後編
実習が終わった後も、かなめとは連絡を取り合うようになった。とはいえ、やっぱりこちらから一方的にメッセージを送ることがほとんどで、かなめの方から何かを言ってくることはまず無い。
珍しくかなめの方から連絡があったかと思えば、それは、かなめが公立の教員採用試験に落ちた、という報告だった。
本人は淡々と結果を受け入れている風ではあるけど、私はショックだった。納得がいかなかった。かなめ以上に力のある人がどれだけいるというのだろう。かなめを落とす人たちに選ばれたのだと思うと、自分が合格したことも大して喜べなかった。
「とりあえず、私立の非常勤で採用されたから、それで何とか生活していこうかなって思ってる」
その後直接会ったかなめは、少しやつれて見えたけど、思っていたほど落ち込んではいない。それにしても、非常勤講師の時給だけで自活できるものだろうか。不可能ではないとしても、ゆとりのある生活とは言えないだろう。
「…ねえ、もし良かったらなんだけどさ、部屋、一緒に借りない?」
不意に思いついたことだった。ルームシェアという形で、同じ部屋に住めば、生活費はかなり節約できるだろう。厳しい状況で新生活を始めようとしている人に、こんな提案をするのも失礼だったかも知れないけど、私はどうしてもかなめを放っておけないのだ。一つ屋根の下で暮らせば、かなめももう少し、私に興味を持ってくれるかも知れない。そんな自分の下心が、ひどく卑しくも思われる。
かなめは私の提案に驚いたようだし、そう簡単には首を縦に振らなかったけど、それでも、経済的なことを考えれば一人暮らしが楽でないことは心配していたみたいで、私たちはお互いの職場から比較的通いやすい場所を選んで、最寄り駅からバスで20分ほどの場所にあるアパートの一室を借りた。2LDKの部屋には、リビングの他に4畳と6畳の個室があって、かなめは6畳の方を私に譲ると言って聞かず、結局私が広い方の部屋を使うことになったのだけど、その割り振りはどう考えても間違っている。
引っ越しの日、かなめの部屋には山のような本が運び込まれていた。本棚はとっくに埋め尽くされていて、入り切らない本は段ボールに詰め込まれている。全部で何冊あるのか見当もつかない。
かなめはこれを全部読んでいるのだろうか。世の読書家の間には積読なる言葉もあって、読む読まないに関わらずひたすら本を買い込んでは積み上げていくことを喜びとしているような人もいるのだという。でも、ここにある程度の本であれば全て読んでいるという人もいるのではないかという気もする。いずれにせよ、かなめと私は生きる場所が違うということなのだろうか。一つ屋根の下に暮らしても、近づけるとは限らない。
非常勤講師というのは、担任や校務分掌などを割り振られず、授業だけを担当する職員のことを言う。コマ数単位の給与が支給される仕組み。要するに雇用形態としてはアルバイトだ。授業が終われば勤務終了となるので、学校に拘束される時間はそれほど長くない。ただ、かなめは学校以外に塾の仕事もしていて、働いている時間は、専任教諭である私と同じくらいか、かなめの方が帰りが遅いこともしばしばだった。
共有部分の掃除のような家事は分担しているけれども、食事の時間はお互いにバラバラなことの方が多かったし、かなめは家にいる時間のほとんどを自室に籠もって過ごすので、一緒に暮らしていても、顔を合わせる機会は多くない。
それでも、以前よりはかなめのことがずっと身近になっているのも間違いなくて、たとえばメイクを落としたかなめが腫れぼったい二重瞼で、妙に眠たげに見えるとか、全体的にあまり肉付きの良いとは言えない肢体の中で、太腿や脹脛はふっくらとした綺麗な形をしているとか(実習中はパンツスーツを履いていたので、脚の形はよくわからなかった)、服はほぼ黒しか持っていないのだけど、黒のブラウスに黒のロングスカートが本来の年齢以上に大人びたオーラを醸し、黒のストッキングを履くと両脚の肉感的な艶かしさが引き立つとか、そういう細部に気づくようになる。
