ムクワレナイフ

伊織千景

ムクワレナイフ

(1)


ありえないということは、実はこの世にありえない。

地球が球体ではなくて平面だったと本気で信じていた時代があったり、勘違いで世界を巻き込む核戦争の危機が回避されたり、14個の金メダルと2つの銅メダルをたった1人で獲得した人物がいたり、74歳のおばあちゃんがホース片手にワニと対決して勝利したり。事実は小説より奇なりとはよくいったもので、それらは映画や漫画、アニメなんかの話ではなく、俺らが住んでいる現実での事だ。

だから、俺は基本的に人の話は否定しないようにしている。幽霊妖怪魑魅魍魎、奇想天外でも荒唐無稽でも否定はしない。けれど、俺が信じるのは自分自身が見たものだけ。幸か不幸か俺は前に述べたようなパンチの効いたオカルト的な現象には遭遇していない。だから否定はしないが信じてはいない。

 ところで話は変わるけど、今俺は一人の変な女によるうっかりミス(笑)で、背中に刃渡り20センチのナイフを生やし、現在進行形で幽体離脱中だ。ありえないということは、ありえない。けれど、一つ声を大にして言いたい。俺にはそれをいう権利が確実にあるはずだ。

「こんなことあってたまるかァァアアァアァア!!!」


(2)

 

「いやあ。本当に申し訳ないと思っているんですよ。」

 目の前にいる事の発端が申し訳ないと言いながら、わざとらしく自分の頭を丸帽子の上から拳で小突き、ぶりっ子宜しくウインクしながら舌を出した。事の元凶の服装は中途半端な長さのタートルネックの上に、何をトチ狂ったかわからないが、まるで振袖のような裾が目に付くベージュ色のトレンチコートを羽織っていて、靴は膝のあたりまでの長さの濃い茶色のロングブーツを履いている。呉服と洋服のアレンジを気取っているのだろうが、コートが左前になっているのがお粗末だ。お前は死人か。

それと誤解されては困るが、ここは断じてコスプレ会場などではない。ただの人通りの少ない、片道通行幅2メートルほどの街路である。そこにこの変な女と俺と俺の体(死体)が同居している訳だ。このシチュエーションの異様さを少しでも理解していただけたら幸いである。

「段差も何も無い平面でつまずいて、ポケットから仕事道具のナイフが飛び出て、慌てて手を前に出してキャッチしたら偶然前を歩いていた俺をドスン!、ねえ。まあまあ、よくあるよねそういうコト……ってあってたまるかそんな死のピタゴラスイッチぶっ飛ばすぞ!!!」

「お、ナイスノリツッコミ。目付き悪くてイカツイのに意外とノリいいですね」

「反省の念が微塵も感じられねぇな」

たしかにありえないことなんてこの世にはない。けれど限度ってものがあるだろうが。普通に歩いていて、気がついたら死んでたとかありえないだろ。こういう時こそ冷静になることが重要だと言われているが、何か普通の事を考えて落ち着きを取り戻そうにも普通な物事が周りに存在しない。ナイフ生やしてピクリともしない自分の体が目の前に有るのに落ち着けるような、そんな戦国武将のような胆力持ちあわせてはいない。しかし何かおかしい気がするのは気のせいか。

「まあまあ、一旦落ち着いてください顔怖いですよ」

 元凶女が場にそぐわないテンションで話し始めた。

「今際の際の自分を前に落ち着けたらすごいだろ」

「大丈夫ですよ。あなたは死んでなんかいませんから。ただ眠っているだけです」

「背中に大層なもん生やして確かに永眠しかけているな」

そういう意味じゃなく、と元凶女は振袖の裾から一枚の名刺を取り出して、俺に差し出してきた。

「私、こう見えて神様やらせてもらってるんですよ」


八坂神社末社刃物神社

対人営業課所属、心残り断ち切り部門 

肥後まもり ( HIGO MAMORI )


