第34話 ファストフード

 小学生の頃、父に連れられて初めてマクドナルドに寄ったとき、私は禁忌に触れたような気がして、眩暈がした。

 決して蝶よ花よと育てられるような可憐な少女ではなかったのであるが、食に関してはアレルギーもあって温室栽培をされていたも同然であった。

 それが急転直下、ジャンクフードの王様をいただくのである。

 緊張の面持ちで接見した私は、その塩辛さと甘さに目を回しながら、威光に平伏さざるを得なかった。

 この時の父の人懐っこい笑みがその後の人生に大きな影響を与えたのは言うまでもない。


 ファストフードはその名の通り手早く供され、手早くいただくことのできる食事である。

 今の日本においてはハンバーガーがその象徴であるが、深い懐を持つ日本の食文化においては、他にも数々の品がある。

 そうした品々が多忙な現代社会に精彩を加えるのであるが、そこへの思いを語ることはそう多くはない。

 たまには、そうした食にゆったりと思いを馳せるのも悪くはないのではなかろうか。


 先に述べたマクドナルドは、私の食のルポである「ファストフードでまったりと」の先陣を飾るなど、ファストフードの代名詞となっている。

 特に、その略称は住む地域によって異なり、それによって雪隠詰めに遭いそうになったこともある。

 それだけ地域、いや、日本に馴染んだ存在ということであろう。

 ただ、マクドナルドを私は忌避していた時期が三年ほどあった。

 勘の良い方であれば、それがマクドナルド本体のカサノバ氏が社長となった後であることが分かるかもしれない。

 ただ、それは経営方針の模索や健康志向に対する反発ではなく、チキンクリスプバーガーのセットが無くなったことに対する抗議であると言えば、いかに訳なき反抗であったかが察せられてしまう。

 それだけ、一つのメニュー変更や指針の変更というのは店にとっても利用者にとっても大きな影響を与えることになる、と大上段に構えてみても様にならない。

 こうしたマクドナルドの私にとって最大の利用シーンは移動中であり、車内や駅の停車場などで摘まむことが多かった。

 今は移動の多い仕事ではないため家で頂くこともあるが、そうした時にはサラダがつくように意識してしまう。

 そうしたことが気になる年齢になってしまいましてね……。


 一時期の長崎では、百円でうどんを供する店が流行り、セルフ方式で加温していただいていた。

 讃岐うどんの簡易版と言うべきスタイルは、私の中学高校という最大の暴食期を支え、しかも手早くいただくことができた。

 特に、みなと公園近くにあった店は天かすが入れ放題となっており、さもしさを隠しもしない私はそれを山と入れて空腹というよりも熱量を満たした。

 時に懐に余裕があれば、六十円ほどのコロッケをいただくこともあったが、それ以外はいかに安く済ますかということしか考えていなかったように思う。

 この時に、脂のきつさを誤魔化すために入れたことで、私は一味を使うことを覚えた。

 これを大いに発展させ、豪華にしたものが丸亀製麺やはなまるうどんであり、ファストフードの在り方を見せながら日常を彩ってくれる。

 学生時代に初めて丸亀製麺をいただいときには、手軽にこのようなうどんをいただけるのかと目を白黒させたものであるが、今ではすっかり馴染んでしまった。

 当時、バイト代が入ると釜玉うどんとかけうどんに野菜かき揚げ天を乗せたものをいただくことにしていたが、今ではかけうどんと野菜かき揚げ天が精一杯である。

 これに七味をかけていただくと、成長を感じながらも漂う油の香りに私の根を感じさせられる。


 立ち食い蕎麦もまたファストフードの一つであるが、コロッケ蕎麦は駅のホームなどで頂いて初めて様になる。

 冷凍の安いコロッケが濃いめの汁の放り込まれるとコロッケの持つ甘みと溶け合って場末のご馳走となる。

 関東に出るとついつい頼んで食べて回ってしまうのだが、これが手作りコロッケでは嫌味にしかならない。

 この一杯を知ったのは柳家喬太郎師匠の「時そば」の枕を拝聴したのがきっかけであるが、その軽快な言い回しはそれだけで新作落語を成している。

 その一方で、同じく紹介されていたウィンナー天蕎麦なるものはまだいただいていない。

 いずれ旅路で、と願うばかりであるがいつになることやら。


 最近のコンビニのフライフードは著しく進化を遂げており、これもまたファストフードの雄となった。

 殊に、緑のコンビニの「ファミチキ」と青いコンビニの「からあげくん」を初めていただいた時の胸の高鳴りは未だに忘れることはない。

 いずれも子供の懐には決して安いものではなかったが、何とか切り詰めてあがなうと至福に誘われる。

 からあげくんに至っては先の百円うどん二杯分であり、清水の舞台から飛び降りるような気分で求めていただいた。

 今でも和牛を買い求めるときや輸入物の松茸をいただくと決めた時に味わう感覚であるが、そうした一際ひときわの贅沢を初めて感じたのもまた、こうしたファストフードであった。


 ファストフードとして世に現れ、その地位から降りた後で再び返り咲いたものといえば鮨ではなかろうか。

 元は握り飯のような大きさで売られていた寿司は、元は江戸の屋台で売られ、手軽に男たちが摘まむものであった。

 それがやがて小さくなり、洗練されていくことで値も格調も高いものとなったが、回転寿司として庶民の手に戻ることで手軽さをも取り戻すに至った。

 今や伺えば、寿司だけでなくおつまみもあり、ラーメンもあり、デザートもある節操のなさであるが、そのようなことはファストフードの枠の前では細事である。

 気楽に頼み、または回ってくるものを少々摘まんで帰ることで腹も心も満たされてしまう。

 回転寿司においてはサーモンもハンバーグも酢飯の上で堂々としており、そこに恥じらいなどいささかもない。

 仕事の合間にふらりと立ち寄って手早く皿を重ねて立ち去るサラリーマンの格好良さは、回転寿司では特に様になる。

 連れてこられた子供が、自分の好きなものを笑顔で頬張る姿というのはそれだけで西洋絵画を世に成したものとなる。

 そして、そうした様を眺めながら酒を引っかける呑兵衛もまた退けられることはない。

 最後にお茶が等しく待つというのが、ファストフードとしての象徴なのかもしれない。


 野に山に 里にと春は やがて来る 老いも若きも ながむ街並み

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