かなめはいわゆる美人ではない。背は小さいし、髪も艶のない癖っ毛で、しかもかなめはそれをあまり手入れもしないので、ずいぶん貧相な顔つきに見えてしまう。かなめ独特の妖艶な魅力に気づいている人は私くらいのものではないか。私の目線はこんなにもかなめに惹きつけられているけど、かなめの方はどうなのだろう。かなめは、休みの日でも用事がなければ自室から出てこない。あの狭い部屋で、堆く積み上げられた本に囲まれて、やっぱり私の知らない何かを見ている。実習中のあの飲み会があった日以来、かなめは多少私に心を許してくれたようにも見えるけれど、それでもかなめの世界で、私がそれほど重要な位置を与えられていないことは明らかだった。
※※※
かなめとの共同生活が始まって、つまり私たちがそれぞれの現場で教壇に立つようになって3年目の秋。その日は、午後に授業が無く、溜まっていた仕事もひと段落して、ほぼ定時で退勤することができた。少し時間ができたので、どこかに寄って行こうかと考えて、2ヶ月ほど前に駅前にオープンした喫茶店のことを思い出す。チェーンの喫茶店ではあるけど、広くてゆったりしたスペースに、お洒落な内装の、感じの良いお店で、一度行ってみたいと思っていたのだった。
せっかくだからかなめも誘ってみよう。そう思って「午後は仕事?」とメッセージを送ると、かなめからは午後から塾の授業だという返事が来た。それなら仕方ないと1人で店に向かう。店に近づくと、窓の向こうに、よく見慣れた、喪服みたいな黒服の女の人の後ろ姿がある。かなめだった。本を読むかなめは、全神経を活字に集中させているのか、どのような感情もその表情には発露させない。遠目からでも、かなめの顔はすぐにわかる。
心がぞわぞわする。どうしてかなめがここにいるのだろう。塾で授業があるはずではなかったのか。
かなめが働いているはずの塾に電話をかけてみた。昔教わってた生徒の保護者だと名乗ったら、仲澤はつい最近、体調不良を理由に退職したとの説明があった。何かがプツンと切れる音の聞こえたような気がする。
それから後のことは、あまりよく覚えていない。シェアハウスのリビングに座って、かなめを待っていたことだけは覚えている。かなめが戻ってきたのは19時頃だった。
「おかえり」
ただいま、と返事をしたかなめは、スーツを着替えもせずにソファに腰を下ろしている私を不審に思ったようで、「どうしたの?」と怪訝な面持ちで、リビングの電気をつける。
「塾、辞めたの?」
虚を突かれたという表情で、え?と声をあげて、怖気付いたように後ずさる。私はソファから立ち上がって、幽霊のような精気のない顔で、かなめに近づいていた。
「今日、駅前にできたお店にいたでしょ。私、かなめをあそこに誘おうと思ってメッセージ送ったんだよ。でもかなめは塾だっていうから、一人で行って、そしたらそこにかなめがいて…塾に電話したら、辞めたって言われた」
私の中で何かが胎動を始めている。これまで一度も経験したことのないような禍々しい何かが、私の中から溢れ出ようとしている。
かなめは私のただならぬ様子に、萎縮してしまったのか、おずおずとした調子で、ここ最近体調が思わしくなく、幸か不幸か塾の仕事も少なくなってきていて、比較的迷惑をかけずに止めることができそうだったので、塾を辞めてその分を教材研究や自分の勉強の時間に当てることにしたのだと説明してくれた。例の喫茶店は、読書や勉強の場所として最近よく利用するようになったのだという。
「…なんで嘘ついたの?」
自分でもギョッとするような、低くて重い声だった。これは一体、誰の声だろう。かなめが戸惑った表情を浮かべる。ただ喫茶店で本を読んでいたというだけのことで私は何をこんなに苛立ってるんだろう。
「ご、ごめん…なんか、莉花が働いてるのに、私が遊んでるみたいで、気まずくて…」
「体調悪かったんでしょ?言ってくれればいいじゃん」
私が距離を詰めると、かなめはまた一歩、後ろに下がる。学校の仕事も、塾の仕事も、どちらもかなめは少しも手を抜いていなかったのを私は知っている。そんなかなめが、塾を辞めるのは苦渋の決断だったはずだ。遊んでるどころか、働き続けるためのギリギリの判断だったに違いない。かなめがそんな苦しい選択を迫られていたことを、私は少しも知らなかった。そんな状況にあってさえ、かなめに頼ってもらえない自分が呪わしく、私を信頼しないかなめが恨めしい。
「そ、そうだよね…ごめん…でも、あの、心配かけたくもなかったし…」
…ミロ…
「え?」
ワ タ シ ヲ ミ ロ !
