夜霧よ、全てを覆い隠すのならば。
なつの真波
第1話
夜霧よ、全てを覆い隠すのならば。
どうかこの想いでさえも、隠し賜え。
●
絶望は朝と共に来た。
寝床についた赤の染みは、子供の時が終わったことを示していた。それは絶望であった。悲しみではない。怒りでもない。ましてや諦めでもなかった。歓びであろう筈もない。
数え十二の蓮花にとって、それは絶望であった。
子供の時が終わった。十二の歳月は儚い夢の気泡のように、その朝消えた。
鵜族。
華州の東、神霊山とされる鵜山でのみ暮らす、女が戦場に赴く部族である。まして蓮家は、鵜族の長となる家系だ。初潮を迎えた時、鵜族の子供は女になる。女になると言う事は、紅を引き、戦装束に身を包み、戦場に赴くと言うことであった。
乱世である。
帝は崩御し、幼い新帝を巡り力は渦を巻いている。そんな世だ。鵜族の大いなる母であり父である鵜山も、戦火を完全には免れないでいる。鵜山を守ること。それは、鵜族の大いなる誇りであった。
誇りである。其れは理解していた。母は良く口にする。鵜族の女たるもの、鵜山を守り、子を守り、誇りを守り、死んでいくべきなのだと。
子供ではない。もう、子供の時は終わった。女になった。それは、鵜山を守り得ると言うことだ。誇りだ。其れは分かっていた。だがそれでも、理解とは別の絶望が身を焦がした。
女中が来た。印を認めると、報告へと行った。母は直ぐに来てくださり、祝いの言を口にした。
蓮花はその日初めて、紅を引いた。
身を清め、戦装束を纏い、小刀を渡された。
紅の儀。女になったことを祝う儀が終えると、それらを身につけたまま蓮花は家を出た。足は自然と、鵜山の中の湖へと向いていた。華湖と呼ばれるその場所には、先客がいた。
男童だ。
輪郭にまだ幼い丸みを引きずり、髪も切っておらず髭も生えていない容貌は、子供であることを確かに示していた。
「蓮花、遅かったではないか」
子供は、笑った。昨日までのように、屈託なく笑った。
「応灯」
答えた声は、震えていた。応灯の顔が、怪訝に歪んだ。
「蓮花。その紅は」
「応家長子、灯よ」
顔を上げ、紡いだ言葉に、応灯は口を閉ざした。応灯の闇のような双眸が、蓮花を見据えていた。
「私は蓮家の花である。今朝、紅の儀を済ませた」
応灯の眼が、見開かれた。紅の儀が、何を示すのか。応灯には分かったのであろう。一歩、足が出た。手が伸びる。
「触れるでない」
叫んでいた。応灯の手が、止まった。その指を見つめ、蓮花は紅を引いた唇を震わせた。
「紅の儀を、済ませた。分かるな、応灯」
「分からぬ」
「応灯」
「分かろうとも思わぬ」
手を、握られた。強い力だった。振り払おうとした。敵わない。
「応灯」
「確かに私は、応家長子の灯だ。しかしそれが何だと言う」
「手を離せ、応灯。無礼が過ぎるぞ」
「離さぬ」
「応灯」
もう一度、叫んだ。慣れぬ紅を引いた唇が、煩わしくさえ思った。顔を上げ、応灯を見た。強く、歪なほどに熱のある眼差しがそこに在った。
「私はもう、子供ではない。分かれ、応灯。離してくれ」
「離さぬと言った」
「なら私は、おぬしを斬らねばならぬ」
「蓮花」
「乱世だ、応灯」
応灯の手が離れた。鳥が微かに鳴いていた。高い音で鳴く鳥は、百舌であろうか。泣いているように聞こえた。誰の声を、真似ているのか。
「父上は、確かに鵜族を嫌っている」
応灯が、低く呟いた。その顔を見ることが出来なかった。朝影を見下ろす事だけで、精一杯であった。
「女が戦をするのが我慢ならぬと言うが、滑稽だと私は思う。私は、蓮花、お前が美しいと思う。美しくなると思う。気高くとも」
「応灯よ」
朝の絶望は、この言葉を吐くことを分かっていたからだ。
「もう、逢えぬ」
風が吹いた。乾いた、秋の風だ。木々の間をすり抜けていく。
もう逢えぬ。それが、全てであった。応家と鵜族は、長年危うい均衡を保ってきた。だが、今の応家の長であり、灯の父である安は鵜族を嫌っている。乱世の中、いつ牙を向いてくるとも知れなかった。鵜山は、応家の収める華州に在るのだ。その長子と、共に居られる訳がなかった。そんな事は、分かっていた。分かっていた筈だ。
今までは子供であったから、過ごせたのだ。過ごしていても、両家ともが眼を瞑っていた。ただ、其れだけであった。だがもう、子供の時は、終わった。朝と共に、終わりを告げた。
「蓮花」
風に乗るように、応灯の声がした。その頃には、駆け出していた。応灯に背を向け、蓮花は鵜山の奥へと駆け出していた。その背中に、声が掛かる。
「いつか、お前を迎えに行こう。蓮花よ」
それが、十二の秋だった。
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