二
俺が生まれたのは
何分、生まれて数年で京に移り住んだものだから、現地のことはあまり覚えていない。強いて言うならば、海産物が美味かった気がする。
当時、備後国には将軍が──かつて京にて幕府を開いた血族、足利将軍家の
そんな将軍閣下には、正室がおられなかった。代わりに、何人もの側室があられた。
俺の血族──
我らが氏族に対する信頼は厚かった。俺も将来は、将軍閣下にお仕えするものだと──そう、決められていたはずだった。俺が生まれて、二年程経つまでは。
「
それは、俺が四捨五入して十──正確には、五つか六つになるくらいの時分だったか。
八龍丸というのは、俺の幼名だ。かの
その頃、天花は既に俺と共に暮らしていたが、彼女は自室から出されることはあまりなく、俺が一方的に面識を持っているだけだった。母上が乳をやっていたから、乳兄弟のようなものだろうかと思った。この時代、もらい乳をするのはそう珍しいことではないから。
やけに神妙な表情をした母上は、もう私を母と呼んではなりません──と口にした。
俺は絶句した。母上が何をおっしゃっているのか、さっぱりわからなかった。
母上は母上だ。俺の顔は父に似ているというけれど、それでも血を分けた親類であることはわかる。どうして、俺は母上に子として接してはならないのか。
言葉をなくしている俺に、母上は抑揚のない声で言った。
「天花は、将軍閣下のお子なのです」
ますます俺は混乱した。
天花が、将軍閣下の子? ならば、何故あいつは俺と同じ屋敷で暮らしているのだろう。
将軍閣下は、
将軍閣下のお子であるならば、閣下と同じ屋敷に住まうはず。だというのに、何故閣下の家臣の屋敷にいるというのか。
俺は口答えしなかったが、表情に出ていたのだろう。母上は困ったように眉を寄せた。
「天花は、双子だったのです。……畜生腹、というのは、少々可哀想ですが……。ともかく、そういった生まれだから、閣下と同じ場所に置くことは出来ないのですよ」
双子──一度に何人も子が生まれることは、獣のようだと言われ忌避される。俺はすぐに納得がいった。
しかし、双子は先に生まれた方を殺すかとになっている。天花が親から引き離される理由はあるのだろうか、と俺は疑問を抱いた。
「……天花は、後から生まれた子です。本来ならば、あの子は足利の子として育てられるはずでしたが……事情があって、親の顔を知らずに此処で育てられています」
やはり悟られたのだろう。母上は続ける。
「天花より先に生まれた子は、白子でした。閣下はこれを瑞兆とご判断なさられて、先に生まれた子を手元に置くと決められた。天花の世話は、神母坂が行うことになったのです」
それじゃあ天花は俺の妹になるのですか──と問いかけると、母上はいいえ、と首を横に振った。
「閣下は、天花を普通の──天下の万民のように育てよとお命じになられました。ですから、あの子は神母坂に仕える使用人の子にしなければなりません。私があの子の母役を命じられたからには、神母坂であることをやめなければ」
わかりますね、と母上は顔をしかめた。
その時の俺は、全てを理解することなど出来なかった。ただ、母上がそうおっしゃるのならばと、特にそれ以上突っ掛かりはせずにうなずいた。そうすれば、母上が喜ぶと思った。
それから、母上は天花の母として、そして神母坂に仕える使用人として振る舞うようになった。周囲の使用人たちにも事の次第を知らせたのか、皆すぐに順応し俺だけが神母坂の人間となった。
母上を母上と呼ぶことはおろか、接する機会も激減した。
それが正しいことだと、わかってはいる。天花は閣下のお子だ。たとえどのような生まれであろうと、閣下の命じた通りに守り、育てなくてはならない。父がおらず、母上一人で仕えているようなものだから、命令を下されれば即座に対応することが望まれる。そうしなければ、俺たちは生きていけなくなるから。
天花は、母上を疑わなかった。一度も、そういった素振りを見せることはなかった。
あれはお気楽で
違う。その女は、俺の母上だ。
そう主張することも出来た。だが、母上を困らせたくはなかったし、何も知らない天花に現実を突き付けるのは酷だと思ったので、何も言わないでおいた。
天花は無知だ。己のことを、何も知らない。俺たちがどのような関係かも知らぬまま、俺のことを若君、と呼びくっついてくる。屋敷の者たちが何故自分を避けるのかもわからず、自分を下に見ているのだと勘違いをして、俺を頼る。
どうしようもない女だ。幸せ者にも程がある。
──あいつが妬ましいのなら、排除してしまえば良いだろう。
その幸せそうな表情を見る度に、俺の胸に
たしかに、俺は天花が妬ましかった。母上を奪い、それを知らないままのうのうと暮らしている。幼い頃は気に食わなくて、突き放したり冷たい物言いをしたりすることも少なくはなかった。
しかし、それでも天花は俺を頼った。
彼女には、味方が──否、彼女自身、認識している味方が少ない。屋敷の者たちは皆天花を守るために働いており、彼女のことを畏れ多く思っている。
しかし、天花自身はそれを知らないのだ。それゆえに、使用人たちに嫌われ、避けられていると勘違いしている。
そんな彼女は、俺をよすがにしようとする。俺は自分を嫌わないと思っているのだろうか。──いや、それとも。
理由はわからないが、俺は天花にとって数少ないよるべであるらしい。そう思うと、天花を妬み羨み憎むよりも、憐れみにも似た感情を覚えた。
可哀想な天花。偽りの母を慕い、味方を味方とも思えず、俺ばかりを頼る天花。
俺は天花を妬まなくなった。何せ、天花は可哀想な女なのだ。俺がいなければ縮こまり、萎縮し、口を開くこともままならないあいつは、俺がどうにかしてやらねばならない。
天花は──俺が守ってやらなくては。
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