「え、り、莉花!?」
気がつくと私は、かなめをソファーに押し倒していた。チュール素材のロングスカート越しに、黒ストッキングに包まれたかなめの太腿が、私の膝と擦れ合う感触だけが生々しくて、それ以外の全ては霧に包まれたようにぼんやりとしか認識できない。
「私、時々あなたのことが本当に嫌い」
吐き捨てるような声。私は何を言ってるんだろう。私は何をしてるんだろう。私が、私の意思を超えたところに行ってしまったようだ。ただ、怯えるかなめの視線がはっきりとこちらに向けられていることを感じて、それが今の私の全てだった。
そう、もっと、見て。もっと私を見て。
かなめの細くて青白い首筋に、私の右手が吸い寄せられる。かなめの頸動脈の拍動を感じられるのが、気が狂いそうなほどに愛おしくて、私はその手にぎゅっと力を込める。
かなめの表情が、苦悶と恐怖に歪む。ああ、そうだ、これだったんだ。私はかなめの、この顔が見たかったんだ。この目で、私を見て欲しかったんだ。
私を見て。
もっと、ちゃんと私を見て。
見て
見て
見て
こっちを見て
こっちを見て
私を見て
わたしを、
私を、
私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ、私を、わたしを、ワタシヲ………
………
……
…
涙を滲ませた双眸は、真っ直ぐに私に向けられている。
「…どうして?」
かなめの頸部を握る手に、更に力を加える。うぐっ、という引き絞るような嬌声が、私を昂らせる。
「…どうして抵抗しないの?」
かなめは、苦しそうに身体を強張らせるばかりで、逃げようとも、私の手を払い除けようともしない。かなめの両膝が折り曲げられて、ロングスカートが捲れて、形の良いふっくらとした黒い脚が露わになっている。
「……莉花が…莉花が、そうしたいなら…」
呻くような声に、思わず右手の力を緩める。ゲホッ、ゲホッ、という咳と共に、目元に溜まっていた涙が溢れる。
「私は…莉花がいないと何もできないから…私がそんなに憎いなら……何をしちゃったのかはわからないけど…私が莉花に何かしちゃったなら…莉花がそれで、満足するなら…」
ハァ、ハァという喘ぎ声の入り混じったかなめの言葉は、どこか遠いところから聞こえてくるように感じられる。
憎い?かなめが憎い?違う。違う、違う、違う、そんなわけがない。憎いわけがない。なんでかなめを憎むもんか。こんなに健気で、強くて、優しいかなめを憎いなんて思うわけがない。私はもう一度、右手に力を入れる。かなめはまた、苦しそうに歯を食いしばるけど、決して私から視線を逸らしはしなかった。
ああ、本当に可愛い……
「…憎いんじゃないよ、これは…これは嫉妬」
やっぱり、わからないんだ。かなめは、自分が妬まれてることに気がついてもいなかったんだ。かなめの心に、私の場所はどこにもないんだ。怒りと虚無と悲しみが無い混ぜになった、ドロドロとした感情が絡み付いて離れない。そうだよね、あなたはずっと昔から、私のことなんかまるで眼中になかったよね。かなめの首を絞める手には一層力が篭って、このままでは本当にかなめを死なせてしまうのではないかという懸念が頭をよぎるけど、私の手は、私の制御をとうに離れていた。尖ったネイルがかなめの首の皮膚に食い込んで、微かに充血する。
「……なんで?」
かなめの声は震えていた。充血した両目から、ボロボロと大粒の涙が零れる。 「…なんで莉花が私に嫉妬するの?」
なんで?なんで?と繰り返すかなめは、これまで見たことがないくらいに錯乱していた。全身から力が抜けるのを感じる。
「だって、だって莉花は私に無いもの全部持ってる…!」
悲鳴のような声だった。いつの間にか、私の手はかなめの首筋から離れて、所在なさげにソファの背もたれを支えていた。ソファに押し倒されたかなめに跨って呆然としてる私は、多分すごく間抜けな格好をしている。
「私、実習のときから莉花にずっと甘えっぱなしで、莉花は何でも要領よくこなして、採用試験にも私は落ちて、莉花は受かって、莉花がルームシェアしようって言ってくれたから実家も出られたけど、そうでなかったら今でも多分実家暮らしで…莉花がなんでそんなに私に親切にしてくれるのか全然わからなくて、莉花に嫌われたら、私どうしたら良いんだろうってずっと怖くて……」
かなめの言葉は、最後は嗚咽でかき消された。
