第2話





 応灯が実父である応安を殺害し、その軍を纏めたと言う知らせが入ってきたのは、それから二年後の事だった。

 暫く、鵜族は安泰かとも囁かれた。だが、この世の中で確かなものなんて何一つない。

 鵜山に応灯軍が入り込んだと言う知らせを受けたとき、蓮花はただ静かに瞼を下ろした。





 月が出ていた。

 篝火が、遠く揺れている。夜霧の向こうで、微かにながらも確かに揺れていた。

「逃げてきたか、応灯」

 一人、蓮花は呟いた。護身の者もつけていない。時折こうして、寝台を抜け出しては灯りひとつ持たず外へ出た。今夜も、同じだった。ただ一つ違うのは、遠く見えるのが月明かりばかりではないと言うことだ。

 鵜山に入り込んだ応灯軍は、大きな動きを見せていない。数も、二千程度か。酷く少なかった。理由は、直ぐに知れた。華州の直ぐ隣、清州軍との戦いで敗走したのだ。逃げ込んだのが、この場所だったと言うだけだ。国の中でも神霊山と呼ばれるここには、どの軍もおいそれと手は出さない。

「生きておろうな、応灯」

 蓮花は十四になっていた。戦のことも、鵜族のことも、世のことも、二年前よりは知っている。だが二年前から、あの男の事は何も知らないままだ。

 短く、息を吐いた。息は、白い。ゆっくりと、歩を進めた。応灯軍の事は気にはなったが、考えるのはやめた。放っておいても、鵜族に手を出してくることはないだろう。それだけの余力が、あの軍にあるとも思えなかった。

 清かな月明かりだけを頼りに、夜道を歩く。木の根が、草が、影を伸ばしている。自らの影は、霧の中に映りこんでいて、さながら幻のようだ。幻夜。そんな単語が、脳裏を掠る。

 こんな夜、歩を進めるのはいつもあの場所だ。霧に覆われた視界では、まともに物も見えはしないが、そこに行くべき道程は眼を瞑っていたって身体が覚えている。幼い頃から繰り返し足を運んだ場所。

 華湖。

 華州の中で最も小さな湖でありながら、華州の名を受け継いだその場所。

 ふいに声がした。

 耳を澄ませる。幾つも鳴き交わす虫たちの音色の向こう、確かに、声がする。

 幻聴ではなかった。不意に蓮花は泣きたくなった。だから、笑った。

 唄が、聴こえる。

 擦れた、低い唄声だ。視界を閉ざす霧の向こう、誰かが小さく、唄っている。

 懐かしい調べだ。まだ子供だった頃、母が寝床で唄ってくれた其れと同じ旋律だ。華州に伝わる、古い子守唄だった。湖の畔で、誰かが調べを口ずさんでいる。

「良い唄だと、思わぬか」

 霧の向こうから、声がした。闇夜の中だ。月明かりさえ頼りなく、ましてや霧の出ているこんな場所では、相手の姿さえ見えぬ。見えぬが、蓮花は其れが、嬉しかった。

 見えぬのなら、逢う事にはならない。

「良い唄だ。しかしおぬしは、唄が上手くない」

「悲しいことを言ってくれる」

 声の主は、そう言って笑った。

 夜を、これほど有り難いと思った事はなかった。

 絶望は、朝と共に来た。だからだろうか。今のこの苦しい歓喜は、夜と共にある。

 見えぬ。頼りない月明かり。視界を覆う夜霧。そして、闇と夜。霧の向こう揺れる人影を、誰かだなど認識出来はしない。それが、酷く優しく思えた。

「唄ってくれぬか、誰かよ」

 声の主が、霧の向こうで言った。そして、その言葉尻に、僅かに咳が混じった。ふと、悪寒がした。足が、一歩前に出る。

「近寄るな、誰かよ」

 咳の中、声の主が言った。蓮花は知らず、足を止めていた。

「それ以上近寄ると、互いの顔が見えるぞ」

 優しい声音だった。蓮花は足を止めたまま、空を仰いだ。月が、霞んでいる。

 霧よ。もう少しだけ、時を稼いでおくれ。そう、願う。

「怪我を、しているのか。誰かよ」

「酷くはない。死なぬよ」

「真だな」

「私は、死ねないのだ、誰かよ。約束がある」

「約束とは」

 風が、吹いた。ひやりとした空気が鼻腔に入り込む。懐かしい匂いがした。この風の香を、霧の向こうの誰かも感じているであろうか。

 もう一度願う。夜霧よ。もう少しだけ、晴れないでおくれ。月明かりよ。もう少しだけ、頼りないままでいておくれ。

 夜よ、もう少しだけ、誰かを覆い隠しておくれ。

「好いた女を、迎えに行かねばならんのだ」

 誰かが、笑う。霧の向こうで。夜の向こうで。

「何年掛かるとも知れぬがな。なあ、誰かよ。唄ってくれぬか」

 秋の風が、頬を撫でて過ぎる。風よ。もう少しだけ静かにしていておくれ。でなければ霧が、晴れてしまう。

「私がか」

「おぬしは、好いた女と声がよく似ている。下手な私が唄うより、月も華湖も喜ぶであろう」

 蓮花は笑った。

 誰も、見咎めるものはいない。

 夜が、今は味方だ。夜も。月も。霧も。風も。全てが味方だ。

「仕方あるまいな」

 微笑んだ。

 ゆっくりと、口を開く。

 互いの顔を見ぬままに、言葉を交わす事を哀れと影が叫ぶなら、其れは歓喜だと私は月に叫び返そう。

 母が繰り返し、唄っていたあの唄を秋の夜風に乗せて唄おう。

 霧の向こうの、誰かのために。



 せめてこの夜だけは、許してくれるであろうと、蓮花は願った。





 夜霧よ、全てを覆い隠すのならば。

 どうかこの想いでさえも、隠し賜え。



――了――



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夜霧よ、全てを覆い隠すのならば。 なつの真波 @manami_n

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