第4話

 家の中で長いこと埃を被っていたプリンターを叩き起こして書き終えた小説を印刷した。あれからラストスパートをかけて夕方前にはなんとか終わった。

 ガタガタと不気味で不安な音を立てて印刷して行くプリンターを眺めながら、ソレが本当の意味で形を得た物語になるのを待っている。最後のページを印刷し終えたプリンターは眠るように息を潜めた。僕は印刷された数十枚の紙の束に一枚一枚目を通して行く。


 その物語の中には、確かに僕がいた。

 ウダウダ言って、迷ってばかりで。


「ははっ」


 気がつけばもう世間は夜だった、ゆっくりと噛み締めるように最後の物語を読み終えて僕は一つの決断をした。


「行くか」


 ボサボサの髪を撫でつけて涼しい夜の街に繰り出した、確か今日は閉め作業は支配人だった。


・・・


 久しぶりにこの時間に仕事からの帰宅以外で外に出ている、いつもは下を向いて歩いているから分からなったが街は僕が思っていたよりも存外綺麗で驚いた、

本当に僕は知っているようで知らないことが多い。

 店じまい前のペットショップの窓から中を除けば、あの子犬はどうやら飼い主が決まったようでケージは空になっていた、いつもなら犬でさえ先行きが決まっているというのに、と自虐でも織り交ぜて笑うところだが今日はそんな気分じゃなかった。


 暗くなった映画館というのは趣がある、まるで放課後の学校見たい哀愁があって酷く懐かしくて切ない気分になるのだ。

 裏口の扉をあけて事務所に入る、支配人はまだ館内にいるようで荷物がポンっと置かれていた。


「支配人」

「ん……? あぁ、氷室君! どうしたんだい、休みだろう今日」

「そうなんですけど、速い方がいいと思って」


 僕がそこまでいうと、支配人は察したようで少し顎に手を当てて考えて、悪戯っ子みたいな顔で笑う。


「時間あるかい?」

「え、あ、はい」

「じゃあ、映画でも見ようか」

「はい……はい?」



 閉館後の映画館で映画を見るというのは、数年映画館に努めていたが初めての経験で少しワクワクした。


「何だかワクワクします」

「ふふふ! そうだろう、そうだろう」


 支配人は楽しそうにそう言って笑うと僕の隣に腰掛けた、すぐに映画が始まる。有名な長編映画でもなんでもない、ショートフィルム。

 見たこともない俳優たちが演技する、サイレント映画というやつらしく一言も言葉を喋らないのに不思議と内容の理解はできた。


「面白いかい?」

「面白くないです」

「だよねー、何度見ても面白くないんだなコレが」

「じゃあ、なんで見せたんですか」


 笑いながらそういった。

 本当に面白くない映画、何が伝えたいか分からない。物語は意味不明だし、役者もなんか下手くそだ。

 それでもなんだか、僕は嫌いになれない。


「いつもと違ってさ、真面目な話は照れるだろ? だからね、こんなつまらない映画を流したんだよ」


 僕は静かに支配人に向けて言葉を吐いた。


「正社員の話、受けようと思います。こんな僕でいいのなら、コレからもよろしくお願いします」

「うん、分かった。契約書だとかはまた後日にしよう」


 支配人はそういうと、短く浅い息を吐いて僕の顔を覗き込んだ。 


「ここからは君の話をしようか氷室君。君はどうするつもりなのかな?」


 僕は少し黙ってから、用意した答えを告げる。


「小説家になる夢は、諦めようと思います」

「正社員になるからかい」

「まぁ正直、それを言い訳にするつもりでしたけど今は違います」


 僕は体勢を前屈みにして、祈るように頭を地面に向けた。


「昨日、一年ぶりぐらいに小説が書けたんです。生まれて初めて、小説を書くのが楽しいって感じました」

「……」

「だから、最後にしようって思ったんです。どうせなら、最後は楽しい記憶のまま終わらせたいんです。もう、書けもしない物語を夢想するのも、読まれもしない話を書き続けるのも、叶うあてがない夢を追うのも疲れてしまいました」


 小説は好きだった、小説を読むのが好きだった。

 でも、もう今はそれすらも純粋に楽しめない。キツくて苦しいと感じてしまう、もうこれ以上好きなものを嫌いになりたくはない、憧れたものに絶望を見たくない。小説を書いてて楽しいことなんて一度もなかった、読まれることもない小説を馬鹿みたいに書き続けて、書き続けて、書き続けて……手元に残るのはなんの価値も無くなってしまった文字列と、落選の通知だけ。


