誰にも秘密の秘密基地

常磐灰 楸

誰にも秘密の秘密基地

 「いってきまーす!」

 夏休み明け、始業式当日。

 昔でいえば九月一日だったんだろうが、最近では八月の第三週頃には学校は始まってしまう。

 いつもは遅刻ばかりの俺だが、今日ぐらいはと母さんにたたき起こされ、始業一時間前に家を追い出された。片道二十分で学校へは着く。いつも通り行っても暇だな…と考えのんびりと歩みを進める。

 暦の上ではもう秋だっただろうか。残暑見舞いを出すには遅い時期とは言えど、八月の終わりなんてまだまだ夏だ。強すぎる日差しが照り付けてくる。

 空を仰ぐと、視界は痛いほどの青色で染め上げられた。

 輝く入道雲が夕立を予感させる。

 たまには早く家を出るのもいいかもしれない。煩いほどに、夏が目に飛び込んでくるこの感じは嫌いじゃあない。

 木々の緑はもうずいぶん濃くなっているようだ。

 ワイシャツが背中に張り付くのを感じながら、道端の自動販売機でアイスコーヒーを買う。

 ピッ…ガコンッ。

 (ふぅ…。)

 カラカラとキャップを開け冷たいコーヒーは、口の中の熱をじんわりと解いていく。

 最近、ブラックコーヒーの美味しさが分かるようになってきた。

 缶の蓋を閉め、視線をあげるとその先には、目線の高さほどのひまわりが咲いていた。

 日の光を受けきらきらと輝いている。

 (ひまわり…か…。)

 『ふぁぁぁっ!』

 小学生の頃の、夏の思い出が頭をよぎった。

 ズザリッ、と砂の擦れる音と彼女の黄色い声は、今もまだ俺の耳に残っている。

 たなびく白いワンピースと、黄色い瞳。

 あの夏の香りに俺は、今になっても時折、記憶を遡り意識を空へと揺蕩わせてしまう。

 幼かった俺は、臆病で意気地なしで、途方もなく馬鹿で。

 俺は今でも、君のことを思い出してしまう。

 遅すぎだなんてわかっているけど。 

 俺はまだ、十年前に見たあの少女のことを想っている。





 「あなた、だれ?」

 大輪の花々に身を寄せる少女の、少し震えた黄色い声がだだっ広い地面に響く。

 風にたなびく白いワンピースとつばの広い大きな麦わら帽子。

 僕は、ひまわり畑にいた。

 小学校三年生の夏休み。

 お盆休みで来た、田舎のおばあちゃん家。お父さんとお母さんは仕事が入っちゃったと言って昨日の夕方、東京の家へと帰っていってしまった。

 たまにしか来ないから、友達なんていない。

 お母さんがいないから、スマホを貸してもらってパズルゲームをすることもできない。

 暇を持て余していたら、おばあちゃんがお友達の家に回覧板を届けに行くから一緒に行こうと言ってくれた。

 おばあちゃんは、割烹着を脱いで竹のかごを手に取ると、庭の畑のきゅうりを何本かもいでその中に入れる。   

 「お土産ね」なんて言って微笑むと、片方空いた手で僕の手を取り歩き出した。

 おばあちゃんの手はどうして夏でも白くて、ひんやりしているんだろう。

 そんなに外に出ていないはずの僕の手は、焼いた食パンみたいな色をしていて、汗でじっとり濡れている。

 ぎらぎらとした日差しの下、畑と畑の間の道を縫うように歩いて十数分。おばあちゃんのお友達の家は、湿ったような空気と線香、そして強すぎる畳のにおいがした。

 玄関から長く伸びる焦げ茶色の薄暗い廊下は、見ているとなんだかぞわぞわしてくる。

 いくつもの部屋を通って着いた和屋ではお菓子を出してくれたけど、おばあちゃんたちの話はちんぷんかんぷんでつまらなくて、外を眺めていたら行ってもいいよと言ってくれた。

