第33話 長崎の行く末

 拙著「徒然なるままに~長崎の晩餐」もまた食を主軸に据えたエッセイである。

 ただ、その奥底にあるものは別であり、執筆の動機に至っては序段で述べた通り、長崎がやがて迎えるであろう臨終を前にその在り方を遺しておきたいというものである。

 では、長崎の臨終とは何を指すのか。

 それは、過疎化によって人が失われることもそうであるが、その後、急速に人口が回復したとしても避けることのできないものである。

 では、長崎の在り方とは何を指すのか。

 それは、別の拙著の中で語り尽くしたいと考えているが、ここではそれを掻い摘んでみていくことができれば、と思う。


 私は長崎市愛宕の生まれであるが、行政区分によるよりも白糸という方が馴染み深い。

 家の近くには白糸市場があり、小学校の高学年に差し掛かる頃には失われたように覚えている。

 坂を少し上ったところにある市場に行けば日用品は何でも揃い、子供も安心して買い物をすることができた。

 その一角にあった総菜の店「にしたに」さんは色々と手ずから作る母も時に利用する店であった。

 こちらのコロッケはしっとりとした甘みがあり、子供の頃はこれに少しソースを垂らして頂くのがなによりのご馳走ちそうであった。

 成人してから自分でコロッケを作る機会があったのだが、その手間の多さにかの総菜屋の女性がいかに手をかけて作られていたのかが蘇ってきたほどである。

 また、同じく軒を連ねていた「甲田鮮魚店」で買い求めた魚は、いずれも良い品を揃えており、やがて稲佐へと移転されるのだが、それまでは買い求めたカマスを焼いていただくのが私の秋の楽しみであった。

 この市場にはよく近所の人も訪ね、中にはケロイドや夥しい水膨れを残す老女の姿もあった。

 これが日常であったのは、原爆というものがまだ歴史に埋もれる境であったからだろう。

 やがてこの市場は櫛の歯が抜けるように店が消え、今では綺麗に無くなってしまった。

 そして、ケロイドや水膨れの女性もまた、私の記憶の中に隠れてしまった。


 失われたものとしては喫茶店もその一つであり、今の浜町はまのまちはカフェによって征服されている。

 老夫、老女の社交場が失われた今、この繁華街での買い物――浜ぶらというのだが――の後にその疲れをどこで癒して帰るのだろうか。

 こうした店の一つであるウミノは以前に別のエッセイで紹介したのだが、他にも私の旧友の父親が営んでいた店もあった。

 浜町アーケードからは外れていたのだが、母に連れられて一度だけ伺ったことがあり、不思議な丸いガラスにまずは息を呑んでしまった。

 それがサイフォンという名前を持つというのは後から分かったことであるが、アルコールランプに火を点けて、丸底フラスコの水が湧き上がったところで漏斗ろうとを差し込むと、瞬く間に湯が上へと昇っていく。

 魔法でもかけられたように魅了された私は、紅茶とケーキを恍惚としていただいた。

 この級友であるが、笑顔の似合う素直な少女であり、どこか天然の気質もあったがややエキゾチックな顔立ちがやがて至るであろう美女の萌芽を見せていた。

 母を小さい頃に亡くしており、やがて父親が再婚した際には兄ができたということで喜んでいたように覚えている。

 ただ、この兄とはそうとも知らずに諏訪の碁会所で出会っており、美少女ゲームを好み同窓とつるむことを知らぬ者であった。

 彼女にとって幸せだったのだろうか、ということを碁盤を挟んで考えたこともある。

 やがて、無くなった喫茶店のように彼女との縁も、その兄との縁も絶たれたが、風の噂で離婚したということを耳にした。

 私は彼女の今の横顔を知らない。


 長崎の在り方を確かに残すものの一つとしては、とんかつ屋である浜勝の本店がある。

 広い二階も持つこの店は、しかし、清潔なカウンターでいただく方が私には好ましい。

 チェーンの店においても落ち着いた内装をしているが、本店のはそれをより純粋培養して一昔前の長崎の香りを保存している。

 そこで頂く本寸法のとんかつを日本酒で迎える愉しさといえば、頭に文明開化が伝わるような面持ちがする。

 こうした店をして私達は贅沢な店としており、小学校の頃の担任と級友との会話に凝縮されていたように思う。

「そういえば、今日は結婚記念日だった」

「食事はどこで食べるんですか」

「そうだなぁ、何か特別なところに食べに行くかなぁ」

「じゃあ、浜勝がいいんじゃないんですか」

 この後笑いが沸き起こったのは言うまでもないが、そうした使い方をしても遜色のない店である。

 ご不浄に気を配る店であるのも有名だが、華々しい皿の上だけではなく、見えないところへの気配りというのは本店の名を辱めぬという不断の努力によるものである。

 新鮮な油の香りが給仕の活気を瑞々しいものとし、食を愉しむ喜びをさらに高めてくれる。

 長崎で希望を見ることのできる店の一つであるが、暫く伺ってはいないため今はどうなっていることかと思うところでもある。


 久しぶりに帰省した際に焼き小籠包なるものを売る店ができており、それを以って長崎の新名物にとする看板がいたく目についた。

 長崎でこうした名物といえば、角煮まんではないのかと思われる読者も多いのでないかと思うが、私にはぶたまんの方がより好ましい。

 角煮まん自体はいただいたことがあるのだが、普段からいただけるほどに手軽なものではない一方で、ぶたまんは何とも手軽である。

 表記をわざわざ「ぶたまん」としているのも、肉まんとは異なり三口みくち大の小ささであり、また、中からあふれ出す肉汁も大蒜にんにくの香りも遥かに雄大だからである。

 「午前様のお土産に」という看板を掲げる店もあり、幼少の頃の私はこれを朝から持っていくという無作法もあるのかと首を傾げていた。

 今では私も午前様。

 しかし、家への土産として持って帰ることはない。

 話が逸れてしまったが、こうしたぶたまんを売る店は街中に複数あるのだが、このうちの一件に友人の母親が任されていた店があったのであるが、数年前に身体を壊され店番が変わってしまった。

 街へ出る度に声をかけられしばらく立ち話をするのであるが、今はあの威勢のいい声を聴くことも叶わない。

 ただ、先の焼き小籠包の店もいずれそうした根をこの地に張ることができれば、とやや歓迎する私があった。


 この芽吹き 馴染むか果ては 仇花か 繋ぎしものを 託す余所よそ

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