ご主人様に叱られてからというもの、わたしは夜もなかなか寝付くことが出来ずにおりました。目をつむると、まなうらにご主人様の冷たく凍てついたお顔が浮かんで、眠るどころではなくなってしまうのです。

 見世物小屋にいた時、睡眠というのは気絶と同じようなものでございました。

 痛みに耐えられなかった時。想定外の物理的な衝撃を受けた時。体が言うことを聞きそうにない時。そういった時に、わたしの意識はふっと糸の切れるように暗闇の中へ落ちるのです。

 ですから、ご主人様に買っていただいてからというもの、布団での睡眠には違和感を覚えずにはいられませんでした。これほどまでに整えられた環境で眠ることなど、これまでなかったのですから。

 横になって目を閉じると、いつもご主人様のお顔が思い浮かべられます。普段ならそのご尊顔を拝みつつ眠るものですが……最近は、そうもゆきません。いつ捨てられるか気が気ではなくて、自然と意識が覚醒してしまうのです。

 よろしくないこととは、わかっております。睡眠不足は、作業の効率を落としてしまうから。これではご主人様のお役に立つどころか、足を引っ張ってしまいます。ご主人様から見放されても可笑しくはありません。

 それでも、どうしようもないのです。不安ばかりが募って、わたしの意識は現に留め置かれてしまう。わたしは、早く眠りたくて仕方がないというのに。

 この日もなかなか寝付くことが出来ず、辛抱ならなくなったわたしは縁側でぼんやりと夜空を眺めておりました。星の名前なぞひとつもわかりませんでしたが、眺めているだけでも不思議と飽きないものです。

 これなら心を鎮められるやもしれぬと、わたしは思い──後方から響く足音に気付きました。


「……まだ起きていたのか、鞆音」


 わたしの方へ視線を投げ掛けられるは、襦袢じゅばん姿のご主人様でございました。

 月光に照らし出されたご主人様の姿は、お美しいという言葉以外では言い表せぬ程のものでした。

 白い肌は月の光を跳ね返し、仄かに光っていらっしゃるようにも見える。髪の毛は僅かに青みがかって、短いながらもその艶やかさを主張していらっしゃる。それに、襦袢という普段はなかなか見られぬ薄着の様相が、わたしよりも女性らしく凹凸のあるご主人様の肢体をほんのりと浮かび上がらせている。

 眼福以外の、何物でもございません。わたしは拝み倒したくなる気持ちをこらえながら、ええ、とご主人様に微笑みかけます。


「最近、寝付きが悪うございますもので。心を鎮められればと、夜空を見上げて精神統一を図っていたのでございます」

「そうか」

「……ご主人様は、何を?」


 長時間お眠りにならなければ翌日力が入らないというご主人様にしては、夜更かししているようにも思えます。わたしは不思議に思って、首をかしげつつ問いかけました。

 ご主人様は目をぱちくりとさせて、暫しの間わたしを見つめられました。しかし、すぐにもとの玲瓏れいろうなるお顔に戻られると、抑揚の少ない声でおっしゃいます。


「奇遇だな。私も星を見ようと思っていた」

「まあ、まあ、ご主人様も?」

「本当なら一人で星見に興じる予定であったが……先客がいたのでな。嫌でなくばともをせよ、鞆音。貴様に同伴を許す」


 ご主人様はそうおっしゃられてから、すとんとわたしの隣に腰を下ろされました。

 勿論、わたしは断りなど致しません。喜んでお伴させていただくことにしました。だってこのような機会、なかなかありませんもの。


「ご主人様は、星見を好まれるのですか? 生憎、わたしは星の知識に弱くて。よろしければ、ご教授いただきたいのですが」


 すす、とご主人様に近寄りつつ、わたしはそう切り出します。星など知識がなくとも見られるものではございますが、ご主人様との会話の話題になるのならば、利用するに越したことはないでしょう。

 ご主人様は星か、と呟いてから、頭上を見上げられました。わたしから視線が外されたことに、僅かばかりですが寂しさを覚えます。物言わぬ星々に嫉妬したところで、自らの浅ましさを思い知るだけなのですが。


「期待しているのならすまないが、私は星に詳しくない。貴様に教えられることなど、ほとんどないよ」


 ご主人様はわたしの方を見ぬまま、平坦な声でそうおっしゃいました。

 残念です──と言いたいのは山々でございましたが、わたしとしては疑問を覚えずにはいられません。不躾ぶしつけと理解してはおりましたが、続けざまに問いかけます。


「しかし、ご主人様は海の向こうへ売られたのでございましょう? 日ノ本に戻るまでは、一体どうしておられたのですか。つ国において土地勘がある訳でもないでしょうに……」