 外は夏色の空と、大きな大きな入道雲ではちきれそうになっている。

 虫がいたら嫌だな、なんて考えながら庭を見渡すと、少し離れたところに何かあった。

 青天井の下、くっきりとそこだけが、黄色い絵具を塗りたくったかのように輝いていた。

 見ていると、なんだか体が熱くなる。

 「お、おばちゃん!あれ何?」

 たまらず聞いてみる。

 「うん?あぁ、あれはねぇ、うちのひまわり畑だよ。気になるなら、行ってきてもいいよ。」 

 「………行ってくる!」

 ザッ、と砂利が舞うのを靴越しに感じる。おばちゃんの家からは畑の間を通ってほとんど一本道の先に見える、蕩けたバターみたいな色をした、「ひまわり畑」。

 あまりにも広くって、全部が全部、黄金色で。

 ホームセンターやテレビで見かけるひまわりとは全然違うから、正直着くまでは信じていなかった、「ひまわり畑」。

 大したことのない道のりなのに、暑さのせいだろうか妙に息が上がる。

 日差しに照らされて体が熱い。

 三分も走っただろうか。肩で大きく息をしている僕の視界は、僕の身長なんて軽く超すくらいの、大きなひまわりで埋め尽くされていた。

 (うわぁ……!)

 あまりの壮観に声が出ない。

 僕の指なんかよりもずっと大きい花びらが、数えきれないほどにたくさん重なっている。

 金でメッキされているんじゃないかと思うくらいに強く輝いているのに、どうしてだろう、まぶしいほどに、目に優しい黄金色をしている。

 それはひまわりの真ん中の、焦げ茶色の部分もおんなじで、暗い色をしているのになぜだろう。日光を吸いつくさんばかりの暗色は、身を焦がすような陽光をため込んでいるかのようで、

鈍い輝きというか、オーラみたいなまぶしさを感じる。

 暗い茶色の湿った土と柔らかい産毛の生えた深緑色の葉。そしてどこまでも広がる縹色の空。

 そしてそのすべてにも全く引けを取らない黄金色のおおきなひまわり、視界に入る景色どれもがしびれるほどに目に染みる。

 生命力というのだろうか。まるで惹き付けられるような眩さを持つその花を前にして、僕はしばらく身動きが取れなくて、息をするのも忘れるくらいに見入ってしまっていた。

 三分も経たなかっただろう。

 「あなた、だれ?」

 少し掠れたソプラノに、はっ…と意識が引き戻される。

 声の主を追って後ろを振り返ると、そこには一人の女の子がいた。

 つばの広い大きな麦わら帽子の淵からは赤いリボンが垂れている。白練色のワンピースの裾が風に揺れて、背中まで下した長髪は艶のある濡れ羽色。少しおびえたように大輪の花々に身を寄せ、まっすぐにこっちを凝視している。

 身長は…同じくらいだろうか。少しかかとが上がったビーズのついた空色のサンダルを履いているから、僕よりも少し低いくらいかもしれない。

 「ねぇ!あなただれ?」

 女の子は少しイラついたように語気を強める。 

 いけない。ぼうっと考えてしまった。 

 改めて考えると、ひまわりに見入っているところを女の子に見られてしまっていたのか。

 ………少し恥ずかしい。

 顔が熱くなるのを感じながらも、僕は口を開いた。 

 「僕は…向井日向。君は?」

 少女は、まるで自分の名前を聞かれるなんて思いもしなかったというような顔をすると。

 「あ、あおいは…日下葵。えっと…ひ、ひなたくん? 」

 くさかあおいちゃん…。

 (綺麗な名前だな…。)

