第5話

「それでは……」

 酒と料理が運ばれてきて、彼女はグラスを高々と掲げて停止した。

「何に乾杯しましょうか」

「……僕の正社員決定とか?」

「そうですね」


 それでは、と彼女は仕切り直して僕のグラスに自分のグラスをぶつけた。

 何だかおしゃれな名前の飲み慣れないカクテルを飲み込んで、僕はポテトに手を伸ばした。


「それで、氷室さんはどうするんですか」

「小説家になる夢は諦めようと思うんだ」

「小説を書いていたんですね」

「あぁ、言ってなかったね。うん、僕はね小説家になりたかったんだ」


 吐き出すと、存外楽になった。前までは笑われるかもしれないなんて思っていたけど、冷静になって考えてみれば彼女は笑うような子じゃ無い。

 小説家を諦めて、半日ばかりしか経っていないのに随分と思考がフラットになったと思う。重い重い思いを下ろしたおかげかもしれない。


「高校生かな、もっと前だったかもしれない。小説家になるんだって決めて家を出たんだ。家族の反対を押し切ってね、家出みたいなもんだった」


 それから、祖母の知り合いが安くで広い今の家を貸してくれた。彼女ができて同棲を始めて、バイトにも慣れた。

 小説を書くのはキツかったし辛かったけど書きあげた喜びがあった。そのたびに落選する絶望を知った。面白いものを探して、設定を練る。文章を考えて、展開を夢想する。現実にはありもしないものに心血を注いで時間を割いた。でも、結果という現実は想像以上に残酷だった。


 苛立ちが募って行く、何が面白いのかわからなくなって行く。

 いくらいい材料を用意して、素晴らしいレシピを編み出しても調理ができない、調理したとしてもその料理は食べられることなく『廃棄』の印鑑を押されて日の目を見ずに消えて行く。

 いつしか好きだった小説さえ読むのが苦痛になっていった『面白い』ことがまるで拷問のように自分自身を苦しめる。それでも取り憑かれたみたいにキーボードを叩き続けた。いつしかウイスキーみたいに濃ゆかったはずの情熱は炭酸水を入れたハイボールみたいに薄く薄くなって行く。それと反比例して苛立ちや恐怖が募っていった。


 少しして「もう付き合いきれない」と彼女は家を出て行った。そんなことがあっても僕は小説を書き続けた、もう戻れないから、戻る道なんて分からなかったから。

 ありとあらゆる幸せなんかを放り投げて今更もう諦められない、放り出せない。だって、そうだろう? そこで諦めてしまってはこの数年間に何の意味もなかったということになる、それではあまりにも報われない、それではあまりにも馬鹿みたいだ。


「だから」

 

 だから、僕は。

 しがみついて書き続けた。

 蒼く深い海に足が付かないのをわかっていて、それでも進んでいる気分だ、入水自殺と変わらない。

 地面を這いずって苦痛に耐えて書き続けて、青いまま腐って行く自分自身を止めることができなかった。


「もう、これでいいと思ったんだ」


 あまりにも救いようが無い物語だったけれど、最後の最後で僕はやっと自分のための自分だけに物語を書き上げたのだから。


「後悔はあるよ、でもねこれ以上続けたら本当に壊れてしまうと思ったんだ」


 夢を持つことは素晴らしいと、努力は報われると、ほんの一握りの彼等は笑いながら言う。

 ふざけるな、そんなもん嘘っぱちだ。

 夢を持って、それを追って、深い傷を負った。

 夢を叶える人の裏で、夢に殺される人もいる。


「支配人に聞いたんだ、君も僕や支配人と同じだって」

「えぇ、はい」

「言われたよ支配人に、諦めるのは君の話を聞いてからでも遅く無いって。だから、聞かせて欲しい君の話を」


 長い長い独白を終わらせて、喉を潤すようにアルコールを流しこんだ。目の前のポテトはすっかり冷たくなっていて、何だか死体みたいだと思った。


「私は、役者になりたいんです。氷室さんと一緒ですよ、夢を追って親の反対押し切ってここにきました、バイトをしながら舞台の稽古をしてオーディションとか受けてます」

「そうなんだ」

「役者と言っても素人に毛が生えた程度です、私より上手い人なんてザラにいます、私よりも年下なのに私よりも上手い子がいて、その度に傷ついてムシャクシャしてお酒を飲みます」