「刃物神社っていう、京都にある八坂神社の中にある神社で営業やらせてもらっていまして、今日はたまたまこっちの方に出張だったんですよ。仕事内容は主に神社のモットーである人の人生を切り開くというもので、私は主に人の報われない心、つまりは人を辛い心残りから救う分野を受け持っています。どうぞお見知りおきを」

 まるであたかも自分がちゃんとした人間であるかのように、先程とは売って変わった真面目な表情で、元凶女は自分の素性を明かした。

「神様がなんで妙ちくりんなコスプレもどきをしてんのかとか、なんで神様が名刺持っているのかとか、対人営業ってなんだよ対神営業もあんのかよとか、アルファベット表記で名前の読みが書かれているのがなんかスッゲえ腹立つとかそういうのはもう置いといて、どうすんだよこの現状。神様が人殺しかかってるぞオイ」

「だから殺してないって言っているでしょこの愚物が。私が人の報われない心を断ち切る分野を担当しているといいましたよね? あなたに今刺さっているナイフはそのための道具なんですよ」

 呼吸をするように自然な形で、接尾辞を用いた毒が飛んできた。

「このナイフは物質的なものに危害を加えることはありません。何かしら報われない事情を持った人を救うためにあるのです」

「隊長。今おもいっきり人体に損傷を与えていますが、これはどういう事でしょうかサー」

 聞く耳を持とうともせず、元凶女改め自称神の肥後まもりは続ける。

「このナイフが人に刺さると、その人物は催眠状態に陥り、報われない心だけが切り離されます。つまり、今のあなたはあなた自身の報われない心なのですよいちいち揚げ足とんなコノヤロウ」


(3)


 幸か不幸か、現在俺の足元で背中に物騒なものを生やしている俺の体はまだ死んでいないらしい。あまりに気が動転していたため気がつかなかったが、たしかに体から血が流れていない。初め感じた違和感はそれだったようだ。まあこんなことで死んで、この世に生まれ落ちて15年幾ばくの人生に幕を閉じるなんて笑いごとにもならないが。

「しかし報われてない事か。まあ特にそう言う事ないから普通に元に戻してくれねえか?」 

「え? それってどういう事ですか?」

まもりの表情が一瞬固まり、怪訝そうに聞き返した。

「いや、文字通りそのままの意味だよ。いつも出来る限り後悔はしないように生きてるし、身体も五体満足で健康。高校まで問題なく行かせてもらえるくらいの平穏無事な家庭で、小学生の頃はなんかあんまり記憶無いけど、中学生からちゃんと勉強も力を入れてまあそこそこ成果も出ている。別に報われてない事なんてないから別に断ち切ってもらう必要がない。断ち切るとかそういうのいいから戻してくれ」

 まもりは分かりやすく動揺を隠す素振りをして、しばらく考えたあと、無言で名刺を取り出した側の袖から携帯電話を取り出し、少し離れたところで誰かに電話を掛けはじめた。遠くからでもまもりがものすごい勢いで怒られているのが手に取るようにわかり、まもりは決して相手には見えない深々としたお辞儀をなんども繰り返した。戻ってくる途中、小声で「どうしよう今度は本当にクビになっちゃうかも」といっているように聞こえ、なんだか背筋に嫌な汗が滝のように流れ始めた。

「おい、本当に大丈夫だよな。ナチュラルになんかを断ち切らないと戻れる対処法が無いとか、まさかそういう事ないよな」

「だダダだ、大丈夫ダと思いマスよ。まあ心残りのない人間なんてそうそうイナいから問題がない人にこのナイフが刺さった前例がなくて、問題が解決しない限りその人が目覚めることはないなんてことはないですカラ。あと確かに私は去年入社したばかりのペーペーで、設定されたノルマをイツもこなせなくて上司の人からめっちゃ怒られていたりしマスけど、やれば出来る子だってお母さんが何時も言ってくれているノデ大丈夫デスマカセテクダサイ」

 眼球を反復横跳びさせているかのように目線を泳がせながら大量の冷や汗を流してそう言い、さらにどうしようとでも言いたげな涙目で、まもりはこちらを見つめてきた。不安以外の感情が胸から湧き出てこない。

