BLUE

檜木 海月

第1話

 青空が嫌いだ。 

 青空の下に出ると自分が醜いものだと思うとか、そんな中二じみた理由じゃなくて。僕はただ単純に眩しいものが嫌いなんだ。まるで隠れる場所を失った気分になって、少しばかりの後悔と後ろめたさが胸を包む。

 そうして何より、青いままの自分が好きにはなれないから。

 だから、きっと、まだ僕は……


 ・・・


 煙草を吸った、万年金欠なので安くて軽い煙草を目一杯吸い込んだ。

 灰皿に火のついた煙草をかけて、薄く割ったハイボールを身体に流しこむ、グラスの汗で薄らと湿った指でパソコンのキーボードを叩いた。

 薄暗い部屋にはパソコンの白い明かりと、ナイトスタンドの淡いオレンジ色の光だけ。


 ため息を吐いて、火が灯ったまんまの煙草を持って窓枠から外を眺める。人が寝静まった夜中の三時過ぎに僕といえばカケラも生産性もない行為に明け暮れているのだ、ちなみに明日も朝からバイトがある。

 二十歳も半ば、夢は小説家のフリータ、好きなものは酒と煙草、それと曇り空。つまるところ、人生のどん底に自ら足を踏み入れている。


・・・


 寝ぼけ眼を擦って、僕はいそいそとバイトの準備を始めた。

 六枚入りの食パンをトースターに放り込んでつまみを回す、ソーセージをサランラップに包んで電子レンジに投げ込んで三十秒ほどに時間を設定すればいい感じに焼き上がる。

 電気ケトルでお湯を沸かして、分量も測らずに適当にインスタントコーヒーの粉をマグカップにぶち込む。ダラダラしては居られない、お湯が沸く前に顔を洗って着替えなくてはいけないから。

 モジャモジャの髪に冷水をぶつけて顔を洗ってドライヤーで髪を乾かす。トーストのいい匂いと電子レンジの金切り声を合図に再び広いキッチンに戻ったら、トーストを二つに折り畳んでなんちゃってホットドックとクソまずいインスタントコーヒーを味わった。


 整髪料をつける、そのついでに歯を磨いて、準備を完璧に済ませる。そうするといつも通りに忙しい朝に十分ほどの自由時間ができた。

 ブラインドのカーテンを引っ張ってベランダに躍り出ると、今日は生憎の空模様で今にも泣き出しそうな曇天だった。

「ついてるね、今日は」

 室外機の上に腰掛けて、少しばかりヨレた煙草に火をつける。

 鉛みたいな色した雲に向けて紫煙を吐き出して、僕はようやく代わり映えのない一日を始める。


 ・・・


「おはようございます」

 裏口から事務所に入ってそういうと、支配人が微かに笑いながら「もう、お昼だよ」と呟いた。

 僕も笑顔を返しながら、エプロンを装備する。


 バイト先は映画館、でも大型ショッピングセンターや駅の上にあるような有名なところじゃない、歓楽街のはずれにある個人経営の古ぼけた映画館、個人経営にしては建物は大きいが全部が全部映画館のものではないという、何ともまぁ謎な所だ。最新の映画から随分と古いような、それこそ埃かぶってる昔の映画だって放映する。

