第2話
あの後、そつなく仕事を終えて家に帰り軽い夕食やらを済ませて薄寒いベランダに裸足で出た。
室外機の上に座って月を見ながら煙草の先に火を灯しながら、肺の中に身体に悪いものを充満させつつ何となく彼女のことを、灯ちゃんのことを思い出した。
彼女のあの笑顔が脳裏にこびりついて離れない。彼女があんなに綺麗に笑うなんて、僕は知る由もなかった。思えば、僕は彼女のことを知らなすぎる。数年の付き合いで、そこそこ仲がいいが知っているのは彼女が僕と同じフリーターということだけだ。
もしかしたら、僕は彼女のことが好きなのだろうか、考えはしたものの多分違うとわかった。
僕は多分、羨ましい、憧れていると言ってもいい。
何だか彼女が眩しく見えて仕方がない、あぁやって綺麗に笑えるところも、少しずつだけど成長していくところも。僕にはないものだと分かっているからなのか、酷く羨ましく思える。
それがきっと独りよがりの考え方と分かっていても、そう感じてしまうのだから仕方がない隣の芝は青く輝いて見えるのが世の常だ。
吐き出した煙が雲に見えた、そのままどうか僕を隠してくれなんて痛々しいポエムを独言て、灰皿に灯の先端を押し付けて消化する。
深夜のベランダに静寂と暗闇が戻る。雲に隠れた月明かりの薄い光だけが足元を照らしていた。
「書くか……」
呟いて、部屋に引き返した。
・・・
酷く心が荒んでいる自覚はある、ハイボールを流し込みながら僕は静かに暗い部屋の中で考える。
書きたいものはあるのに、書けるものがない、アイデアが脳味噌から外に出た瞬間に腐っていく感覚に襲われる。頭の中では傑作なのに、文字という形を与えた瞬間に尽く違うものになる、駄作になっていく。
頭の中にあるイメージはまだ青くて、僕はそれを赤く熟したいのに、思いとは裏腹に少しの刺激でドロドロに腐っていく。
頭の中で物語を考える、キーボードを叩く、読み返して苛立ちが募って書いたものを消して、薄いハイボールを飲んで煙草を吸う。この無限ループ、心が荒まない訳はない。
明け方になる前にバイトのことを考えて悶々としながら床について、明日の自分に「うまくやれよ」と後を託す。全くもって生産性のない灰色の毎日だ。
「どこにいくのだろうか」
何となく呟いた。
ナイトスタンドに照らされて淡いオレンジ色に光るアルコールを流し込むとそれに反抗するように弱音や言い訳が喉の先まで登ってくる。
もうすぐ朝が来てしまう。
今日も何もかけないままで、今日も何も成せないままで、何一つ進化も進歩もないままでこの夜が終わってしまう。
なすすべもなく、僕は布団に潜り込んだ。
明日も仕事だ遅刻はできない、そんなことを考えながらアラームをかける、明日の天気は忌々しいことに晴れだった。
・・・
起き上がっていつものように準備をした、用意をすませ煙草を吸って外に出る。欠伸を押し殺しながら映画館までの道を歩き、煙草とお茶、それと支配人へのおにぎりのお礼のコーヒーを買った。
道すがらのペットショップのブルドックの子犬と目があった、毎回そのつぶらな瞳に財布の紐がガバガバになりそうになるが金銭的余裕がある訳ではないのでグッと我慢する。あのだだっ広い家に一人では心が荒む。
祖母の知り合いという大家さんのご好意で、僕はフリーターに似つかわしくもない広い家を破格の値段で借りさせてもらって、そこで一人きりで暮らしている。前までは彼女という名の同居人もいたのだが、先行き行かない夢にしがみつく僕に愛想を尽かして出て行ってしまった。
別段悲しくもなかったし彼女に怒りもしなかった。自分で言うのも酷い話だがよく長く続いたと思う。
彼女に未練はないものの、あの広い部屋で一人暮らしというのは些か心にくる物がある、端的に言えば広すぎて寂しくなる。
子犬が僕の方に駆け寄ってきて、ガラスを叩いた。
「可愛いな」
呟いて手を振った、側から見ればくたびれた男が子犬に手を振って話しかけているのだから不気味に他ならないだろうな。