「ェ、エエっと、たしかマずは何に対シて心残リヲ持っているかを調べなイと」

 こっちが気の毒な気分になるくらい動揺しながら、名刺を取り出した方とは逆の袖から、まもりは手帳サイズの「機密情報(秘)」と書かれたバインダーを取り出した。

 祈るようにして、まもりはバインダーのページをめくり、底に書かれていることを読み上げ始めた。

「えっと、向田向(ムコウダムク)年齢15歳。なんだか山本山みたいな名前ですね。職業高校生。金持ちとまではいかないが、そこそこ恵まれた家に生まれる。成績は県内10位を常にキープ。中学高校と陸上部に所属し、県大会で入賞経験も持つ。友人はそこそこいて、硬派なルックスから隠れファンは多い……って、てめえみたいな奴に心残りなんてあってたまるか爆発してしまえェエェええちくしょおぉぉぉおおぉx!」


 だれか聞いてほしい。なんの過失もないのに突然背後から刺され、そしてそのまま幽体離脱をし、心当たりの無い心残りを解決しないと永遠に目覚めることはないと言われ、今現在何故か自称神様女が泣きはじめたのでそれをなだめている。だれがどう考えても泣きたいのは俺の方だろう。


(4)


 何故か突然泣き出した自称神様のまもりをなだめつつ、彼女から問題の解決法について聞いてみた。簡単に説明すると、①対象の心残りを理解する。②対象の心残りを解決するため最大限の努力をする。③対象が報われて、心残りが無くなれば、問題は解決。対象は心がすっきり、まもりは無事に仕事達成。

 まもりが最初余裕ぶっていたのは、大抵の場合、人間というのはどこかしら心残りがあるらしく、ナイフで刺されても事情を話すとむしろ感謝されるという。字面でみると物騒極まりない。稀に俺のような人物がいないでもないらしいが、そのような人物には原則ナイフを刺すことはない。

 まあそういう事らしい。半分破れかぶれになりながら、まもりはなにかデータがないかバインダーを調べていた。

「あんたみたいなリア充野郎に心残りなんてあるわけないですよ。ああもう私終わったっぽいです。この終わりの見えない平成大不況の荒波に裸一貫で投げ出されてしまうの確定ですよ。もう自宅で警備員やるしかない」

 まもりはとても神様とは思えないような愚痴を垂れ流しながらも、「機密情報(秘)」と書かれたバインダーを必死にめくる。バインダーのページがめくれるにつれ、まもりの表情は焦燥、激高、消耗、諦観とコロコロ変わり、最後の1ページでその手は止まった。

「もしかして、これは……」

 顔をあげたまもりの目にはもう涙はなく、代わりに腹をくくった決意の表情があった。


(5)


 まもりはバインダーに挟まれた一枚の写真を取り出して、「この子を知っていますか?」とこちらに見せた。そこに写っていたのはどこか懐かしい気がするけれど誰か思い出せない、そんな小学生くらいの女の子が写っていた。「誰の写真だ?」と尋ねると、やはりといった顔で写真を引っ込めて、バインダーに戻した。

「正直、人が忘れたいと思っていることをほじくり返すのは趣味じゃないですが、事態が事態なので許してください」

 事態を全く理解できないが、現時点で永眠を回避するにはまもりの手を借りるしかないので黙って頷く。まもりは一呼吸置いて話を続ける。

「この子はすでにこの世にいませんが、あなたが唯一持っているであろう、とても大きな心残りに関する重要人物です。いまからこの子を私が“呼び出し”ます。色々と辛い事を思い出すかもしれませんが、許してください。そのかわり、絶対にあなたが報われるようにしますので」

 まもりの気迫に圧倒されつつ、今度は彼女の話を理解したうえで、彼女を信じて頷いた。


 まもりは女の子の写真を自分の正面に置き、その周囲になにかお寺の卒塔婆に書かれているような文字を書いて囲み、その前でお経の様な言葉をつぶやき始めた。周りは日が傾いているため、気味が悪い程の赤焼けに染まっている。まもりの横顔は先ほどまで軽口をたたいたり、涙目になって愚痴っていたりしていたそれとは違い、なんだか近づきがたく、本能的に恐ろしいと感じながらも、どこか引きつけられるものであった。ここにきて、少しだけまもりが本当に神様なのではないかという考えが頭をよぎった。 

