第3話
「お疲れ様です」
締めの作業を支配人と二人で手早く終わらせて、着替えを済ませて帰ろうとすると、支配人が真面目な顔して僕を呼び止める。
「あぁ、ちょっとまって氷室君。少し時間いいかな?」
「え、あ、はい。別にこの後何もないのでいいですけど」
支配人は僕にそう言うと、椅子に座るように促してくる。
椅子に腰掛けて支配人と向かい合うと何だか少しばかりの緊張と焦りが芽生える。僕は何かミスでも犯したのだろうか? それともクビとか? もしくは映画館が潰れるとか?
嫌な妄想ばかりがえらく鮮明に映像化される、日頃は全然役に立たないくせにこういう時に限ってなんでこんなに想像力が豊かなんだ僕は。
だが、そんな妄想もどうやら杞憂のようで、支配人は真剣であるがどこかいつものように楽しそうでもあった。
「氷室君もさ、随分この映画館で働いて長いじゃない?」
「はい」
「うちの映画館もね、最近割と客入りも良くてね、人手が足りないんだ」
その話は俺も知っている、最近バイトの募集広告を出したと話を聞いた。
「それでね、氷室君」
支配人が真っ直ぐな瞳で僕を見た。
「君、正社員としてここで働く気はないかい?」
「僕が……正社員ですか?」
「うん、他の人とも話したんだけど、やっぱり君かなと思ってね」
想像してもなかったことなので、思わず僕はフリーズを起こした。
「その、すごく、ありがたいです」
辿々しく言葉を吐く。
「ですが、その急すぎて。少し考える時間を頂いてもいいですか?」
僕がそう言うと、支配人は優しい声音で了承してくれた。
帰り際に支配人は僕の背中に言葉を投げる。
「急がなくていいからね、しっかり考えなさい」
まるでその声は、父親や先生のようで、悪いことなんてしていないのに僕はなんだか後ろめたい気持ちになった。
・・・
帰り道でいろいろな事を考える。
明日の朝ごはんのこと、灯ちゃんのこと、正社員の話のこと、そして自分の夢のこと。もう、僕もいい歳だ。夢を見続けて、結局のところそのまま朝になってしまった。手元には何も残っていない、この悪夢から醒めてしまえば、もう何一つだって手の中には残らない。
怖いのだ。
僕はどうしようもなくそのことが怖いのだ。
「どうしたいんだろうか」
安酒を買って近くの公園に入った。
「なるべきだよなぁ」
収入や将来のことを考えると正社員になった方がいいに決まっている、何よりこの仕事は嫌いじゃないし、人間関係にも不安はない。それに金銭面だって生活が困窮しているわけじゃないが蓄えが多いわけではない。
それに……耳元で誰かが囁く声が聞こえる『諦めるにはいいきっかけかもしれない』とどこかで聞いたことのある声で。
夢を切り捨てて、現実に生きる。
現実を切り捨てて、夢に生きる。
きっと多くの人が既に通過した壁に……いや、自分で先送りにした壁に今更のようにぶつかった。
安酒で酔いが深くなっていくにつれて、宵も深くなっていく。そうして迷いがどんどんと深くなっていく。
青臭い夢は、もう多分腐ってる。熟すことなく腐り落ちているのだ。
でも、それでも、捨てることができないから、僕はまだここにいる。
鈍い笑みをこぼして、僕は息を吐いた。
多分、もう僕は限界が近い、抱え込んだドロドロの何かがすぐそこまで顔を見せている。
そして、どうしてか僕は灯ちゃんのことを思い出して真っ暗闇の天を仰いだ。
彼女ならば、なんと言うのだろうか。
不意にそんなことを夢想した。
・・・
「氷室さん」
翌日、支配人は休みで居なかったことに少しばかりほっとして、風邪をひいた社員さんに代わって締め作業のヘルプに来た。同じく閉め作業の灯ちゃんが駆け寄ってくる。
「おめでとうございます、正社員になるんですよね」
「耳が早いね。誰から聞いたの?」
「パートさん達から聞きました」
「まぁ、まだ決まったわけじゃないんだよ」
少し考えて、僕は彼女に簡単に事情を説明することにした。
「悩んでるんだ。正社員になるの」
「なんでですか?」
「え、あぁ、まぁいろいろね」
「氷室さんは、何かやりたい事があるんですか?」
