第6話

男が、女の額に手を当てた。

刹那。彼の手と彼女の額、その隙間から、青白い光が漏れる。

淡い光は、夜の中で、静かに、ゆっくりと消えていった。

こうして、今宵、不老不死と呼ばれる人間がもう一人生まれた。


思い出すと、そこに居る。

「先輩!」

まだ十代の前半だったお前の、黒々と、さらさらとした髪。

周りから「女みたいだ」とからかわれていたな。

「僕、お店を持ちたいんです」

目を輝かせていた、十代後半。

失恋したと泣きじゃくったお前を、慰めたのは、「良い歳をした男が泣くな」と言ったのを覚えているから、二十代の頃だったか。

下積み先の酒場で、懸命に働いていた。それは三十に差し掛かったお前だったか。

年下の女と結婚した。そう報告があった時は三十代半ば。子供が出来ないと悩んでいたのは、多分、三十代後半。

四十になってようやく自分の店を持ったんだよな。

「楽しく、笑って。楽笑と書いて、らくしょう、と読むんです」

お前の夢が叶った祝いの席で、酔い潰れた事は、結局謝ったんだっけか。

客が来ない。来ても可笑しな客ばかりだ。そう愚痴るお前を、よく叱ったな。

「一生、店を続けますよ。楽しく、笑って」

五十になっても六十になっても、お前は俺の居場所を守ってくれた。

そのうち、俺の、元々さほど多くなかった友人たちは、俺のように自然の摂理に抗うことなく、時間の流れに身を任せて、一人また一人と、俺の前から去っていった。

おそらく、お前も、そう遠くない未来に。

「笹塚」

その名前を口にしたが、俺の小さい呟きは、俺以外が眠る深夜の静けさの中で、無情にも滲んで消えるだけだった。


私は、自宅であるアパートの一室に入ると、ベッドに倒れ込みました。

シーツが汚れても構わない。薄い化粧で、肌を痛めても構わない。

感動で、震えが収まりませんでした。

つい先程まで、私の体内に確かにあった、毒素のようなものが、綺麗に消えていたのですから。

長年続いていた、挙げればきりがない症状の数々が、まるで元から存在しなかったかのよう。

いつぶりでしょうか。こんなに心穏やかに、眠りに落ちる事が出来るのは。

薄れていく意識の中で、私は「あぁ、背負う事になった不幸せは、眠れない、ではないのだな」と思いました。


朝、起き出す。

爽やかな日差しが、窓から入ってきている。

小鳥のさえずり、外を車が走っている音。

見える、聞こえる。

簡単な朝食を摂りました。

食べられる。飲める。

失った幸せは、一体何なのでしょうか。

「そうだ」

大切な事を思い出して、私は、携帯電話を鞄の中から取り出しました。

あの人に伝えなくては。

私に残された時間の短さを承知で、共に添い遂げることを誓ってくれた、愛しい恋人。

本当は、したくてたまらなかった結婚を、泣きながら、出来ないと断る私を優しく抱き寄せ、それでもいい、と言ってくれた、最愛の人。

そう言えば昨日充電をしていなかった。携帯電話の液晶画面は真っ黒でした。

私は、携帯電話を充電器につないで玄関に向かいます。

アパートのエントランスに備え付けられたポストに入っている物を取るために。

恋人は私の身体を気遣い、毎朝通勤の途中にここに立ち寄り、ポストに昼食を入れてくれているのです。

玄関。鉄製の扉、その取手を持って捻る。

扉を手前に引き寄せようとすると

ガンッ!

鈍い音を立てて、扉は開くのを拒む。

押す。

ガンッ!

引く。

ガンッ!

「開かない」

ガガッ!ガガガガガガガガッ、ガンッ!

開かない。あかない。アカナイ。

私は、自分の頭から血の気が引いていくのが、分かりました。


彼女の望みはめでたく叶った。

不老不死の身体を手に入れた。

何も不自由がない部屋。何故か減らない食糧。

これから彼女は永遠の時間を生きる事が出来る。

唯一「人と接する幸せ」を失って。


【完】


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不老不死は容易く最期を迎える もぐら @moguraDAT

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