 いわく──ご主人様は、かの隠密によって奴隷商人に売られ、一度日ノ本を出たのだとか。

 嘘か真か、すぐには信じられない話ではございますが、ご主人様からの言動からして偽りではなさそうです。現にご主人様は外つ国の神々にお詳しくていらっしゃいますし、わたしと引き換えに見世物小屋へ渡したのは印度インドの香辛料だといいます。あのような粉と引き換えにされたのはいささか複雑な気分を覚えないでもありませんが、相手がご主人様であれば良い取引に違いありません。現に、わたしはご主人様の下僕という最高の地位に置いていただいております。ご主人様は未だに認めてくださりませんが。

──閑話休題。

 とにもかくにも、ご主人様は長らくの間流浪の生活を送っていらっしゃいました。どのような暮らしをなさっていたのか、気にならない訳ではありませんでしたが、どういった訳かご主人様は、その辺りに関してはかたくなに口を開こうと致しません。あまり触れられたくない話題なのでしょう。

 ですからわたしは、此処はひとつ、ご主人様の来歴のようなものも聞き出せないかと目論んだ訳にございました。無論、ご主人様にそむくつもりは一切ございません。ただの、個人的な興味です。


「生憎だが、長らく星の見えない場所にいたのだ。星が見えなくては、話題に出すこともなかろう。そういうことだ」


 ご主人様のお返事は、相変わらずすげなくていらっしゃる。ぴしゃりと放たれた言葉に、わたしは身が痺れるかのごとき感覚を抱きます。

 しかし、『星の見えない場所』とは、何処にあるのか──いや、それ以前に、この世に存在するのでしょうか?


「ご主人様、わたしは外つ国に赴いたことは一度もないのですが、日ノ本を巡業したことはございます。どの土地へ行っても空は変わらず、昼には太陽が、夜には月星が見えるものでございました。詰まるところ、空は何処までもついてくる──いえ、不遜でしたね。何処までも続いているものかと存じます」


 ご主人様に反論なんて、滅多に出来ぬことでございます。わたしは少なからず興奮しておりました。

 ご主人様は特に動じる様子もなく、ああ、それなら、と事もなげにおっしゃいました。


「奈落に落ちたからな、私は」


 それは、今までで一番気安い物言いだったと思います。

 ご主人様の言葉に、わたしはどう返したら良いかわかりませんでした。ただ、とてつもなく触れがたいところに首を突っ込んでしまったのでは──という、じわじわ迫り来る後悔の下にありました。


 奈落。それはご主人様のお名前です。


 ご主人様からは教えていただけませんでしたが、彼女の本来の名前は天花とおっしゃるそうです。あの隠密が死に際に漏らしたのを、わたしは聞き逃しませんでした。彼女自体はどうでも良いのですが、最期にご主人様のことを教えてくれたという点においては評価出来ました。

 ですから──ええ、きっと皮肉のようなものだと、わたしは解釈していたのです。

 ご主人様は最早、守られ育てられる天上の花ではございません。血潮を浴びながらも顔色ひとつ変えず、足下に幾多のむくろがごろごろと転がっていようとも、真っ直ぐ歩いてゆけるだけの存在になられました。ご主人様の過去をわたしは存じ上げませんが──きっと、わたしが一生かかっても手に入れられないであろう幸福を、享受する少女であったのでしょう。あの隠密が妬み、そねむ程、気負いなく生きていたのでしょう。

 そんなご主人様が、奈落と形容する場所。それは、どれほどの苦しみに満ち溢れた場所だったことか。


「嗚呼、おいたわしや、ご主人様……」


 よよ、と袖口で顔を隠しつつ、わたしは慰めの言葉をかけます。

 不幸なことです。残酷なことです。理不尽なことです。

 たった一人の人間の嫉妬心、たった一人の人間の庇護欲によって、こうまで人生を壊される人間がいるとは! わたしは、涙せずにはいられませんでした。


「嘘泣き──ではないか」


 案の定ご主人様はわたしを疑っていらっしゃいます。相変わらず、他者への信頼が希薄でいらっしゃる。少し悲しく──は、なりませんね。いつものことでございますし、ご主人様から存在を認知されていない訳ではないので、そう傷付くこともございません。