なんで親切にするか?私は親切にしてるんじゃない。かなめが私に目もくれないのが悔しいだけだ。かなめがもっと駄目な女だったら、私はもっともっとかなめに親切にするだろう。採用試験の対策を手伝ってあげる。仕事で上手くいかないことがあればアドバイスをしてあげる。プライベートな悩みにも相談に乗ってあげる。他の子には、私はずっとそうしてきた。みんな私を頼った。それなのに、かなめは私に頼らない。かなめはひとりで先に行ってしまう。かなめの部屋の本は増え続ける。かなめがいないときに、こっそり借りて読んでみたこともあった。私には読めなかった。かなめの見ている世界は、私にはまるで手の届かないところにある。高校時代の成績は私の方が良かったはずだ。大学のレベルだって私の方が上だ。それなのに、教員になった今、同期だったはずのかなめは私よりずっとずっと遠いところを走っている。
「…そんなもの」
かなめが自嘲的に口元を歪める。
「そんなもの、誰にも求められてないんだよ。実習のときから、私は何も変わってないの。こっちがいくら考えさせようとしても、生徒はすぐ、答えを教えろって言う。ちょっとでも難しいことを教えようとすれば受験に関係の無いことはやめてくれって言う。受験に関係ないことなんてひとつもやってないつもりだけど、そんな説明も聞いてはくれない。結局、現代文はセンスだからとか何とか言って、私の授業なんか聞かなくなる。いつも同じ。担任に相談したって私の指導が下手だってことにされるだけ」
ほとんど言葉にならない涙声は、それでも、私には伝わる。かなめが、私に伝えようとしてくれている。
「…それは、それはかなめが悪いわけじゃない」
あの時もそう言った。かなめは悪くない。
「悪いとか悪くないとかじゃないよ。必要とされてるかされてないかだよ…莉花が教採受かって担任持たされてるのは必要とされてるからでしょう。私は…私は、今年度で契約切られる…」
泣いていた。かなめが、ではなく、私が泣いていた。おかしい。なんでそんなことが起こるんだろう。悔しさとも怒りとも違う、冷え冷えとした虚脱感に押しつぶされそうになる。
「……ごめん」
何を言えば良いかわからなくて、出てきた言葉がそれだった。私はかなめに、泣きながら謝り続けた。
「なんで莉花が謝るの?なんで泣いてるの?」
かなめの困惑した涙声が朧に聞こえる。なんで私が泣いてるのか、自分でもよくわからない。辛いのはかなめのはずなのに。いつの間にか私は、かなめの胸に顔を埋めていた。かなめの痩せっぽちの身体に、私がしがみついていた。かなめの両手が私を包み込むのを感じて、私はますます声を張り上げて、駄々っ子みたいに泣いていた。私は、かなめに甘えて欲しかった。かなめを私のものにしたかった。支配したかった。これでは逆だ。そんなことを頭の片隅でぼんやりと考えてはいたけど、そんなちっぽけな私の理性は、私を少しも動かしてはくれない。
かなめの細い腕は、私が泣き止むまで、私を抱きしめてくれていた。生まれて初めて知らされる感情で、私は満たされていた。
※※※
「…嶺雲高校?」
かなめが小さく頷く。今年度での契約終了を通告されたかなめは、4月から働ける学校を探していたらしく、先日採用が決まったのは、県内ではトップクラスの進学校だった。野球部も強くて受験生の人気も悪くない。そこに採用されるのは簡単なことではないはずだ。
やっぱり、と思う。見る目を持った人はいるということなんじゃないか。
「どうせ非常勤だよ。あ、でも今度は今の学校と違って、非常勤も部活を持つみたい。運動部は経験ないって言ったら露骨にがっかりされたな。文芸部があるらしいからそこの副顧問ならどうかって言われたから分かりましたって答えたけど、文芸部って何するんだろう」
私も文芸部がどんなことをやるものなのかは知らない。うちの学校にはそんなものはあっただろうか。2人でソファに並んで座って、インスタントのスープを飲みながら、文芸部がどういうものなのかをネットで調べたり、顧問になったらどんなことをしたいか考えたりして、その日は夜遅くまで一緒に過ごしていた。同じ家に住んでるのに、こんなふうにゆっくり話あうのは初めてだった。
「…ねえ、かなめ」
「うん」
隣に座るかなめの顔は見えないけど、息づかいで、どんな表情をしているのかはわかる。
「先生、辞めないよね…?」
躊躇うような沈黙。
「辞めないで欲しい」
私のために、先生でいて欲しい。それは私のエゴなのかも知れないけど、それでも。
かなめの肩に頭をもたれる。私の方が背が高いので、少し無理のある姿勢だけど、不思議な安心感があった。何のことはない。私がかなめを必要としていたんだ。誰かに必要とされることの気持ちよさは知っていた。それしか知らなかった。だから、こんな簡単なことに気づかなかったんだ。誰かを必要とすることがこんなに心地よいことなんだと、気が付かなかったんだ。
「…うん。ありがとう」
かなめの左の手のひらが、私の右の手のひらに重なる。かなめの手は、ひんやりとしていて、小さくて、頼りなくて、優しい。
look on me 垣内玲 @r_kakiuchi_0921
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