「可愛いなぁお前、何だ飼って欲しいのか? 宝くじでも当たったら飼ってやる」
何だか寂しさが限界突破したようで、僕はその場に蹲み込んでウィンドウ越しの子犬と戯れた。
「なにしてるんですか、氷室さん」
首筋に氷でも押し付けられたのかと感じるぐらいの冷え切った声に、思わず体と声が震えた。
「……子犬に話しかけています」
背後からかかる声には覚えがあった、この冷ややかな声は灯ちゃんだろう。
あぁ、どうしたものか、こんな日に限って彼女は何で早いのか。
「……可哀想」
「マジな同情はやめてくれ! 流石の僕でもそれは傷つくよ!」
「いや、本気で、なんか氷室さん本当に可哀想だなって思って」
「せめて! せめて馬鹿にして欲しかった! 哀れみの目が一番心をえぐるんだ!」
本気で僕に哀れみを向ける灯ちゃんと共に、映画館に向かう。本当は今にも逃げ出したい。
「灯ちゃん、今日は早いね」
「何だか今日は眠りが浅くて。よくよく考えれば、きっとこれは氷室さんの悲しい姿を見ろとのお告げかもしれませんね」
「やめてくれ! それ以上は頼むから! 支配人とかには言わないでくれよ!」
「それは……フリですか?」
「僕は別にダチョウ倶楽部的なノリを求めている訳じゃないからね」
僕が頭を抱えながらそう言うと、灯ちゃんは無表情の中に何だか小悪魔みたいな笑みを浮かべながら半月状に口を開いた。
「でしたら、口止め料が必要ですね」
「君は段々、支配人の悪影響を受けてない?」
「今度、お酒奢ってください」
この後輩は、何といい性格をしているのだろうか、本当に支配人の影響が強いせいだと思う。
恨みますね支配人、心の中で呪詛を唱えて僕はため息をはいた。
「……あんまり高いところじゃないならね」
「やりました、早起きは三文の徳とはこのことですね。今更ながらにおはようございます氷室さん」
勝ち誇りながら裏口の扉を開く彼女の背中に向けて、僕は呆れながら自分の腕時計を叩いてこう言った。
「もう、お昼だよ」
・・・
いつも通り……いや、若干後輩の好奇の目を浴びながら準備して表に出た。
昨日とは打って変わって人も少ないいつも通りの平日だ、この雰囲気がたまらない。死んだ目でチケット発券の席に座る支配人に声をかけた。
「一生恨みます」
「なんだなんだー、朝から物騒だね氷室君」
「あ、つい本音が」
「だから怖いって。あれ、灯ちゃんは?」
「今日、メンテナンスの日なんでもう任せてます」
「指示を出す手間が省けたよ、さすが氷室君。次の支配人は君だ」
「はいはい、軽口はいいですからどいてください」
「支配人は嘘だけど、正社員は?」
「はいはい」
支配人を追い出して、席につく。劇場から微かに溢れる音を聴きながら、ぼんやりと天井を見つめた。
「仕事中だろぉ、氷室君。ぼんやりするなぁ」
「さっきまで仮死状態だったでしょ支配人」
「いいの支配人だからね、一番偉いの僕だから」
そう言うと欠伸をしながら、テーブルに肘をついた。
「灯ちゃん、支配人に何だか似てきましたね」
「そうかい?」
「えぇ、支配人に似て意地が悪くなりました」
「ふふ、褒めないでおくれ」
「褒めてないですよ」
僕がそう言うと、支配人はニヤニヤと笑った後で僕を指差した。
「君は何だか少し灯ちゃんに似てきたね」
「……僕がですか?」
「似てきたと言うか、影響されてきたね。昔よりも柔らかくなった」
「気のせいじゃないですかね」
「気のせいなはずがあるものか。支配人だからね、見る目だけはあるんだよ」
そのことと支配人になんの因果関係があるのだろうか。
そう言ってドヤ顔を繰り出して、何か言葉を続けようとしていたが奥から灯ちゃんの「支配人、来てください」と言う声に遮られた。
「ほら、娘さんが呼んでますよ支配人」
「仕方ない、可愛い娘のためだ行かねば」
そんな軽口を言いながら姿を消した支配人の言葉を、一人きりの空間で僕は静かに反芻した。
「柔らかくなった……ね」