しばらくするとまもりの呪文の様な言葉が止み、彼女はすばやく様々な印を結び、写真の前に手をかざした。張りつめた空気の中、まもりが厳粛に口を開いた。

「八坂神社末社刃物神社所属、営業課の肥後まもりと申します。そちら冥土省故人課でしょうか? 故人との面談についてご相談があるのですが、担当の方につなげて戴けないでしょうか?」

 なんか想像と違いすぎた。というかテメエ携帯持ってただろそれで話せよ。俺の胸の高鳴りを返せふざけんな。

まもりはそんな事お構いなく冥土省とやらの事務員と交渉をし始めた。最初は普通に断られていたが、まもりのプライドも恥も何もかも捨てた、必死の交渉により、なんとか許可が下りたようだった。15秒後に面会を設定しますと連絡の後、通信は途絶えた。

「ったく、冥土省の奴らはは本当に役人気質でめんどくせえですね。役人どもが安定した人生送りやがって、うらやましいですなぁコンチクショウ。」

 微妙に嫉妬が入り混じった発言を聞き取れないくらいの小声でまもりが言っていたのが気になったが、すぐにそんな事忘れるような事態が目の前で起きた。

 

 突然空から一筋の光が指し、女の子の写真に当たった。不思議とその周囲が色鮮やかになり、暖かい空気が辺りを包む。光は次第にその強さを増し、強烈な閃光を放ったため、反射的に瞳を閉じてしまった。しばらくの沈黙があり、光が収まってきたようなので、ゆっくりと目を開けた。すると目の前に、写真に写っていた女の子がそのままの姿で写真の前に立っていた。肩のあたりまで伸びた黒髪で、側面を一部編みこんでアクセントにしている。タートルネックの上にシックなワンピースを合わせた上品ないでたちをしている。女の子はこちらに気づくと、その上品な顔立ちをくしゃりとさせて笑った。

「えっと、お久しぶり、だね」

 その笑顔を、その声を聞いたその瞬間。俺は自分の忘れていた過去と、取り返しのつかない自分の過ちを思い出した。


(7)

 写真の少女の名前は神埼凪(かんざきなぎ)という名前で、小学2年生の時のクラスメイトだった。あまり活動的な女の子とは言えず、いつもクラスの端っこで本を読んでいるような子だった。当時の自分はあんまり素行のよろしい子供ではなく、いかに授業時間を先生に注意されずにアホな事をやるかとか、大人が注意するかしないかギリギリのラインで危険な遊びをするというくだらない事に全身全霊をかけていた。正直いうと、あまり神埼とは接点がなく、一緒のクラスにいたのに、しばらくまともに話す事はあまりなかった。

 ある日、神埼と二人きりで放課後の教室に居残りをした事があった。俺は授業中にヘリウムを吸った状態で先生に質問をして、クラスメイトの腹筋を崩壊させて授業も崩壊させた罰としての居残りだった。だが、神埼はたしか学級新聞の編集作業をしていただけで、俺と違って自主的な居残りだった。当時不真面目の事例を辞書に載せるなら間違いなく写真付きで載っていたであろう俺は、罰である漢字ドリルを始めて5秒もたたないうちに自力で解く事を諦め、答えを聞くためだけに、その時初めて神埼に話しかけた。

 神崎とはそれ以来、そこそこ話をする間柄になり、俺はいち小学生男子が体験した、脚色込みのしょうもない冒険譚を披露し、神埼は自分が呼んだ面白い本の話なんかを教えてくれたりした。小学生らしく、特にマセた進展などあるはずもなく、小学校に入ってから2回目の夏休みが始まろうとしていた。