 そんなことを想いながら前を向き直ると、頬を染め、伏し目がちになりながらもあおいちゃんは、僕の名前を呼ぶ。

 「ひなたくん…は、何でここにいるの? この辺の子じゃない…よね? 」

 「えっ? 」

 「ここはおばあちゃんの畑だから…。知らない人は入ってこないって、おばあちゃん言ってたのに…。」

 思い出した。日下って名字、おばちゃんの家の入口にかかってた表札で見たんだ。なんて読むのかわからなくっておばあちゃんに聞いたのを今になって思い出した。

 「えっと、いま僕お盆だからおばあちゃんの家に来てて…おばあちゃんのお友達の家に行くのについてきたら、その人がひまわり畑に行ってきていいよ…って。」

 顔をしかめてあおいちゃんは言う。

 「なにそれ、なんで来たのよ…。都会の子にとっては面白くもないでしょ? 」

 その言葉に少しイラっとした。間髪入れずに言葉が咽喉から飛び出した。

 「そんなことないよ!!こんなにいっぱいのひまわり、見たことないもん!」

 どうしてだろう。いつもはこんな風に言うことはないのに、なぜだか声を荒げてしまう。

 「みんな知らない花みたいにぴかぴかしてて、見に来ないほうがおかしいよ!一日中でもここにいたいくらい。ここのお花、お花じゃないみたいに見えるんだよ!?」

 ついまくしたててしまう。

 ふぅ。と息を吸うとすっと気持ちが落ち着いて、景色が戻ってきた。

 あおいちゃんは目を真ん丸にしてぽかんとしている。

 ………。言いすぎちゃったかな…。

 熱くなりすぎてしまった。ぶわっ、と顔が熱くなる。

 (ばかにされるっ……っ。)

 嫌な記憶がフラッシュバックし、身動きが取れなくなる。

 「!!…。その………ひなたくんもわかるの?お花…。」

 あおいちゃんははっと我に返ると、おずおずと窺うようにそう言った。

 「どういう…こと?」

 一瞬、あおいちゃんは口ごもるような、不安がるような顔をした。

 顔を俯け震えている。

 逡巡ののち、キッ…とこっちを見据えると、ワンピースの裾を固く握りしめ、ぽつりぽつりと話し始める。

 「えっと…ひまわり。あおい…も…………。」

 「へ?」

 緊張しているのだろうか、うまく聞き取れない。

 「あ、えっと………その…ひまわり!!あおいも…キラキラして見える。」

 半分叫ぶかのようにそういうと少し落ち着いたのだろうか、深呼吸をし、話を続ける。

 「えっと、ね。あおいもここのひまわり、だいすきなの。あおい………ちょっとだけ、学校で…喧嘩とは違うんだけど、あんまりその…馴染めなくってね、外にいたくなくて、おばあちゃんのところにいつも逃げてきてたの。それでね、いつも通りおばあちゃん家からぼうっと空を眺めてたら、少し遠くの畑が真っ黄色になっててね、それでおばあちゃんにひまわり畑のこと聞いて。それからいつもここにきているの。ひまわりはいつもキラキラ輝いてて、いつも元気で、どこかに妖精が隠れてるんじゃないかなって、思ったことがあるんだ。ここに来るたびいつも探してるの。まだ見たことはないんだけど…。でもそれくらいに不思議で、きれいなの。」

 つっかえつっかえながらも、まっすぐな言葉。

 ここまで話し切るとあおいちゃんは、また顔を真っ赤にして俯く。

 「……………。」

 うまく言葉が見つからない。 

 言いたいことはいっぱいあるのに、のどに何か詰まっているかのように言葉が固まって出てこない。

 もどかしくてあおいちゃんのほうへと視界を動かす。

 あおいちゃんは………真下を向いて震えていた。

 僕が言葉を発せずにいるほど、あおいちゃんは怯えるように体を縮こめていた。

 (あ………。)

 妙な既視感があった。

 それはきっと…僕だ。

 なぜだかわからないけれどあおいちゃんが、思い出したくもないあの時の僕に重なって見えた。

 ………!ッ。

 身体が勝手に動いた。

 気づいたら僕は、あおいちゃんのその肩をつかんでいた。

 「!!…。どし…た…。」

 あおいちゃんはびっくりして言葉を漏らす。

 「僕もだよ!」

 言葉にならないと悩み彼女を不安にさせたはずのその思いは、一瞬で口から飛び出してきた。

 「えっ……。」

 「僕も!おんなじこと思ってた。その考え、すごく好き!ひまわりの輝いているのは、妖精がいるからなんだね!なんか、それだ!って思った!あおいちゃんすごい!僕たち、おんなじところからおんなじ場所見つけて、おんなじように見えたんだよ?なんかすっごく、すごい!不思議だね!」

 「え……。」

 あおいちゃんは目を真ん丸にする。

 日の光を受けてあおいちゃんの瞳もキラキラと輝いている。

 (………ん?)