 彼女はそう言うと、グラスの中のビールを身体に流し込む。


「自分の理想と実際の自分の演技の差が酷くて死にたくなる夜もあります。役者をするからにはいい役をもらいたくて必死に頑張っても落ちたり、脇役だったりで凹みます」


 彼女は心情を吐露しながらも、その声に悲壮感などはカケラもなかった。


「でも、どんな脇役でもいざ舞台の上に立って演じたら楽しいし嬉しです。お客さんに見てもらうのも大事ですけど、結局のところ自己満足で。でも、その自己満足が誰かに評価されたらたまらなく嬉しんです。それが例え酷評であっても」

「すごいね、君は」

「すごく無いですよ。私だって氷室さんと大して変わりません」


 彼女はそう言うと、冷めたポテトを口の中に放り込んで咀嚼する。私もポテトに手を伸ばしながら彼女の言葉の続きをまった。


「飽き性で、無愛想な人間なんですよ私」

「飽き性は知らないけれど、無愛想はわかる」

「あ、ひどい傷つきました。残りのポテトはもらいます」


 酔っているのかふわふわと浮いた声でそう言って、ポテトの皿を抱え込む。僕は「どうぞ」と呟いて、きたばかりのアヒージョに手を伸ばした。


「何にも続かないで、夢もなかったんです。でも、中学の時にクラスで小さな劇をすることになったんですよ。たまたま脇役だけど出番のある役を押し付けられて、生まれて初めて演技をしました」


 思い出しているのか、どこか懐かしそうな顔をしながら、彼女は語る。


「それまでうまく笑えなかったんですよ私、どうしても変な引きつったみたいな笑い方になっちゃって、それがずっと嫌でした。私のやる役は笑顔のシーンが多くて、不安でたまりませんでした『笑われたらどうしよう』『馬鹿にされたらどうしよう』そんなことを考えたりもしました。でも、本番になって演技したら、みんなに褒めてもらえたんです」


 そう言って無邪気に破顔する。そこには過去の彼女の面影はないように思えた。


「生まれて初めて『笑顔が素敵だ』って言われました。それが嬉しくって、忘れられなくて私は役者になることを決めたんです。自分以外の何かを演じている間は上手く素敵に笑えるから」

「今はもう笑えてるね」

「えぇ、はい。今はもう笑えます」


 そう言うと彼女はアヒージョに手を伸ばす、オリーブオイルに浸ったエビをフォークで突き刺して頬張った。


「気づいた時には氷室さんと同じで引き返せないところまで来てました。あぁ、このまま芽が出ないまま、日の目を見ないまま終わるのかなんて思った日は眠れませんでした。怖くて、悲しくて」


 その苦悩には心当たりしかない、僕もそうだから。


「でも、思ったんです私。もう、引き返せないところに来てしまったなら、とりあえず足が動く限り進んでみようって。そう思って周りを見たら私の周りそんな人ばかりでした、みんな何かしらの苦悩とか葛藤とか抱えながら進んでるんだって」

