第一部 天花

八龍丸

 物心ついた頃から、その少女は俺の側にいた。


 真っ直ぐ伸びた癖のない黒髪と白い肌、切れ長の瞳が印象的な娘だった。特にその髪の毛は、月や日の光を受けるとよいの空のように青みを帯びた。

 少女はその名を天花てんげという。俺よりも二つ年下で、その割には幼げで小柄な顔立ちや体つきをしている。


「若君、どうしたの?」


 声は鈴を転がすように高く、そして耳通りが良い。人の声というものは時として耳障りに聞こえることもあるが、天花の声だけはいつでも俺の耳によく馴染んだ。

 天花は俺のことを若君、と呼ぶ。幼名で呼ばれるのもあまり居心地の良いものではないが、彼女から若君と呼ばれると何処と無くこそばゆい気持ちになる。

 屋敷の縁側で、天花は足をぶらぶらとさせていた。今夜は望月ということで、十五夜ではないが月見に洒落込もうと彼女が言い出したのだ。

 母からはあまり夜更かししないことと、誰か伴をつけることを条件に許された──と天花は言っていた。その伴に俺が選ばれたという訳だ。

 如月の空気はまだ肌寒く、冷え性の俺は厚着をして出たが、冬生まれの天花はあまり気にならないのか俺程もこもこしてはいなかった。後で風邪を引いても知らないからな。

 天花は好物の団子を頬張りながら、怪訝そうな顔をして俺を見つめていた。頬を膨らませた様は栗鼠りすのようだ。


「……いや、別に。お前の髪の毛が、夜空のようだったから」


 ややあってからそう答えてやると、天花はそうなの、と目を見開いた。


「私、あんまり鏡を見ないからわからないけど……それって、きれいってこと?」

「……まあ、そうだな。きれいだ」

「ほんと? 私の髪の毛、お空みたい?」


 目をぱちぱち瞬かせながら、天花は何度も問いかけてくる。心なしか顔も近い。

 人前ではおとなしいが、付き合いの長い──とりわけ親しい相手の前となると、天花は驚く程口数が増える。これはしとやかに振る舞っているという訳ではなく、ただ単に人見知りなだけだ。詰まるところ、天花は俺を信用している。


「当たり前だろう。俺がお前に嘘を吐いたことがあるか?」

「あるよ。絶対怒らないからって言って怒ったり、隠し事をお母様に告げ口したりするじゃない」


 それなりに自信を持って聞いたつもりだったが、即座に否定された。流石といったところか。


「嘘は良くないよ。特に、告げ口は好きじゃない。そういうの、讒言ざんげんっていうんだよ。讒言ばっかりしてたら、いつか周りから恨みを買って痛い目を見るんだからね。一族郎党滅ぼされても知らないよ」

「もうそのような物騒な時代は終わっただろう」

「わからないよ。前の関白様のことだってあるもの。気を付けないと、若君も難癖つけられて自害しろって言われるかもしれないよ」

「……気を付けるべきはお前だろう」


 誰が聞いているのかわからないというのに、天花は声を潜めながらも取り繕うことなく口にした。もしも太閤殿下たいこうでんかに近しい者の耳に入ったならどうなるか、わからない程愚かでもあるまいに。

 前の関白様というのは、十中八九一昨年亡くなられた秀次ひでつぐ公のことだろう。本人だけではなく、その係累けいるいのほとんどが自害もしくは処刑の道を辿った。要するに、一族郎党皆殺しだ。

 当時九つだった天花も、この一件には衝撃を受けたらしい。神妙な顔をして語る辺り、余程同じような目に遭いたくないようだ。まあ、誰だって鏖殺おうさつの憂き目を見たくはないだろうが。


「……とにかく、お前を褒めたのは嘘じゃないからな。あまり余計なことを口走るんじゃないぞ」


 無理矢理に話題を戻す。これ以上過去の事件について語るのはやめて欲しい。せっかくの月夜が台無しだ。

 天花はというと、俺の心労など何処吹く風といった様子で、ぱっと表情を華やげた。しきりに髪の毛を指に絡めて、照れ臭そうにはにかんでいる。


「そ、そう? 嬉しいなあ、褒められちゃった」

「俺以外にも言われるだろう」

「全然! お母様は別だけど、私の見た目を褒めてくれる人なんてほとんどいないよ。皆目を逸らして、私と話そうともしないんだもの。きっと私のことだって、醜女しこめだなんだって思ってるに違いないよ」


 話しているうちに、天花の表情は段々と沈んでいった。いつの間にか笑顔は消えて、唇をへの字にしている。

 恐らく、天花は自己評価が限りなく低いのだ。周囲にいる者たちが彼女を避けるのには理由があるのだが、天花自身はそれを知らない。それゆえに、皆自分を下に見ていると思っているのだろう。

 贔屓目ひいきめに見ている訳ではないが、天花は美人の部類に入ると思う。豊かな黒髪や白い肌、そして涼やかな目元は一般的な美人の象徴だ。団子や菓子が好きなためかやや頬がふっくらとしているが、平安絵巻に描かれる美女のそれとよく似ているから、みにくく映ることはなさそうだ。