 「あおいちゃんの目、とってもきれいだね! 」

黄色い瞳が、とってもきれいだ。

 「っ………! 」

 僕がそう言ったとたん、あおいちゃんは心底驚いたというような顔をして、ばっ…と下を向いた。麦わら帽子を目深にかぶりなおす。影になっている顔は赤く染まっている。

 「あ、あのね…あおい…」

 あおいちゃんがおずおずと口を開く。

 俯きながらも、大きなその二つの目が僕をとらえる。

 「とっても…う、うれしい!」

 ふわっ、と。

 彼女は、ひまわりのほころぶような笑みを浮かべた。

 「あっ、あのね、向こうにもっといっぱい咲いてるとこあるの!この辺は日が当たりにくくてまだ蕾が多いんだって、おばあちゃんが言ってた。」

 はにかみながらあおいちゃんは言う。

 「へぇー、そうなんだ!」

 ひまわり、本当に好きなんだなぁ。

 なんてしみじみ考えていたらあおいちゃんは急に顔を真っ赤にして俯いた。

 「? 」

 どうしたんだろう。

 「だからね、その………い、いっしょに行かない? その…もっとお話ししたいし…。」

 ………さそって、くれた……。心が飛び跳ねる。

 「いいよ! 行こう! それ、どっち?」

 「えっと…あっち。」

 おずおずと指をさす。

 「わかった!じゃあ行こう!」

 気持ちが逸る。

 「あ、うん……その…。」

 あおいちゃんはもじもじとした素振りを見せる。

 「どうしたの?早く行こ!」

 早く行きたい。教えてもらったほうへ足を踏み出す。

 「あの、」

 「だからどうし………。」

 声のしたほうを見ると、僕の手にあおいちゃんの白い手が重なっている。

 おもわずあおいちゃんの手を取ってしまっていた。

 「あっ、ごごっごめん!!」

 不思議と顔が熱くなる。

 あおいちゃんの顔も、林檎みたいに真っ赤だった。

 絵の具の筆洗いバケツの色水みたいな、不思議で、でも嫌じゃない。そんな不思議な色の沈黙が流れた。

 「じゃ、じゃあ行こうか。」

 「う、うん。」

 ゆっくりと、歩き出す。少し離れた、触れないギリギリの定規一本分くらいの距離。

 何でもないはずなのに、なぜだか少しもどかしい。

 むずがゆいようなこの気持ちは、何ていう名前なんだろう。

 そっ、と彼女のほうを窺うと、あおいちゃんと目があった。

 綺麗な瞳だった。

 はっ、と頭がキュッとする感じがして、つい目を逸らす。

 変な風に思われないだろうか。

 感じ悪くなかったかな。

 さっきからなんだか心がいそがしい。

 どうかしちゃったのかな、僕。

どうしようもなく不安になってしまって、助けを求めて空を仰ぐと夏の空のにおいがした。

 ふと前を向くと、あおいちゃんがいる。

生まれて初めてのはずのこの時間が、今までで一番心地よくて、それがとてもふわふわした地に足のつかないような感覚。

いつもより心臓が元気だ。

「ひなたくんっ!上、見て!」

呼ばれてやっと周りに気づいた。

どれだけの間、歩いただろう。

青かったはずのそこは、目がチカチカするくらいの黄金色で埋め尽くされていた。

「わぁ…。」

風が吹く度に花弁の隙間から黄色い光が降り注いで、暮れかけの空みたいな優しくてあったかい世界が広がっていく。

 花びらのステンドグラスが強すぎる日差しを遮ってくれて、とても気持ちいい。

 「ね、ここ、秘密基地みたいだと思わない?」

 ワンピースの裾を翻し、あおいちゃんははにかむ。

 「秘密基地?」

 「そう、秘密基地!」

 あおいちゃんは、いたずらっ子みたいな笑みを浮かべる。

 「ここは広くて、人も来ないの。それに、背の高いひまわりが天井みたいでしょ?だから、外から見てもあおいたちのこと見えないの。おばあちゃんとかくれんぼした時も、一時間も隠れられたんだよ!途中で飽きちゃって、自分から見つかりに行っちゃった。ね、すごいでしょ?だからあおい、一人になりたいときはこっそりここに来るの。夏の、この時期だけの、誰にも秘密の秘密基地。あおい以外、誰も知らないんだよ!」