 夏休み前の終業式、つまり、脳内の99パーセントが遊ぶ事で占められている小学生たちにとっての極上の一カ月が始まる前の前夜祭の日。浮かれに浮かれていた俺は、つるんでいた悪友と周りの大人が出入り禁止にしている裏山で、いかに冒険の限りを尽くすかという、本当にしょうもない構想を練りに練っていた。途中神崎が何かを言いたげにこちらを見たが、計画を練る事に対して俺も悪友たちもあまりに熱心だったため、結局神埼にその視線の真意を尋ねる事は出来なかった。裏山は確かに野犬が出没したり、未整備の急な崖などが多く、子供の遊び場としては少々危険な場所であった。しかし、悪友や自分はそこそこ運動神経もあり、危険な事に対して在る程度の対応の力もあると自負していたため、そこまで危険であるとは感じていなかった。そうしているうちに終業式は終わり、夏休みに突入してからは、俺と悪友たちは始業式まで狂ったように遊び呆けていた。多少危ない真似はしたが、幸い大事には至らなかった。


そして始業式、俺は神崎が裏山で崖から落ちて死んだ事を知った。


 

「……向田君、全然遊びに誘ってくれなかったでしょ? 連絡先も知らなかったし、会いたいけどどうしようかなと思ってたら終業式の事思い出したんだ。裏山に行けば会えるかなって思って、でも私、ドジだから途中で崖に落ちちゃって……我ながらどんくさい最後だよね」

 神埼凪は当時の姿のままで、当時の笑顔のままで俺にそう言った。俺があの時あんな話をしていなければ、俺があの時一言言って、神埼と一緒に遊ぶ予定を立てていれば、そもそも最初に話したあの日、あいつに話しかけてさえいなければ、もしかしたらこいつは崖から落ちるなんて事もなく、平穏無事に人生を過ごして高校生になっていたかもしれない。そう思うと、どうしようもなく、やりきれない気持ちになった。そして、そんな大切な事をついさっきで俺は都合よく忘れていた。そんな自分がどうしようもなく許せなかった。胸が繰り返す自責の念で締め付けられ、神埼の顔も、まともに見ることはできなかった。沈黙がまるで自分を押しつぶそうとしているような感覚に襲われる。なにか神崎に言いたいけれど、いまさら何を言っても償える気がしなくて、口を開いても言葉も声も出てこない。神崎に謝らなくてはいけない。けれど、なんて謝ればいい?

「向田君。ごめんね。それと、ありがとう」

 予想外の神埼の言葉に、俺は顔を上げた。神埼はふるふると身体を震わせ、今にも泣きそうな笑顔でそういった。

「あの時の私ね、引っ込み思案で友達できなくて、クラスにとっても居づらくてすごい寂しかったの。気分を紛らわすために本読んでるふりをしたり、学級新聞とか作ったりしていたんだけど、ある日向田君が話しかけてきてくれて、本当にうれしかった。向田君はいつも面白い話をしてくれたし、私の話もちゃんと聞いてくれた。向田君は全然そんな気はなかったと思うけど、私はあの時本当に救われたんだよ? でも、結局あんなことになっちゃった。自分のせいだから死んじゃったのはしょうがないけど、向田君が本当に辛そうにしていたのがあの時見えて、私天国の人に頼んで向田君の中にある私の記憶を忘れるようにしてもらったの。勝手にこんなことしてごめんね。私のせいで辛い思いさせて、ごめんね」

 神崎の瞳から一筋の涙がこぼれた。神崎は俺のことを責めるどころか、俺が自責の念から自暴自棄になることから守ってくれていた。そんな恩人が今眼の前で泣いている。今の自分がすべきことは一体何か。そんなこと、小学生だった時の馬鹿な自分ですらわかるだろう。俺は涙を流す神崎の手を取り、その前で片膝をついて口を開いた。

「感謝の言葉を言わないといけないのは俺の方だ。救ってもらったのも俺の方だ。守ってくれてありがとう。許してくれてありがとう。ありがとうなんて言葉じゃたりないから、俺は一生かかってもお前の優しさに報いようと思うよ」


 神崎は何も言わず、ただあの時のあの笑顔のまま、ゆっくりと透明になっていった。なんとかしてそれを止めようとしたが、俺の意識は突然襲ってきた強烈な睡魔によって、無常にも刈り取られてしまった。