 だから、コレでいいのだ。

 最後に生まれて初めて自分だけの小説を書いた、夢も何も関係ないエゴを書いた。それで良かったのだ、初めからきっと。


「もう、潮時なんですよここら辺が」

「諦めるのかい」

「はい、勇気ある撤退ってやつです」


 ショートフィルムは想像以上の短さで、話に夢中になっている間に気がつけば終わっていた。

 サイレント映画でも、終わった後にはあの不思議な静けさを感じてしまうのは何だか不思議だなぁなんて思った。


「君が考えて、答えを出したなら止める権利はないね」


 寂しそうにはにかみながら、支配人はスクリーンを指差した。


「さっきの映画、面白くなかっただろう」

「……はい」

「あれはね、私が作ったんだよ」

「え? あ、すいません、僕」

「いいんだ、謝らないで、今自分でもう一回見ても全然面白くないんだからコレ」


 支配人はそういうと、立ち上がってスクリーンの方に歩いて行く。


「本当はね、映画監督になりたかったんだ」

「そうなんですか?」

「うん、若い頃だけどね。僕も氷室君みたいに夢があって、追いかけて、そうしてそれを諦めた。でもやっぱり映画が好きでね、こうなったんだ」

「……意外でした」

「そうだろう? 君を含めてこの話を知ってるのは二人だけなんだ。君と灯ちゃん」


 支配人は心なしかなんだか楽しそうだった。


「僕はね、君の気持ちも少しわかるんだよ。だから、諦めるべきじゃない何て綺麗事を吐くつもりも毛頭ない。努力して夢が叶うのなら、みんななりたい自分になれているからね」