 興奮した様子で、満面の笑みで、あおいちゃんはそうはしゃぐ。

 そうしてひとしきりうれしそうな顔をすると、あおいちゃんはもじもじとしはじめて、

 「あのね、ここのこと教えたの…ひなたくんが初めてなんだ…。」

 と言った。

 「それでね、その…秘密ついでに、もう一つだけ、いっこだけ、あおいのお話聞いてほしいの。その……いい…かな。」

 真っ赤な顔で、潤んだ瞳で。僕を見つめる少女はガラスのようで。

 不安そうに震える少女を、ぎゅっとして守ってあげたく思うのに。

 どうしてだろう、触れたら砕けてしまいそうで、僕は何も言えずにいた。

 (まただ………。)

 言いたいことがいっぱいあるのに。

 もちろんだよって、聞くよって言いたいのに、息が苦しくなって、身体が動かない。

 名前のない気持ちに襲われる。

 あおいちゃんと一緒にいると、はじめての気持ちでいっぱいになる。

 あおいちゃんが見たい。

 動かない体を無理やりに動かしてあおいちゃんのほうを向くと。

 あおいちゃんは、震えていた。

 綺麗な目を潤ませて、下唇を噛み締めて、ワンピースの裾を握りしめて、小さく震えている。

 (あおいちゃんも、こわいんだ…。)

 あおいちゃんはきっと、震えるほどこわいのに僕に話をしようと決めたんだ。

 どれだけの勇気だろう。

 (なさけない…。)

 すぐに返事をしてあげられなかった僕が、どうしようもなくなさけない。

 (言わなきゃ。) 

 あおいちゃんに、聞くよって、言ってあげなきゃいけないんだ。

 「聞く…よ。」

 やっとの思いで動かしたのに、僕の口から出てきたのはそんな弱弱しく掠れた声だった。

 



「あのね………。」

 あおいちゃんは、ぽつりぽつりと話し始めた。

 「あおい、クラスで馴染めなくってって話、少ししたよね。それでね…あおいの目、………見てほしいの。」

 あおいちゃんはそう言って、それまで目深にかぶっていた帽子を脱いで、その大きな目で僕を見つめた。

 キラキラと、黄色い瞳が日差しを反射して輝いている。

 「? やっぱり、あおいちゃんの目、すっごく綺麗。」

 思わずそういうと、あおいちゃんはまた真っ赤になって目を伏せてしまう。

 (もったいない………。)

 「あのね、この目は、おじいちゃんと一緒の目なの。お父さんとは違うんだけどね。『イエーガー』っていうんだって。おじいちゃんの目はすっごく綺麗で、あおい、おじいちゃんの目が大好きだったの。ちっちゃいころは、宝石でできているの?だなんて、あおい言ってたんだって。おじいちゃんが笑いながら話してくれた。」

 (イエーガー…か。)

 初めて聞いた。

 「学校の友達も、きれいだねってほめてくれて、あおい、この目が大好きだったの。でもね、学年が上がって、三年生になってからなんとなく嫌な感じがしてね、どんどんみんな冷たくなってったの。『気持ち悪い』『化け物』って言われて、友達もみんな前みたいに話してくれなくなっちゃって、あおい今学校でひとりぼっちなの。先生にも、からーこんたくと入れてるんじゃないかって疑われて、気味悪がられて。いつもあおいの目を綺麗だって言ってくれたおじいちゃんも死んじゃって、あおい、あおいの目、嫌いになりそうだったの。誰かに会うとまた酷いこと言われそうでこわくって、学校が終わったらいつもおばあちゃん家のひまわり畑に来てたの。」

 そうだったのか。だからあおいちゃんは僕が来たとき、怯えていたんだ。

 「みんな低学年の時はいつも、畑で遊んだりしたんだけどね。三年生になったくらいからみんな畑なんて嫌いだって言うようになって、花なんて面白くもないって言われて、」

 「あおい、みんなについていけなくなっちゃった。」

 「だからね、ひなたくんが、ひまわりを綺麗って言ってくれたこと、それに、あおいと一緒って言ってくれたこと、あおいの目のこと綺麗って言ってくれたこと。どれもみんな、すっごくうれしかったの!」