もう尖り続ける歳でもない、使い古された鉛筆の先だっていつしか丸くなるものだ。硬かった氷だって溶けて柔らかくなる。
容姿のことか、はたまた内面のことか、なんて考えながらボンヤリと時間を消費する。彼女のように、僕も成長しているのだろか。それとも少しずつ退化しているのだろうか。
ゴミを拾うフリをして、誰もいないことを良いことに発券席から離れてドアから空を見上げた。天気予報は大外れ、朝は晴れていたくせにいつの間にか曇天が僕達の頭上を支配していた。だと言うのに、せっかく苦手な青空から解放されたと言うのに。
なんで、僕の心は晴れないのであろうか。
・・・
映画が終わった後の劇場を掃除するのは、僕の数少ない楽しみの一つだ。ポップコーンが落ちた床、明かりの少ない室内、ついさっきまでの大音量とはかけ離れた無音の部屋、その全てがなんだか妙に懐かしくて好きなのだ。
「氷室さん、なにぼうっとしてるんですか」
「え、あぁ、ごめんごめん」
「氷室さん、割と堂々とサボりますよね」
「サボりじゃなくて小休憩だよ。人生には立ち止まることも必要なのさ」
「物は言いようですね」
「日本語で遊ぼうってやつ」
適当な軽口を叩きながら、床に転がったペットボトルを拾い上げる。
「……灯ちゃんは、映画が好きなの?」
「どうしました? 藪から棒ですね」
「たまには藪蛇突っつくのも悪くないと思ってね」
「そうですか、それはいい趣味ですね。えぇ好きですよ、映画。とても」
無表情ながらに弾んだ声が、静かな室内に反響した。
「映画も、ドラマも舞台も好きです」
「だからここで働いてるの?」
「はい。ないよりこの建物も好きです、安く映画見れますし」
「建物が好きなのは僕も同意するよ」
座席の下まで丁寧に履きながらそう言って顔を上げると、猫みたいに大きい彼女の目が僕を捉えた。
「氷室さんは、お好きですか映画」
「……最近はあんまりドラマも映画も見てないね。大学生、いや高校の時は見てたかな」
「洋画ですか邦画ですか?」
「面白そうならジャンルは特に気にしてなかったよ」
何だか彼女に見つめられていると、気恥ずかしさと少しばかりの後ろめたさが込み上げてきて思わず顔を逸らした。
「氷室さんは何が好きなんですか?」
そう言われて、少しばかり思案する。
何が好きかと問われても、すぐさま答えが見つからなかった。
「灯ちゃんは、映画とか以外に好きなものとかないの?」
だから僕はお茶を濁した。
「そうですね、お酒が好きです。お休みの日で稽古がない時は基本的に一日中お酒を飲みながら映画とかドラマを見ています」
僕の中ではぴっしりしている彼女が一日中お酒を飲んでいる様子を想像するのは難しかったが、個人的には彼女の私生活よりも気になる台詞が一つだけあった。
「稽古ってなんの?」
僕がそう言うと、彼女は一瞬ばかり「しまった」と言わんばかりに顔をしかめて、その後に恥ずかしそうに頬を赤らめてゴニョゴニョと言葉を吐いた。
「その、実は、私ですね」
言いかけたところで、劇場の扉があいた。
パートのおば様方の一人が、灯ちゃんを呼びに来たのだ。
「あっ、はい。すぐ行きます」
彼女はそう言って僕に背を向けて出口に向かう、その途中で振り返り相変わらずの無表情で「この話は、また今度」と呟いて去っていった。
劇場にまた少しばかりの静寂が戻る。
それにしても、僕も随分と彼女の表情の変化を読み取れるようになった物だと思う。
「日々の成果だな、これも」
なんて、益体のないことを呟いて僕も清掃を切り上げて出口に歩く。
「何が好き……か」
十年前なら、間違いなく『小説』だと断言してた。
五年前でも、少し迷って『小説』だと言えていた。
ならば、今は?
僕はそのクエスチョンマークに対する適切な回答を持っていない、いつかその疑問に答えられることを祈って僕は静かに劇場の扉に手をかけた。
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