 僕はここの空気感が好きで、家から逃げるようにして出てきてから数年、ずっとここで働いていた。


「氷室君、お昼は食べたの?」


 いそいそと仕事の準備をしていると、オーナーが僕の名前を呼んだ。


「あ、はい、出てくる前にいつも通りパンを食べました」

「若いんだから、それだけじゃたりないでしょ。きちんと食べなきゃだめだよ」

「え、あ、はい」


 支配人は自分の鞄からサランラップに包まれたおにぎりを出して、僕に押し付ける。


「どうせたべてないだろうと思って、君達の分も作ってきたんだ。遠慮せず食べなさい」


 支配人はそう言って四つほどおにぎりを渡してくる、ありがたい、ありがたいが四つも食べられない。


「二つは君ので、もう二つは彼女にあげなさい。どうせ今日も彼女はお昼食べて来ないだろうからね」


 優しくそう呟くと、支配人は事務所から出て表に向かう。そして、入れ替わるように裏口の扉が勢いよく開いた、それはも豪快に。

 そうして聞こえて来るのはドアの勢いとは裏腹に底冷えするような、落ち着いた低い声。


「氷室さん、おはようございます」

「うん、灯ちゃんおはよう。いつも言ってるけどドアは静かにね」

「聞き飽きました」

「言い飽きたよ僕も」

「でも若干、その言葉をルーティンにしてる自分もいます」

「もっと他のことをルーティンにしようね」


 彼女はいつものように、いつも通りに淡々と準備を進める。

 上着を脱いでエプロンをつけて、鏡の前で少しばかり身だしなみを整える。


「あ、支配人が君と僕にって」


 彼女の準備が終わりこちらに近付いて来る時に両手で抱えていたおにぎりを二つ彼女に渡すと、不思議そうな顔でおにぎりの包みを剥いだ。


「人が握ったおにぎりを食べるのは初めてです」

「そういうのだめなタイプ?」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど。うちはそもそもおにぎりを食べない家でしたので」


 彼女はそういうと、パイプ椅子に腰掛けておにぎりを咀嚼し始めた、僕もそれに倣っておにぎりを食べ始める。

 具材は入ってないものの、塩がほんのりと効いていてたいへん美味しい。どうやら感想は彼女も同じなようで、表情こそ変わってないものの美味しそうに食べていた。


「……コンビニのおにぎりとは違う味がします」

「お年寄りが握るおにぎりは出汁が効いてるから美味いんだって昔ばあちゃんに言われたよ」

「関係あるんですかね」

「味に関係はなくても、食べる上で重要なファクターにはなり得るんじゃないかな」

「そういうものですかね」

「そういうもんだよ」


 途中で買った緑茶で喉を潤して、もう一つのおにぎりにかぶりついた。


「うん、美味しい」

「はい、美味しいです」

「灯ちゃんは何でお昼を食べて来ないの?」

「毎朝ギリギリまで寝るので、基本的にご飯を食べる時間がないんですよ。私、誰かが起こしてくれないと永遠に寝てる人間なので」

「その割には無遅刻だね」

「支配人は遅刻しても怒らないでしょうけど、多分申し訳なさで落ち込むので。それが嫌で頑張って起きてます、それはもう気合を入れて」


 彼女はそう言って一つ目のおにぎりを食べ終えると、もう一つをカバンの中にしまった。


「氷室さんはクマがすごいですけど、寝てないんですか?」 


 彼女にそう言われて、なぜか少しばかりドキリとした。

 何でドキリとしたのかは分からないが、僕は悟られないようにお茶を飲んで「何だか寝つきが悪くてね」とつかなくてもいい嘘をついた。


「枕があってないんじゃないですか?」


 彼女は少しばかり悩んだ後に心配そうな声音で呟いた、わずかに胸が後ろめたさでチクリと傷む。

 言葉を返そうとしていると、表のドアからひょこっと支配人が顔を出して「ごめんね、少し早いけどどっちか出てくれる?」と頼んできた。

 僕は食べかけのおにぎりを机に置いて表に出ようとしたけれど、彼女がそれを静止する

「いいですよ、私が行くので。氷室さんはゆっくり食べててください」


 彼女はそういうと、いそいそと表に出て行った。

 ひとりっきりの事務所で僕はおにぎりを食べながら、先ほどの会話を反芻した。何であんな嘘を言ったのだろうか、そんなものは考えるまでもなかった。


「恥ずかしがってんじゃねぇよ、気持ち悪りぃ」

 

 僕は恥ずかしいと思ってるのだ。こんな自分を、睡眠時間を削ってまで小説を綴る自分自身を。いや、いい歳こいて現実から逃避して、可能性なんてあるか分からないものに手を伸ばす自分自身を。