「夢があるんだ。叶わないかもしれないけど、こんな歳になってまで馬鹿みたいに追いかけてる夢があるんだ」
「……」
締めの作業の手は緩めずに、僕はできるだけ軽い口調でそういった。
「馬鹿みたいだろ? でもね、こんなんでも必死に抱えてきたものだから手放せないんだ」
彼女は黙って聞いている、次第に僕の口は饒舌になっていく。
次第に声に熱がこもり、自分自身で蓋をした何かが溢れ出てくるのが理解できた。
「だから答えがわからない、最適解がわからないから動けない」
振り返る、そこにはなぜか苦虫を噛みつぶしたような顔の灯ちゃんがいた。
「……支配人は知ってるんですか、氷室さんの夢を」
「うん、支配人は知ってるよ」
「だったら、多分違うと思います」
灯ちゃんの刃物みたいに静かで鋭い一言で僕の動きが停止した。
何故か喉元にナイフを突き立てられている気分になる。
「え……?」
「きっと支配人は全部ひっくるめて、氷室さんに話をしたんじゃないですか? 夢を諦めるためじゃ無くて、氷室さんが夢を追えるように」
恐る恐る振り返ると彼女はいつに無く真剣な顔で僕を見る。
その目が後ろめたい、剣山でも背中に押し付けられている気がしてならない、まさに針の筵というやつだ。
「……かもね」
「氷室さん、はぐらかさないでください」
「はぐらかしてなんかないよ」
「氷室さん!」
彼女が聞いたこともないような声音で叫んだ。
熱の篭った声と、鋭い視線が僕を射る。思わず、僕はそれに気圧されてこの場から逃げることに失敗した。
「氷室さん、ソレを夢を諦める言い訳にしないでください! 分かってるんでしょ? 本当は正解なんてないって」
あぁ、分かっている。
僕がこの先何を選んでもきっと必ず、後悔する日が来るってことを僕は知っている。正解なんて初めからないのだ。
それでも、そんなものがあると思っていなければ気が狂う、おかしくなる。
「今日は饒舌だね、灯ちゃん」
精一杯の皮肉を言った。
彼女が正しいなんてことは僕もわかってるのに、それでもなんだか心が荒む。
そんなことは僕だってわかってる。唯一、支配人は僕の夢を肯定してくれていたから。だから、本当の意味なんて僕が一番よく分かってる。
「……すいません、でしゃばりました」
「いいんだよ、多分君が言ってることの方が正しいんだ」
あの広い家から出て行った記憶の中の誰かも、似たようなことを言っていた。
『言い訳をするな。逃げるな』
そんなことをよく言ってた。
あぁ、分かってるんだ、でもそんなに僕は強くないんだ。いつだってギリギリでなんとかやり過ごしてる、嘘をついて自分を騙して。
「これでも、精一杯やってるんだ」
台拭きを握る手に力が入る。
血が出そうな程に強く強く、噛み殺すように握りしめる。そうしてついに歯止めの効かなくなったドロドロの何かが溢れ出た。
「わかってるんだ……わかってるんだ!」
本当は逃げる理由が欲しかったんだ。
それに向かい合うのが怖かった。
自分自身と向き合うのが世界で一番怖い。
だから気がつかないようにしていた、知らないふりをしていた。
僕は小説が書けないんじゃ無い。
僕は小説を書かないんだ。
本当のことを知るのが怖いから、自分に才能がない現実をこれ以上見せつけられるのが苦しかった。
自分が何者にもなれないまま終わっていくのが、追いかけてきた夢が醒めるのが、引き返せない道のりを自覚するのが。
僕は何よりも怖いのだ。
子供の頃の夜中のように、いつまでもついてくる影法師のように、実態がないくせに纏わりついてくる焦燥感や不安が。
「氷室さん……」
「……君に何がわかる?」
自分でも分かるほどにその声は情けなくて弱々しかった。数年来抱え込んでいた形のない不安が堰を切って溢れ出すのを止められない。
「来た道を戻れるなら、とっくに戻ってるんだ」
嗚咽のように、呪いのように、言葉が溢れる。
「でももう、来た道がどこかも進む道の方角もわからないんだ」
あぁ、本当に情けない。
「すいません」
「……いいんだ、これは君が謝ることじゃないから」
僕は精一杯笑って見せた、歪な笑顔を彼女に見せた。
いつからうまく笑えなくなったのか、感情の起伏が薄い彼女の方がきっと僕よりうまく笑っていると思う。