(8)


 目が覚めるとすでに辺りは暗く、目の前には塀や電柱で不恰好に切り取られた狭い夜空が広がっていた。体の節々が悲鳴を上げていて、まるで全力で運動した翌日の筋肉痛のようだった。

「よかった。戻れたみたいですね」

 ふと狭い空をまもりの顔が覆った。その顔は儀式の時の面影はまるでなく、最初あったときの憎たらしい笑顔だった。

「無事に未練も晴らすことが出来て、あなたは過去の過ちを乗り越えた上に元の体に戻れて、私はなんとかクビにならずに済みそうです。これはただしくまさしくはっぴーえんどってやつですね」

「結果以外は最悪以外のなにものでもないけどな」

 ジロジロと人の顔を見て、なにか言いたげにまもりは笑う。なんだか訳もなく腹がたったので、全く決まっていないアームロックを大げさにしかけたりした。反撃に肘鉄をみぞおちに食らってしばらく悶え苦しんだ。

「人生何が起きるかわかりませんよ。遊び半分で国会に作文送ってみたら議員になってしまったり、マネージャーの勉強しようと思ってドラッガーの本買っちゃって甲子園にいっちゃったり、普通に歩いていただけなのに背後からナイフが刺さって幽体離脱っちゃったり、就職活動中に死んで、なぜか神様から内定貰えちゃったり、もはやなんでもありです。「事実は小説より奇なり」っていいますけど、小説家も馬鹿らしくなって書こうとしないですよ、こんな話」

「なんか後半が色々おかしい気がするがそうだな」

「その瞬間では失敗に見えることだって、長い目で見れば成功だったってことはザラです。どんなに今が楽しくても、それがずっと続くことなんて無いし、逆もまたしかりです。今どんなに辛くても、どうしようもなく思えても、投げ出さずに生きていけばなんとかなるチャンスはやってくるし、投げ出した所でなにも解決はしないです。死んだら死んだで幽霊になるだけですしねぇ」

 まもりは頭にかぶっている丸っこい黒の帽子をゆっくりと脱いだ。彼女の頭には、よく漫画や映画とかで見る、白の三角頭巾を付けていた。

「ま、向田さんなら大丈夫でしょ。リア充過ぎて自殺なんて考えないでしょうし、何より幸運の女神さまがついてらっしゃる」

「クサいこと言ってないでさっさと成仏しやがれコノヤロウ」

「あらやだ恥ずかしがらなくてもいいんですよ。アレですね、向田さんってツンデレですよね。男のツンデレって人気ありますよ。色々と腐っている人たちから」

 なにかものすごい嫌な寒気を感じた気がした。

「それでは私はそろそろお暇しますね。色々とありましたが、まあ結果オーライということでどうかよろしく~ネ☆」

 「よろしくネ」のネの発音と同時に、ドロンと言う音と煙が勢い良く立ち込めた。「いつの時代の忍者だよ!」というツッコミに対する反応はなく、煙が消えた後、まもりが立っていた場所には一枚の写真だけが残っていた。その写真は、多分一生忘れることのない、俺の幸運の女神さまが笑顔でこちらを見ていた


(9)


「肥後まもり、初仕事の上、中々困難な事例をよく成し遂げた。上司の私も鼻が高いよ……とでも言うと思ったかバカタレ!」

 得意げな顔で報告していたまもりの頭に、刃物神社営業部長の神の鉄槌が振り下ろされた。

「ぶ、ブチョウ! ちょっとくらい褒めてくれてもいいじゃないですか! 私だって頑張ったんですよ!」

「無関係の人間巻き込んでなにが頑張っただボケ! さっさとまともに使える人間になりやがれっつうんだよ!」

 刃物神社営業部長による、まもりに対する激高はこの後24時間ぶっ続けで執り行なわれ、刃物神社が創社されて以来最長の説教を受けた伝説の人物として、まもりの名前はその業界で広く知れ渡ったという。


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ムクワレナイフ 伊織千景 @iorichikage

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