 裏口から外に出て、煙草と自己嫌悪に火をつけた。


「だっさ」


 紫煙と一緒に自然とそんな言葉が溢れた。


 ・・・


 早々に煙草を切り上げて、僕も表に出ると平日の午前だというのに何故か客入りは上々だった。


「今日は忙しいね」


 今時の映画館はチケットの発券は機械化が進む一方だが、この映画館では未だに人力による発券になっている。


「あ、氷室さん」

「支配人、遅くなりました、変わりますね」

「あぁ、ありがとう。僕は売店の方に行くよ。そろそろパートさんを休憩に出さなきゃだしね」


 支配人と変わって、席につく。第一波はどうやら去ったようだが、第二波がすぐにきそうだ。


「今日って祝日だった?」

「なんか近くの小学校が休みらしくて、子供連れが多いですね」

「あぁ、だから子供が多いんだね」


 たわいの無い話をしたら、すぐにお客さんが押し寄せる。

 いつも通りにチケットを発券してお客さんにご案内……そんな無限ループを繰り返して一息つく頃には既に一時間が経過しようとしていた。


「氷室さん、煙草吸ってきたんですか?」

「あっ、うん、吸ってきたけど臭かった?」

「いえ、いつもたばこを吸った後に消臭剤の匂いがするので」

「何だか恥ずかしいな」

「ここは狭いですし、仕方ないですよ。それより、頬を赤らめて両手を添えないでください気持ち悪い」

「辛辣だねぇ灯ちゃん」


 彼女とももう随分と付き合いが長い、初めはまるで氷かと思うぐらいに表情も固くて冷たかった彼女の表情の起伏もそれなりにだが読めるようになってきた。


「そろそろ入場前ですね、モギリ行ってきます」

「うん、お願いするね」


 初めの方なんて業務連絡以外喋らなかった彼女が今では軽口まで叩くようになった事を思うと何だか僕は胸の奥がジーンとする、歳がそんなに離れてる訳でもないというのに、保護者面というか兄目線というか、そんな感情がふつふつと湧き出るのだ。


「どうしたんだい? 灯ちゃんの方をじーっと見つめて」

「いえ、彼女も随分と変わったと思って」

「何だ、面白くないなぁ」


 支配人は残念そうに言った。


「何でですか、面白がる話でもないでしょう」

「てっきり、氷室君が灯ちゃんに恋をしたと思ったんだけど。ほら、君たち仲良いし」


 しっしっしと擬音が張り付いていそうな笑い方をしながら、僕を肘で突く。


「もう、色恋沙汰を起こす歳でもないですよ」

「何だ、まだ二十も折り返しぐらいだろう? そんなことを言っていては君もこんなジジイになってしまうよ」

 

 支配人は何とも好々爺然としているくせにその実、妙に悪ガキじみたところがある、よく言えば若々しい。


「いえ、何というか体力というか精神というか」

「氷室君、彼女いたっけ」

「いましたけど、随分と前に愛想尽かされましたよ。そのおかげで広い部屋が寂しくて仕方がない」

「それは残念だね。まぁ、君はいい子だからね、すぐに巡り合えると思うよ」

「何ですか、妙に今日は人の恋路を気にしますね支配人」


 ニヤニヤと僕を見ながら、支配人が意地の悪い笑みを浮かべる。あぁ、やめてくれ支配人、思い出したくないことまで思い出してしまった。


「支配人は今、恋愛映画に御執心なんですよ」


 チケットのモギリと入場案内を済ませた灯ちゃんが戻ってくるなり、そういうと僕の目の前にチラシを突き出した。


「レイトの映画祭、モノの見事に恋愛物ばかり」

「この歳にもなると恋だの愛だのが、それはそれは美しい宝石みたいに見えるんだよ。ところで灯ちゃんは、彼氏とかいないの?」

「セクハラですか支配人」

「支配人、セクハラはちょっと」

「若者怖い、ハラスメント超怖い」

「まぁ、私も随分と前に別れたんですけどね」


 彼女は一体どこから話を聞いていたのか。


「じゃあ、ハラスメントじじいは売り上げの確認でもしてくるよ」


 そういうと支配人はヘラヘラと何とも楽しそうに、裏にある事務所にスキップしながら引っ込んでいった。


「随分と盛り上がってましたね」

「灯ちゃんが随分と変わったって話をしてたんだ」

「そうですか?」

「うん、入った頃は精密機械みたいだったからね、灯ちゃん」

「本人の前でそういうこと言います?」

「悪いことを言ってる訳じゃないからね」

「氷室さんは、変わりませんね」

「良くも悪くも変わらないからね」


 僕には進歩がない、進むべき道が見えていないから、踏み出す次がわからないから。彼女はきっと僕を評価してくれているんだろうけど、そんな見に余る評価がむず痒くて、僕は視線を逸らした。


「自分では変わったか、変わってないかなんてわかりませんけど、でも今が楽しいのはわかります」

「楽しい?」

「ええ、はい、とても」


 彼女は口角を吊り上げて屈託のない顔で笑って見せた。

 僕は初めて彼女の本当の笑顔を見た気がした。


「ここで働くの楽しいんです、私。凄く」


 彼女の青い笑顔が少しばかり眩しすぎて僕はまた彼女の瞳から逃げるように目を逸らした。


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