 支配人の言葉には不思議な重さがあった、ずっしりと胸の内に響く感じだ。


「でもね、氷室君。君が思っているよりも、君が生きる人生は長いよ」

「……」

「だから終わらせる前に、灯ちゃんと少し話してみるといい」

「灯ちゃんとですか?」


 思わず昨日の会話が頭をよぎって死にたくなる。


「うん、彼女もね。僕や君と同じなんだよ、でも僕や君とはちょっぴり違うんだ」

「でも……」

「別に諦めるのに今日も明日も違いはないだろう? なら、彼女と話をした後でも遅くはないと僕は思うよ」

「……そうですね」

「というわけで、ジジイのお節介は終わりだ。シフトでもないのに長い時間悪かったね」

「ありがとうございました、支配人」

「うん。気をつけてね」


 劇場の出口に手をかけて、僕は振り返った。


「支配人」

「ん?」

「なんで、そんなに親身になってくれるんですか?」


 素朴な疑問だった、支配人はみんなに優しい人だが僕や彼女に向ける優しさや眼差しは他の人のものとは違う気がする。


「僕が君のファンだからだよ」

「え?」

「君が一度だけ僕に見せてくれただろ、小説」


 そう言われて、僕はこの映画館で働き出した頃のことを思い出した。そう言えば、一度だけ支配人に小説を読んでもらったことがあった。


「僕は、好きだったよ君の小説。お世辞にも面白くはなかったけどね、それでも良いと思えたんだ」


 その言葉を聞いて、胸の奥底に巣食う何かが少しだけ取れて行く気がした。あぁ、単純だけど、これが真理だった。

 僕は誰かに読んで欲しかったのだ

 僕は誰かに認められたかったのだ。


「ありがとうございます」


 僕は随分と久しぶりに自然と笑顔を繰り出して、劇場の扉に手をかけた。


「支配人の映画も、面白くなかったですけど僕は凄く好きですよ」

「ふふっ、ありがとう」


 子供みたいに笑う支配人に別れを告げて、僕は映画館を後にした。


 ・・・


「先は長いね……」


 映画館の外に出て、路上の端っこで煙草に火をつけて紫煙を吐き出した。

 支配人の言葉に流されやすい僕の決心がグラグラと揺らぐのを感じていた、諦めていたはずなのに、やっぱりまだ完全に諦め切れてはいないのだ。


「路上喫煙ですか」


 考え込む僕にそんな言葉がかかって体が僅かに震えた、婦警さんか誰かに見つかったのかと恐る恐る体を声のほうに向けると、いつも以上に表情の死んだ灯ちゃんが立っていた。


「え、あ、うん」


 気まずさやら何やら混沌とした感情が湧き上がってきて、煙草を加えたまんま空返事をした。


「せめて、裏口で吸ってくださいよ」

「え、あぁそうだよね! ごめんごめん」


 携帯灰皿に吸い始めたばかりのまだ長い煙草を少しばかり惜しみながら捨てて、慌てて彼女に向き直る。


「それで、灯ちゃんは何をしてるの? シフト上がってるはずでしょ?」


 スマホに入ってるシフト表を確認して、わざわざ時間をずらして来たんだから間違いない。何だかストーカじみている気がしないでも無いが気にしたら負けだ。


「……駅に行ったら、定期券忘れてることに気がついて戻ってきました」


 若干恥ずかしそうにそう言って、灯ちゃんが僕に視線を向けた。喋らないけど「お前こそ何してんだよ」みたいな感じが伝わってきた。


「僕は正社員の話をね」


 ゴニョゴニョと呟くと、すぐさま彼女の返答が返ってくる。 


「どうするんですか」

「受けるよ、もちろん」

「そっちじゃ無いです」

「じゃあどっちだろうね、あっちかな」

「……」

「あぁ分かったごめん、悪かったよ。照れ臭くて」

「氷室さんって思ったより、いい性格してますね」

「存外、僕はこんなもんだよ」

「そうかもしれないですね」


 彼女はうっすらと笑いながら、僕の横を通り過ぎていく。当たり前だ、彼女は忘れ物を取りにきただけなんだから、ここに止まる理由もない、ここに彼女をつなぎ止めておく理由も僕には無い。


 だけど、何故だろうか。僕はまだ彼女と話していたいと思った、昨日あんな醜態を晒しておいて、それでもなお、僕は。


「あの、灯ちゃん」

「はい?」


 彼女が振り返る。

 必要な言葉を探し続ける、小説なんて書いてたくせにこんな時に気の利いたセリフや言葉が出てこない。だから、気取らないでカッコつけないで、僕はそのままの言葉を吐き出した。


「この後時間ある? 聞いてほしいんだ、僕のことを。そして、聞かせて欲しい君のことを」


 僕がそういうと、彼女は驚いた顔をしてすぐにフッと笑ってそのまま裏口の方に消えていった。


「……まぁ、そうなるか」


 あれではヤバくてキモいやつのナンパだ、全体的に主語がない。

 その場に頭を抱えて蹲ると、僕の隣を彼女がサラリと通り過ぎる。


「何してるんですか、氷室さん」


 彼女が心底楽しいと言わんばかりに笑いながら僕の名前を呼んだ。


「早く行きますよ、言っときますけどおごりですからね。この前の子犬の口止め料です」


 あぁ、そう言えばそんな約束してたっけな。

 頭をかいて、勢いよく立ち上がる。


「……うん、行こうか!」


 僕は彼女の後に続いて雑踏に躍り出る。

 前を行く彼女の背中をぼんやりと見つめながら、何となく彼女と初めて会った時のことを思い出していた。

 無愛想な子だと思った、怖そうだなぁなんて思った。


「どこ行きましょうか」

「……変わったね」

「はい?」


 変わってなんか無いと知りながら、僕はそんな言葉を吐き出した。変わったのではなくて、きっと彼女は初めからこんな人間だったのだ。

 僕はそれを知らなくて、最近になってようやく知った。

 だから、変わったのは君ではなくて僕なんだと心中で勝手に独言た。


「聞いてます?」

「聞いてないね」

「どこに行きましょう」

「安いとこならどこでも」

「焼肉にしましょうか、叙々苑」

「話聞こえてなかったのかなぁ? それとも無視してるのかなぁ?」 

「無視したのは氷室さんが先ですからね」

「それを言われちゃお終いだね」

「まだ続きますよ、店に入ってからが本番なんですから」

「準備運動からえらくハードだね」

「人生そんなもんですよ」

「そりゃそうだ」


 一応財布の中身を確認すると、諭吉が一人鎮座してらっしゃった、居酒屋程度なら大丈夫だろう。


「駅の近くに美味しいお酒を出すところがあるんです、そこまで高く無いですし、そこにしましょう」

「そのお店にはよく行くの?」

「えぇ、まぁそこそこ。ムカついたり、もやっとしたりする日に行きます。昨日も行きました」

「その節は大変ごめんなさい」

「いいですよ、私も些か無神経が過ぎました。なのでおあいこです。氷室さんは虫の居所が悪かった、私は性格が悪かった」

「灯ちゃんは性格悪く無いでしょ」

「そうですか?」


 彼女がひひっと悪戯っ子みたいな顔をした。


「存外、私もこんなもんですよ」

「そうかもしれないね」


 僕も彼女に倣って笑いながら、歩くスピードを少し早めた。

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