 上気した顔で、溢れそうなほどの笑顔で、あおいちゃんの一挙一動が僕を捉えて離さない。

 そして僕は、はじめて、あおいちゃんの目をはっきりと見ることができた。

 真ん中が緑と茶色の間みたいな色で、その周りは鮮やかな黄色。光を反射してキラキラと輝くその様子は…。

 「ひまわり…みたいだ…。」

 「へっ!?」

 あおいちゃんが不思議そうな顔をする。

 「やっと気づいた。あおいちゃんの目、ひまわりみたいだ。」

 ひまわりの花弁のような黄色い虹彩、緑みを帯びた瞳孔。

 そして何よりその瞳は、まるでここに咲いているひまわりのように、僕を惹きつけて離さない。

 「やっぱり、すっごく綺麗。隠しておくのはもったいないよ。」

 そっ、と手を伸ばし、麦わら帽子のつばを軽く持ち上げる。

 「ほら、やっぱりかわいい。ひまわり畑にいるあおいちゃん、ひまわりの妖精みたいだよ。」

 白いワンピースに麦わら帽子、ひまわりみたいに輝く大きな瞳。白い肌に、赤く染まった頬。くるくると表情を変えるその少女は、おめかしをしてテレビに映るような女の子の何百倍も、魅力的だ。

 「………。」

 あおいちゃんはすでに赤く染めていた顔を、耳の先まで真っ赤にして、大きな目に動揺を浮かべ黙りこくる。

 ふいに、漫画の中の主人公みたいなことを言ってしまっていたことに気づいた。

 自分の顔も真っ赤になっていくのを感じた。

 (恥ずかしい…。)

 心臓を甘くひっかくような、こそばゆい沈黙が辺りを包む。

 あおいちゃんのほうを見てみると、あおいちゃんもちょうどこっちを見ていた。

 どうしようもなく頭がふわふわする。

 「あっ、あの!」

 沈黙に耐え切れなくなって、どちらともなく口を開いた瞬間。

 びゅおぉ!

 ひまわり畑全体を揺らす、大きな大きな風が吹いた。

 急に駆け抜けた一筋の風は、日差しに乾かされた土や、落ちたはっぱ、そしてあおいちゃんの麦わら帽子を飲み込む。

 「あぁっ1」

 周りもみずにあおいちゃんは手を伸ばす。

 強く大きな風はそんな少女の体すらも、強く抱き込み大きく傾ける。

 「まって!」

 転びそうになる彼女を支えようと、僕は翻るワンピースの生地を強く掴んだ。

 ズザリッ。

 「ふぁぁっ!」

 砂の擦れる音と、少女の黄色い声が二人の耳にこだました。


 



 (今頃、どうしてるんだろう…。)

 思い出すだけで、心がギュッと締め付けられる。

 誰にも話していない、俺と彼女の、二人だけの秘密。

 「おいっ!おーはーよっ! 」

 「! お、おぉっ! おはよ。」

 コーヒーを片手に物思いにふけっていると、友人に声をかけられた。

 「お? 今更だけど、お前珍しく早いのな。いつも遅刻ギリギリで、この時間に会うことなんてないじゃん。」

 「いや、母さんに起こされてさ…。」

 会話に応じながら、学校へと歩き出す。

 「そういえば今日、転校生来るらしいぜ。」

 「へぇー、よく知ってるな。」

 「へへっ!俺の情報網、なめんなよー。」

 こいつは本当に、どこで教えてもらえるんだという情報をやたらと知っている。

 転校生…か…。

 キーンコーンカーンコーン………。

 「うわっ、やっべぇ。」

 「走るぞ!」

 息を切らして教室へと駆け込むと、HR二分前だった。

 結局早く出たのに、いつもと大して変わらない時間になってしまった。

 (ついてねぇ…。)

 息を整える間もなく先生が教室へと入ってくる。

 「おー、席につけー。よし、全員いるな。今日は始業式の前に、転校生を紹介する。」

 先生がそう言うと、クラスが軽く沸き立つ。

 やはり知っている人は少ないのだろう。

 「日下、入ってきていいぞ。」

 日下…?