「だから君も進むの?」

「はい」

「怖くない?」

「怖いですよ、怖いですよそりゃ。でも、私にはこれしかないから、それを失った後の私を想像する方が怖いです」

「……」

「思ってるより、きっと私たちの先は長いです。なら、叶いっこない夢を掲げて歩いても別にいいでしょう」

「そうかもね」

「それを貴方は、馬鹿だと……能天気だと笑いますか?」


 彼女の真剣な顔に気圧される。

 笑えない、笑えるはずもない。


「ううん、笑わないよ」

「良かった、笑われたらぶん殴って出てました」

「うわー、良かった」


 彼女は引き返せないところまで来たから、そのまま進むことを決めた。

 僕は引き返せないところまで来て、在りし日の情景に思いを馳せて、たらればを慮って動けなくなった。


 あぁ、確かに僕と彼女は違うな。根っこは同じかもしれないけれど、歩んできた道があまりにも違う。

 青を恐れて雲に隠れて歩んだ僕と、青を恐れずに真ん中を歩んだ彼女とでは覚悟や決意が違うのだ。


「青いまんまでいいのかな」

「いいでんすよ、まだ青いまんまで」

「本当に?」

「えぇ、青臭く泥臭くいきましょう。私も貴方もきっと熟すのには時間が掛かるんですから」


 ぶっきらぼうに彼女が言った。

 かもしれないと彼女の言葉に同意して私は笑った。


 そうして暫くチマチマ飲み食いして、彼女といろいろなことを語り合っているとラストオーダーを店員が告げたので私は支払いを済ませて彼女と共に外に出た。


「いやー、飲み足りないですね」

「そうだね、話ばかりであんまり飲まなかったしね」

「氷室さん、明日休みですか?」

「うん、今日を含めて二連休だから」

「そうですか、それはちょうどいいですね。二軒目行きましょう」

「いや、この時間だし空いてる店少ないんじゃない? それに灯ちゃん終電は?」

「とっくのとうに過ぎてますよ」

「何で言わないかなぁ」

「私今日は朝までコースの予定なので、明日休みですし」

「えぇー、僕何も聞いてないんだけど」

「えぇ、何も言ってないですから」


 どこかの支配人みたいな顔して彼女が笑った、少し前まで無愛想で無表情な女の子だと思ってたけど、こうして見ていれば表情が豊かな可愛い子だった。


「どこに行こうか」

「氷室さんの家、広いんですよね」

「片付けてないから嫌だ」

「えぇー」

「距離の詰め方が尋常じゃないね、驚きだよ」

「私はずっと前から氷室さんともっと仲良くしたかったですけど。少し前までの氷室さんは壁があるって言うか、距離を詰められない感じだったので」

「そうかな」


 多分そうなんだろうな、僕はきっと無意識のうちに彼女に踏み込まれることを拒んでいたのかもしれない。

 怖かったから、自分が醜くて小さな人間だとバレるのが嫌だったのだ。


「えぇ、ですから少し嬉しんです」


 僕の後ろをついてきながら、彼女が笑う。


「お互いみっともない腹の中を見せ合って、やっと本当の意味で仲良くなれますね」

「意外と口が悪いね君も」

「こんなもんですよ」

「そうかい」


 彼女は私を追い越して振り返る。


「氷室さんの家、みたいです。あと、私氷室さんの小説読みたいです」

「……うん、ありがとう。それは、嬉しいな」


 僕はそう言って立ち止まり、路上の端の喫煙所で煙草を取り出して火をつけた。彼女は僕の隣に来て、煙草を吸い終わるまで待ってくれるようだ。


「初めまして、氷室です。小説家に……なりたいかもしれません」


 僕が徐にそう言うと、きょとんとした後に言葉の意味を理解して僕の方に向き直って彼女が口を開いた。


「初めまして、灯です。私はプロの役者になりたいです」


 煙草の紫煙が空中に舞って、停滞していた時間がようやく動き出した気がする。

 物の見方が変われば、きっと味方が増える。

 自分一人では動かないものも、きっと誰かと一緒なら驚くぐらい簡単に解決するのかもしれない。柄にもなくそんなことを考えながら碧い夜空に煙を浮かべた。


 ・・・


 隣で、一枚また一枚紙がめくれる音がする。

 僕はなんだかいたたまれなくなって、顔を押さえたり動き回ったりする。

 その間も彼女はジッと動かずに、僕の書いた小説を世も続けた。久しぶりに誰かに小説を読まれている、この妙な胸のザワザワの理由がわからない。

 自分な書いた物語を反芻しながら、どんな内容だったか、誤字はないかなどを考えているうちに彼女は小説を読み終えてポツリと言葉を吐き出した。


「面白かったです。本当にお世辞抜きで」

「……」