・・・
一人きりの家の中で、情けなさで死にたくなるのを抑え込みながら煙草に火をつけた。そうして向かい合った自分自身のずるさや醜さに思わず笑いがこぼれ落ちる。どこで道を間違えたのだろうか、高校生ぐらいから人生をやり直せば、もう少しマシな人間になれてた気がする。
そもそもの始まりは、小説家などという荒唐無稽な夢を見たせいだ。こんなもの趣味程度に収めておいて真っ当な人生を送るべきだったのだ。きっとそれを家族も随分と昔に霧散した彼女も、そして何よりも僕自身が望んでいた。
でも、それでも、どうしようもなく好きだった。
人が綴る物語が、自分ではない誰かになれるあの瞬間が。
あぁ、まったくもってタチが悪い、これでは多分永遠に堂々巡りだ。
「何がしたいんだろうなぁ」
パソコンに電源をいれた、ワードを開いて書き終えた小説や書けなかった小説を眺めながら下に下にスクロールしていく、一番下にたどり着けばそこには『無題』と書かれたタイトルの小説が置いてある。日付を見れば、それは随分と古い化石みたいな小説だった。
少しばかり迷って、それをダブルクリックして開き読むことにした。
汗をかくグラスを手に取ってアルコールを流し込みながらその小説を読みふける。ありきたりな設定で、どこにでもあるボーイ・ミッツ・ガール。くだらない前置きとテンポの遅い物語の進め方、顔が暑くなって行くのがわかる、これは酔いでは無くて恥からくる暑さだ。俗にいう黒歴史というやつ。
「あぁぁ! もう!」
いよいよ堪らなくなって僕は、くだらないその小説を改稿し出した。カタカタとキーボードを叩く「そうじゃ無い、こうじゃ無い」なんてボソボソと呟きながら、未完成の駄文をせめて読めるようにと。
いつしか、灰皿に預けていた火がついたままの煙草は灰になって、グラスの中の炭酸と氷は消えてなくなった。情けなさも後悔も忘れて、眠ることさえほっぽり出して僕は一心不乱に小説を書き殴る。
展開を夢想して、動くキャラ達に思いを馳せる、ありもしないその小さな『現実』に色をつけて行く。パズルみたいに展開を取っ替え引っ替えして、しっくりくる何かを探し続ける。
こんなものに意味が無いなんて分かってる、書きながら頭の何処かで下を向いてぼやく僕がいる。
『こんなものはマスターベーションだ』
そうかもしれない、というか多分そうなのだ、こんなもんただのマスターベーションだ、読まれない小説に価値なんてないし、読まれないと知っていて書き続ける僕はタダの馬鹿だ、書き上げて自分自身が気持ち良くなりたいだけだ。
でも、それでも。
楽しいと思った、生まれて初めて楽しいと思ってしまったのだ、小説を書くのを。今、この瞬間を。
一息つく頃には夜は明けていた、随分と痛む腰と肩を動かしながら欠伸混じりにコーヒーを淹れた。
「……」
仕事がないので良かったが、徹夜なんて久しぶりにしたせいで体が悲鳴を上げているのが分かった。コーヒーを飲んでもこのへばりつくような眠気は覚めてくれそうもない。
ベランダに出て煙草に火をつけながらぼんやりと空を見上げると驚くぐらいの快晴の青にため息がこぼれ出た。
「青いなぁ」
煙草の先に光る赤を眺めて、灯ちゃんのことを思い出した。
「謝んないとなぁ」
呟いてから頭を抱える、いくら溜め込んでいたものが決壊したからと言えどあの態度は大変に良くなかったと反省する、あれではなんとも最悪な奴だ。
何か手土産でも渡そう、物で釣るわけでは無いが誠意を形で表したい。彼女は一体何を喜ぶのだろうか? 僕は彼女のプライベートな部分は何も知らない、同じところで働いていて、長い間仲良くしている。離れたところに住んでいて誰かに起こしてもらわないて起きられない、感情の起伏が薄くて、優しくて、綺麗に笑う子だ。
それぐらいしか知らない、しりたいと思ってこなかった、これも小説と一緒なのだ一歩踏み込んで怪我をするのが怖かった。
「まぁ、そうだよな」
呟いて、青空の下で笑みを溢す。
僕はきっと……。
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