「私に憐れみの目を向けたいのならば、好きにするが良い。だが、奈落の底も最低最悪という訳ではなかった。現に、私は今まで生きてこられたのだから」


 ほう、と息を吐きつつ、ご主人様は遠い目をしながらおっしゃられました。

 前向きなのか後ろ向きなのか、よくわからないお方です。生きてこられただけで何でも肯定していらっしゃっては、この世に最低最悪のものなど生まれないでしょうに。


「という訳で、私は星を教えられん。すまない」


 申し訳なさは皆無でしたが、ご主人様は形だけ謝罪をされました。まあ、悪いことをされた訳ではありませんから、わたしとしても責めるいわれはないのですけれど。

 ご主人様は相変わらずわたしを方をご覧になりません。彼女の心には誰が映っていらっしゃるのか……。考えると胸の内が大火事になってしまいそうなので、わたしもご主人様と共に夜空を眺めることと致しました。

 しかし、珍しいこともあるものです。ご主人様がわたしにこんなにも語りかけてくださるなんて、一体何があったというのでしょうか。それに、今宵は近付いても拒まれません。

 この前のことがありますから不埒ふらちな真似は致しませんが、やはり嬉しいものです。ご主人様に頼りにされているような気がして、不思議と心がおどります。

 望月ではありませんが、今宵の月は美しい。ご主人様が隣にいらっしゃることも、作用しているのかもしれません。


「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」


 ふと、ご主人様が何かを口ずさまれました。和歌でございましょうか。

 残念ながら、わたしにその道の才はございません。それが歌だとわかるだけで、意味合いや歌人について語らうことは出来ないのです。


「ご主人様、歌をたしなまれるので?」


 そのため、わたしにはそう問いかけるしか出来ませんでした。だって、歌について深く掘り下げることなど出来ないものですから、ご主人様の趣味の方へ走るしかないではございませんか。

 ご主人様はああ、とうなずかれます。


在原ありわらの業平なりひらだ。私の作った歌ではないが、気に入っているのでな。い月夜である故、つい口ずさんでしまった。許せ」

「いいえ、許さぬことなどございません。鞆音は、和歌のような高尚な趣味を持ってはおりませんから。──して、その歌は有名なのですか?」

「どうかな。業平の歌なら、もっと有名なものがあるやもしれん。私が個人的に気に入っているというだけだ」

「うふふ、それならばきっと、素晴らしい意味合いをお持ちの歌なのでございましょうね。ご主人様の目に、狂いがあるはずはございませんもの」


 それはどうだろう、とご主人様は首をかしげられました。


「私とて間違いは犯す。私ばかりを盲信するものではない」

「そうはおっしゃいますがねエ、ご主人様。わたしにとって信じられるのは、ご主人様だけにございます。わたしをこうして使ってくださっているのは、後にも先にもご主人様しかおりません。わたしのご主人様は、あなた様一人だけでございますれば」


 そう──わたしにとってのご主人様は、彼女だけ。冷たく無機質な、奈落御前だけなのです。

 そういえば、わたしは寝付きが悪かったはずなのに、どうしてかご主人様と話しているうちにうつらうつらとして参りました。ご主人様とはまだ話し足りないような気も致しますのに、はてさてどうして眠くなるのでしょう。


「そろそろ寝ると良い、鞆音。夜更かしは体にさわる」


 ご主人様からもこうおっしゃられたら、反論のしようもございません。

 わかりましたア、と微笑みながら返事をすると、何とまあ──大変珍しいことに、ご主人様が此方をご覧になっておられました。やはり無表情ではございましたが、わたしとしては嬉しいこと限りなし。胸に何やら温かなものが広がってゆきました。

 嗚呼、わたしはやはり幸せ者です。このようにお美しいご主人様の下僕でいられるのですから。


「それでは、おやすみなさいまし、ご主人様。良い夢をご覧になれますように」

「他人のことよりも己を気にかけよ。貴様の悪い癖だ」

「はあい、仰せのままに。ご主人様にも言えることだと思いますがねエ」


 どうだか、と言ってつんとそっぽを向かれたご主人様に頬をゆるめつつ、わたしは自室へと戻りました。

 ご主人様に叱られて、捨てられるのではないかという不安にさいなまれていたけれど……でも、ご主人様には今のところそのつもりがないようで安心しました。ご主人様に使っていただくことことがわたしの喜びですから、彼女と共にあれないのは耐え難き苦痛に等しいのでございます。

 美しく、気高く、孤高で、そしてもろく危ういご主人様。あなた様の悲願が達成された後も、この鞆音は共にありましょう。わたしの人生は、ご主人様なしでは到底語れないものなのですから。

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