございました。

 奈落御前。わたしの、唯一のご主人様。その名前を知れただけでも、わたしは幸福です。

 この方の御為おんために生きようと思いました。この方の悲願を叶えて差し上げたいと思いました。


 しかし、それ以上に──わたしは、この方の感情が揺らぐ瞬間を見たい。


 そのためにこそ、わたしは体を売り、神母坂常若に通ずる情報を集めるのです。ご主人様はわたしを買い被っておられるようですが、生憎わたしにはこれしか方法がない。ですから、私娼のふりをして、男も女も堕落させてしもべにするのでございます。

 しばらくしてから、わたしは鞆音と名乗ることに致しました。後からお聞きしたご主人様のお父君──足利義昭公が京より追放された後に逃れた地にちなんでいるのですが、ご主人様から言及されることはございませんでした。悲しいものです。

 しかし、種明かししてはあまりに勿体のうございます。ご主人様に問われるまで、この名前の由来は胸の内へしまっておくことと致しましょう。

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