 昔は俺の言うことなら大抵信じたものだが、歳が二桁を超えてから天花は他人を疑うことを覚えた。それでも、親しい人間にはやや寄り掛かり過ぎるきらいはあるが──まあ、それも彼女の美点だろう。俺のようにひねくれた子供よりも、ずっと愛嬌はあると思う。


「ねえ、若君」


 天花は指先に付いた粉を舐めながら言った。はしたないと指摘したが、彼女は慣れっこなのか平然と無視した。


「若君は、いつも私の味方でいてくれるね」


 天花にしては珍しく、あまり抑揚よくようのない声だった。いつもなら、喜怒哀楽を声に乗せて伝えるような娘なのに。

 俺は天花の横顔を見た。月光に照らされた肌はほのかに光を放っているようにも見えた。


「……当たり前だ。お前は大事な家臣の娘なのだから」


 少し間を置いてから答えると、天花はそっかあ、とやや残念そうに相槌を打った。


「やっぱりそうだよねえ」


 天花は笑おうとしているようだったが、唇の端がぎこちなく動いただけで、笑顔など作れていなかった。

 この少女は、己を偽ることが苦手だ。作り物の表情はどれも不恰好ぶかっこうで、すぐにその裏側にある感情が知れてしまう。だから、天花は嘘を吐くのも下手くそだった。

 あいつは何を誤魔化そうとしているのだろう。気になってその横顔を覗き込もうとすると、天花の目線は上へ向いた。


「──願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」

「……西行さいぎょうか」


 俺が呟くと、天花はこくりとうなずいた。きれいな歌だから覚えたの、と彼女は再びはにかんだ。

 自分から歌を詠むことはあまりないが、天花は文学や詩歌に触れるのを好んでいる。俺にはよくわからない歌集や書物を読んでは、気に入った歌や説話を覚えているらしい。女子らしくないと言われれば否定は出来ないが、なかなかに高尚な趣味の持ち主である。

 俺と同じ話題で盛り上がりたいのか、天花は時折歌人や和歌に関して講説することもあった。教え方が上手い──とはお世辞にも言えないが、本人が楽しそうなので文句を言うのは野暮だろう。特に言及したことはない。

 ともあれ、そういった経緯もあって、俺は天花から半ば強制的に詩歌を学ばされている。西行の歌は何度か聞いたことがあったので、すぐに当てることが出来た。


「よくわかったね。偉いですぞー」


 その変な口調は何の真似だろうか。微笑ましいので不快ではないが、違和感は拭いきれない。

 天花は嬉しそうに目を細めていたが、やがてふっと息を吐いた。その横顔が、僅かながらも哀愁を帯びる。


「この歌、きれいだけど、同じようには思えないの」


 きれいな景色は好きだけどね、と天花は前置きする。


「でも、どんなにきれいなところにいたって、ひとりぼっちでいるのは寂しいんだ、私。寝る時も暗いのが怖くて、すぐに寝付けない時があるもの。だから、どんなにきれいなところにいたって、寂しいまま死ぬのは嫌だなあって」

「……唐突だな」

「そういうことじゃないよう」


 天花は手足をじたばたとさせた。寂しげな色が少し減った。


「こんなに素敵な夜なのに、死ぬとかそういう話をするのはよろしくないって思うけどね? あのまあるいお月様を見ていたら、西行法師の辞世の句を思い出しちゃって。それで何となく、私が同じ状況だったらどうなのかな?って思ったの。そうしたら、最後は寂しいのは嫌ってところに着いた訳」

「なるほどな。この世に嫌気でもさしたのかと思った」

「まだ其処まで考えられないよ。たしかに色々辛いこととか、きついこともあるけど、生きてるのが嫌になる──って程じゃないもの。少なくとも、私にはお母様や若君がいるからね。死にたくはないけど、寂しくないのは嬉しいよ?」


──要するに、天花は今の状況に大変満足しているようだ。

 お気楽な娘だ、と思う。

 戦乱の世は幾らか遠くなったものの、権力者の理不尽による人死にが皆無になった訳じゃない。天花は知らないかもしれないが、世の中にはろくでもない理由で殺される人間だっているのだ。安心などしてはいられない。

 だが、天花にそういった不安を抱かせるのは、何だか酷な気がしてならなかった。

 天花は、書物や伝聞の中でしか戦を知らない。遠いところで起こっている、現実離れした出来事なのだろう。軍記物語に瞳を輝かせているのは、血なまぐささを知らない証拠だ。

 このまま、何も知らずにいれば良い。月を見上げながら団子を食べて、しょうもない話をして、暗闇に恐れを抱く。そうした日常を、ずっと続けてくれれば良い。


「若君はどう? 寂しかったり、きつかったりすることとか、ある?」


 天花が、此方を覗き込んでくる。屈託のない仕草だった。

──寂しい、か。


「……いや、ないな。にぎやかな誰かさんのおかげでね」

「あーっ、若君はすぐそういうこと言う! 皮肉でしょう、それ!」


 天花はむっと唇をとがらせた。飾り気のない、純粋な表情だった。

 はいはい、と俺は適当にあしらう。天花はまだ横で何やら文句を垂れていたが、俺は構わずに聞き流した。


──寂しくはない。これまで一度も、そのように思ったことはない。


 少なくとも、これが俺の日常だ。特に不満はない。母上と天花が危ない目に遭わないのならばそれで良い。

 ……それで良いのだ。そう、自分に言い聞かせた。

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