第四話 飛礼不世歩ッ府(ひれふせポップ)
Ⅰ
第四話
――身分には責任がある。
責任とは責務を全うすることである。
責務を全うするとは感情を捨てることである。――
レオナの名前は世界中の誰よりも長い。それはコンツェルン家が食い潰してきた家の名前をすべて背負っているからだ。いずれはレオナの子どももまたそれを背負いその責務を全うする。未来永劫まで定められている未来だ。
しかしレオナには感情があった。どのような教育を受けてもどのような罰を受けても、レオナはロロイを愛していた。それだけがレオナの持つ感情であり、個人的な欲求のすべてだった。シュヴァラン家もまた業深き家だ。彼らは互いの境遇を理解し合い、互いの悲しみを認め合い、互いの感情を許しあった。彼らには揺るぎない愛があった。
そのはずだった。
だがロロイはレオナを裏切り痛め付け辱しめた。此度のことはコンツェルンとしても許せる範疇のことではない、然るべき対応をしなくてはいけないだろう。レオナはそうわかっていながらもなお、ロロイを許したいという感情を持っていた。そのことがまた彼女を苦しめていた。
しかしその裏切りの翌朝、レオナは目を覚ますと、いつものようなロロイに対する胸のときめきを感じることはなかった。寝具の中で昨日のロロイの振る舞いを思い返してみても胸が痛むことはない。どうしたものだろうと思いつつレオナは体を起こし、日課である朝の紅茶を飲もうとした。
しかしすぐに動きを止めて辺りを見渡す。
「……ここは?」
そこは見覚えのない場所だった。しかもまるでスラム街のような狭く荒れた部屋だ。レオナは床に敷かれた薄い布の上に寝かせられていたらしいことを知り、戦いた。コンツェルン家に対してなんという扱いだろう。
「誘拐かしら……そんなことしたところで……、……これは誰の声?」
レオナはそこで自分の口からこぼれる声に違和感を覚えた。まるで荒くれ者のような声だ。悪魔でももう少し美しい声で話すだろう。
「……この手は……」
レオナは次に自分の手が血まみれであることに気がついた。握り締められていた掌には爪の痕が残り、そこから血がこぼれている。しかしそれよりも、その掌は男のものだった。
「……」
レオナはひどく動揺した。
しかしコンツェルン家の人間としてそれを表に出すことはなかった。唇を噛み締めてレオナは立ち上がり、荒れ果てた部屋の隅に置かれた埃だらけの姿見の前に進んだ。
「なんという醜さでしょう……!」
鏡には傷だらけの男が映った。
年はレオナと同じ程度のようだが、その体はレオナとは違う戦いに身を投じてきたものだ
例えばレオナの筋肉は見せるためのものであるため必要以上に鍛えることはなく、むしろ休ませることに重きをおく。しかしその体の筋肉は休ませることなく日夜使われているのか、ゴツゴツと大きく発達しすぎており、まるで鬼のようだ。皮膚には大小様々な傷や字がついていおり肉体労働に従じていることも一目で分かる。一番目立つ傷は顔についているものだろう。顔の中心を一文字に横切る切られたような傷跡は他のものと違い、暴力によってつけられたもののようだ。レオナはその傷をなぞってから、「おぞましい」と呟いた。
「……元の容姿が悪いわけではないというのに……何故このような醜い姿を甘んじているのでしょう……」
レオナはその肉体の表皮を撫でながら「整えさえすればこのような悪鬼の姿にはならないものを……」と呟き、それからようやく「わたくしが何故このようなものに……」と自分がその醜いものになっていることを認めた。レオナは何度かまばたきをし、それが自分であることを再確認し、部屋を見渡した。
その部屋には床に敷かれた布と、いくつかの体を鍛えるための道具、それから幼い子どものための遊び道具が散乱していた。どうやらこの悪鬼には子どもがいるらしい、どのような小鬼だろうとレオナは考えつつ、レオナはこの肉体の情報を探した。
「……これは……」
レオナは机の隅に置かれた紙を手に取った。
そこに書かれていた文字はハルババロス国古語であった。どうやらここは国内のようだとレオナはほっと息を吐き、それから自国でこのようなスラムがあることに眉をひそめる。そのような報告は受けていなかったためだ。
「……『授業参観』?」
この悪鬼の娘は学校には通えているようだった。レオナはその紙に書かれた古語を読み進め、どうやら悪鬼の娘が学校に通っている様子を保護者として監視する行事があることを理解した。
「『権現堂 友幸』」
それはどうやらこの悪鬼の名前のようだ。姓があることに安堵しつつ、しかしレオナはまた眉をひそめた。このような古語を使う一族をレオナは知らなかったためだ。
醜い言葉を使う、レオナはそう考えつつも、しかし平民よりはましだとそれを受け止めた。それから、やはり日課である紅茶を飲もうとその狭く荒れた部屋の扉に手をかける。
「……」
レオナは自分の手が震えていることを恥じた。
コンツェルン家は動じてはならない。その身分には責任がある。果たさねばならぬ責務がある。故に動揺は殺さねばならぬ。それは臣民の死に繋がるのだ。
レオナは深呼吸をしてからその部屋を出た。
――へんなにいや。
その日権現堂紗智が目を覚ますと、自分の兄である権現堂友幸は既に目を覚ましリビングで紅茶を飲んでいた。友幸は普段は牛乳ばかり飲み、カフェインを摂取することはない。さらに友幸は新聞を読みつつテレビのニュースを聞いていた。そのどちらも普段の友幸なら考えられないことだ。
彼はいつも紗智が好きだろうと牛乳をのみ、アニメ番組を流し、紗智の好きな朝食を作っていた。しかし今日の友幸は起きてきた紗智を見て「おはよう、サチィ、よく寝れたか?」と聞くこともなく、ちらりと紗智を見るだけだった。
「……にいや……」
紗智は昨日のことを思い出し『にいやにはひどいことをしてしまった』『にいやには悪気があったわけではないのに』『にいやは怒っているのだろうか』とあれこれ考えた。普段の友幸であればこのあたりで紗智の前に膝をつき「どうしたサチィ、困ってンのか?」と首をかしげただろうが、今日の友幸は紅茶を飲み、真剣な表情でここ一週間の新聞を読み込んでいた。
「……にいや、……怒ってる?」
紗智がなんとかそう言葉にする。友幸はしばらく押し黙ったあと、ふと視線をあげて紗智を見た。今日初めて兄と目が合ったことに紗智は微笑み、一方で友幸は目を丸くした。まるで初めて見る生き物を見るかのようだった。
「……にいや、どうしたの?」
「……」
「にいや?」
友幸は急に立ち上がり、そして紗智の前に立った。その瞳は平素の友幸のものと違い、まるで氷のように冷たい眼差しだった。
「痩せなさい」
友幸はトン、とそう言った。
「この体も大きすぎますが、あなたも大きすぎます。幼いときからなんという甘やかしを……」
友幸は目眩をおさえるかのように目元に手をあて、しかし覚悟を決めたように紗智を見下ろした。
「わたくしがあなたを立派な淑女にしてみせましょう」
「にいや……紗智のせいでおかしくなっちゃったの……?」
紗智は自らの失態を責めたが最早友幸は友幸であって違うものであった。この日から紗智の地獄のダイエットは始まったのだ。
練馬のヤンキーが悪役令嬢と入れ替わり! ――おまえがおれで、おれがおまえで!?―― 木村 @2335085kimula
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