第36話 すきやき

 私の好物の一つに、すき焼きがある。

 以前、鍋物の話題を出した際に、敢えて触れぬようにしたのは後に個別で取り上げようという思いがあったからであるが、私にとってのすき焼きは鍋とは別格のものとして君臨している。

 小鍋立てのできるような落ち着きを得たいというのは以前のエッセイでも語ったことであるが、すき焼きの時にはそれに近いことをやることもある。

 白葱に牛肉だけという単純な組み合わせでもご馳走になるのであるが、これは私が目指す飲み方を得たのではなく、単純にすき焼きの持つ魅力がそうさせるに過ぎない。

 こうしたすき焼きが、牛肉の味を引き出す食べ方でないとして切り捨てられることもあるが、それについては百も承知である。

 そもすき焼きは牛鍋から来ており、元々は肉食の文化があまり浸透していなかった当時の日本人の工夫の産物である。

 今では肉質も良くなり臭みも少ない物となっているが、当時は肉の持つ独特の獣臭さを抑える必要があったのだろう。

 そこで味噌やら醤油やらをふんだんに用いて甘辛く煮た。

 こうした牛鍋を試みに作ったこともあるが、確かに牛肉の持つ臭いと共に味も奥へと引きこもり、牛肉単体で見ると確かに良い料理とすることはできない。

 ただ、あくまでも料理は総体であり、私はこの味が好きである。


 すき焼きで思い出すのは「クッキングパパ」でも屈指の名作である「とりすき」がある。

 幼い頃に亡くした父の顔を手ずから捌いた鶏を用いたすき焼きにより思い出すというのは、感動よりも料理が持つ歴史を繋ぐ力を強く認識させられた。

 その一方で、鶏のすき焼き自体は食べたことがなく、いずれはとしているうちに三十路に入ってしまった。

 まず以って、鶏を捌くというのは敷居が高い。

 小学生の頃に怪我をした雀を拾い、暫く世話をしてから動物園に預けたのであるが、その数日後に命を落としたという知らせを受けて暫く鶏肉を口にできなかった。

 それほどに、昔から細い心臓をしているのだが、理科の学習で鶏を解剖した際に鶏を絞める様自体は見たことがある。

 それでも、やはり自ら命を奪うことはどうしてもできず、こだわりを捨てて捌かれた鶏肉をあがなって作ることとした。

 肉は身の引き締まったものを選び、小さな鍋でやったのであるが、確かにその味は上等なものであった。

 ただ、父の顔が私の脳裏を掠めたのはその肉や葱をいただくことではなく、日本酒の冷やでそれを受けた時であった。

 やはり私と父とを繋ぐものは酒と蕎麦しかないようである。

 なお、昨年もこの鶏すきをやったのであるが、その時は行きつけの飲み屋で誕生日の祝いとしていただいた日本酒を迎えるべく準備した。

 この時の旨さと言ったら堪らなく、噛むほどに湧き上がる味と臓腑から広がる酒の優しさに目頭が熱くなるのを感じた。


 手軽にいただくことのできるすき焼きといえば、吉野家さんの牛すき鍋御膳である。

 これが初めて世に出た時には、その見事さに度肝を抜かれたものであるが、今でも冬の間に必ずいただく。

 無論、店で頂くこともあるのだが、多くは弁当にしてもらい家で頂く。

 というのも、すき焼きをいただく時には酒がどうしても欲しくなり、それも少し燗をつけたくなるからである。

 このようなときに高い酒で贅沢をするのは野暮であり、手頃な酒を相手とする。

 中に入ったきし麺も酒肴としては嬉しく、時に良い歯ごたえのする人参に苦笑する。

 それがちょうどよいということだろう。


 一方、家で手ずから牛肉のすき焼きをやる時には、よく葛切りを入れる。

 白滝を入れるご家庭の方が一般的なのであろうが、滑らかに喉を通る様が何とも心地よく、また、素直に染みた割り下と他の具材を味わうことができる。

 この葛切りを見て思い出すのは、大学時代のアルバイトの同輩である。

 一年の休学を挟んでいた私は、彼の追い出しコンパでは追い出す方に回ったのであるが、その時の上司と仕事終わりの買出しでその話題になった時、

「彼には何を贈ろうか」

と、穏やかな笑みで葛切りを眺めていた。

 今、そのことを思い出しながらすき焼きをつつくと、

「まあ、仲よくしようや」

ひとちする寡の姿が在る。


 すき焼きといえば、東京は浅草へと立ち寄った折に専門の店を訪ねたこともある。

 値段は推して知るべしというもので、旅先とはいえ流石に痛い出費となった。

 ただ、それと引き換えに得たものも大きかった。

 広い座敷で鍋を前に正座をし、扇子で仰ぎながらいただく味は見事なものであり、燗つけ瓶を三本も重ねて正に至福というべきものであった。

 また、周りで騒ぎ倒す者もおらず、紳士淑女が穏やかな表情で鍋をつつく中にある学生もまた落ち着いた面持ちを得ることができた。

 平成の世に在って、昭和に置き忘れたものをちょいと拾いに行ける店の在り方というのは何とも素敵なものであった。

 一昨年に浅草へ立ち寄った際に伺おうとしたのであるが、黄金週間ということもあってか、とても当時の思い出に浸れそうもなく断念した。

 たとえ記憶が色褪せようとも、心の写真を塗り潰すような真似はしたくない。


 すき焼きに松茸を入れるという贅沢を知ったのは漫画の影響なのであるが、流石に手が出せぬと思っていたところ業務用スーパーで輸入品の松茸が大安売りされており、これを買い求めて友人とやった。

 確か、小さいものであったと思うが、十本ほど入って千円弱ではなかったか。

 これを切り分け、煮えた端からいただく。

 輸送によって国産ほどの香りはないものの、芳香で口の中を満たし、酒でそれを身体に溶かすともう堪らない。

 男三人で賑やかにいただく楽しさ、旨さというのは素晴らしいものであった。

 これを久しぶりに昨年やったのであるが、どうも以前ほどの調和を得ることができない。

 無論今回も安い松茸であったのだが、真剣に鍋を見つめる必要がある分一人の方がより旨く感じるだろうという目論見は見事に外れてしまった。

 不味いわけではなく、香りが足りぬというわけでもない。

 むしろ前回やった時よりも上手く煮ることができた。

 散らかり放題の我が家という環境も同じである。

 ただ、鍋の中に在って縮こまる松茸を見ると、どことなく申し訳ない思いがした。


 絢爛を 煙に巻いて 喧々の 健康男子 交わす盃

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