 考える間もなく引き戸は開き、転校生は俯きがちに入ってくる。

 見慣れないセーラー服は、前に通っていた学校のものだろうか。

 転校生は、教卓の前まで進むとこちらへと身体を向ける。

 「日下葵です。」

   『あ、あおいは…日下葵。えっと…ひ、ひなたくん? 』

   『えっと、あ、あのね…あおい…とっても…う、うれしい!』

   『あ、えっと………その…ひまわり!!あおいも…キラキラして見える。』

 大切な大切な記憶が、一瞬にして思い起こされる。

 (まさか…。)

 濡れ羽色の髪に………。

 ………ひまわり色の、瞳。

 (嘘だ…。)

 あまりにも唐突な出来事に、思わず目を疑う。

 七年前に見たあの少女と変わらない、艶のある漆黒の長髪にひまわりみたいな瞳。赤くなりやすい頬。華奢な体躯に紺の襟のついた白いセーラー服を合わせ、教卓の前から辺りを見回している。

 本当に、彼女なのか?

 逡巡している間に、彼女はこちらへと振り返った。

 俺を見た瞬間に視線を止める。

 目が…合った…。

 息が止まるような緊張。

 彼女も驚いた様子で目を丸くしている。半開きになった口からは、今にも感嘆符が零れ落ちそうになっている。

 最初からまっすぐこっちを見据える姿は、俯いて瞳を隠していたあの頃の少女とは正反対だけど、まっすぐに前を向くその大きな瞳は昔と変わらずに、あのときのひまわりみたいに輝いている。

 本当に本当に、惹き込まれる。

 魅惑的な瞳。

 (あ………。)

 つい、見つめてしまう。

 かぁっ……と、顔が熱くなるこの感じは、七年ぶりだ。

 キィン…という耳鳴りとともに、愛おしい記憶が色鮮やかにフラッシュバックされる。

 痛いほどに鮮やかな景色と、可憐な少女。

 何度も繰り返したあの日の少女が、今目の前にいる。

 あおい、あおい、日下葵、あおい…ちゃん。あまりにも久しぶりで、何て呼べばいいのかすらもわからない。今更ちゃん付けで呼ぶのもなんだかくすぐったいし、かといって馴れ馴れしく呼び捨てにするには時間がたちすぎてしまった。

 日下葵。くさかあおい。名前を想うだけでもこそばゆい感覚。七年たっても腐らずにいた想いが、元気に飛び跳ねている。

 話したいことが、語りたいことが、伝えたいことが。

 たくさんたくさん、山ほどにあるんだ。

 昔の俺はあまりにも子供で、幼稚で、幼くて、あんなことしたくせに何も言えなくて…。

 ずっと後悔してたんだ、ずっとずっと、会いたくて、話したくて、切なくて。

 この気持ちを伝えたくて、言葉にもならないのに、思い出にすることすらもできなくて…。

 『ガタッッ』

 「あ、あお………。」

 言葉が出てこない。

 がやがやと、周りが騒めきだす。

 辺りを見回すと、みんなの頭がいつもより低い。

 俺は、立ち上がってしまっていたようだ。

 「どうしたんだ? 」

 「知り合いなのか? 」

 「お、おい! とにかく座れ! 」

 がやがや、と。周りが煩い。

 彼女も、あっけにとられたような顔をしている。

 あの時と同じ、表情に。

 もう、留めておくなんて、できない。

 「俺っ、ずっと…っ……。」

 うまく言葉にできない。舌がもつれる。

 もどかしさについあおいを見つめると、あおいは顔を真っ赤にしている。

 「あの日からっ………っ…! 」

 思わず叫ぶと、あおいは言いかけた俺を制するように、俺の方へと歩いてくる。

「…っへ?」

 間近に見る彼女は、この笑顔は、間違いようもなく、あの日の彼女だ。

 「おい、何をやっている!」

 「どうしたんだよ!?」

 クラスのざわめきが遠くに聞こえる。

 そして彼女は頬を染めたまま。

 その薄桃色の柔らかい唇の前に、そっ…と人差し指を立て、こうつぶやいた。

 つられて俺の口も小さく動く。

 まるで昔の動きを繰り返すかのように。 

 「「誰にも秘密の、秘密基地。」」 





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