 僕はその場に蹲って、胸の奥から湧き上がる正体不明の感情にもがき苦しんでジタバタした。


「うわ、怖い、暴れ出した」

「いや、ごめん嬉しくて」

「他のは正直面白くなかったです。でも、えぇ、氷室さんが昨日書き上げたと言うこの小説は本当に面白いと思いました」


 あぁ、そうだった。

 始まりは彼女と同じなんだ僕も、きっかけは忘れてしまったけど、僕も文章を書くことで誰かに認められて、そうして僕自身もそれに魅せられた。

 バラバラだってパズルのピースが少しずつハマっていって、胸の奥にあった薄暗い何かが取れた。僕はただ、誰かに自分の書いたものを認められたかっただけなのだ。


「ありがとう」

「お礼を言われることなんて何も、私は面白いものを面白いって言っただけですから」


 彼女は私の書いた紙の束を宝物のように抱きしめて、コンビニで買ってた酒の缶を指差した。


「さ、飲みましょう氷室さん。貴方のことを教えてください」


 彼女は楽しそうに言って、花のような笑顔を僕に向けた。


 ・・・

























エピローグ



 あの、夜からもう二年ほどの時間が流れた。

 僕は目覚ましを止めて、顔を洗って朝食の準備を始める。

 正社員になって増えた仕事と責任にも何とかなれてきた頃合いだ、最近はそれなりにうまくやってる。


 一年前まで寂しいぐらいに広かった家は、今は少し手狭に感じる。転がり込むように同居人が一人増えたせいだ。

 目覚ましのサイレンが鳴り出しても、件の同居人は一向に起きる気配がない。誰かに起こしてもらえないと起きられないのは本当だった。眠りこける同居人の頭を引っ叩いて「顔を洗って朝食にしよう」と告げると生きているのか死んでいるのか微妙な低い声でモゾモゾと「あーい」と返事をした。

 同居人が覚醒するまでの猶予で、私はベランダに出て煙草に火をつける。最近ではあんまり煙草を吸わなくなった、馬鹿みたいな値上がりが禁煙の理由の大半である。


 飴細工みたいな青い空に向けて紫煙を吐き出して、ようやく一日を始める。

 空は、驚くぐらいに晴れている。

 雲の一つもない、隠れるところが見当たらない青空だった。だけどもう、僕に隠れるところはいらなかった。 

 同居人を見習って、僕も青空の真ん中を進むことにしたのだ。


「いい天気ですね」

「そうだね」


 煙草の火を消して室内に入る。

 部屋に入ると僕の煙の匂いをかき消すようなトーストの匂いと、コーヒの香りが部屋には広がっていた。


「楽しみですか?」

「怖さと楽しみが半々かな」

「でも、今日は驚くくらいに快晴です」

「そうだね」

「なのできっと、大丈夫ですよ」


 そう言われて僕は笑顔を漏らす。

 一年前ならば、きっとガクブルに震えていたことだろう、一年で少しばかりメンタルが強くなった。


「すぐ連絡ください。結果が良かったら死ぬほど酒を飲みましょう」

「悪かったら?」

「忘れるために酒ですね」

「選択肢はひとつだね。楽しみにしとく」

「えぇ、楽しみにしといてください」

「いってらっしゃい、灯」


 朝食を食べ終えて、仕事に向かう彼女の背中を見送った。玄関を出る前に『ファイトです』と言われたが、今更何を頑張ればいいのだろうか。もうとっくに小説は書き上げてしまってる。

 人事を尽くして天命を待つとは昔の人は上手いことを言ったものだ、今の僕にはそれぐらいでちょうどいい。尽くすだけの人事は尽くしたと信じたい。

 べランダに出て、浮つく気持ちを抑えるように二本目の煙草を咥えた。


 今日は新人賞の最終選考の結果発表だ。

 ポケットのスマホが音を立てて震えた。


「はい、氷室です……」


 ・・・


 青空が嫌いだった 

 今は、もう言うほど嫌いではない。青いままでもいいと肯定してくれる人がいるから。先の見えない場所まで共に歩く人を見つけたから。

 きっと少しずつ熟れていく、ゆっくりとゆっくりと時間をかけて青い僕は赤く熟していくのだろう。

 だから、青空を少しばかり好きになった。


 熟すのに太陽は必要不可欠だから。

 だからもう僕は大丈夫だと胸を張って言えるのだ、青いままでも大丈夫だと。



                                   了

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BLUE 檜木 海月 @karin22

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