第32話 旅先の食

 鈍行を中心とした旅に出ると、駅弁という選択肢が脳裏を掠めるのであるが、思い返していると然程に駅弁を口にすることはなかったように思う。

 この主因としては金のない旅に徹していたということが挙げられるが、その一方で今の鈍行列車は通勤型車両も多く、ボックスシートが取り入れられていないことが多いことも挙げられる。

 人から見られるのが恥ずかしいという少年のようなじれったさは持たぬのであるが、それと同時に、酒の置き場が必要であるという呑兵衛としての矜持も持っている。

 折角の旅なのである。

 ただ旅先で弁当を愉しむだけではなく、それと車窓と訛りを肴に酒をいただきたいではないか。

 こうして、私の理想とする駅弁像を得られぬままに旅を続けてしまい、結果として弁当をひとつも手にせぬまま終わる旅が多い。


 その一方で、学生の頃は「全国の駅弁市」という催事を見かけると、胸が躍って買いに走った。

 自宅で車窓を思いながらいただく食というのは美味しいものなのであるが、旅を重ねるにつれ、これもまた遠ざかってしまった。

 やはり、駅弁は旅先で頂いてこそその旨みを最大に活かすことができる。

 ただ、家で頂いた駅弁も決して悪いものではなく、そこで重ねた予行練習があったからこそ、旅先での美味に出会うこともできた。

 佐世保のレモンステーキなどその筆頭であっただろう。

 そして、旅に出られぬ今はそうした催事があれば飛びつきたいものであるが、中々目にせぬという竹箆しっぺ返しを食らっている。


 私が最も愛した駅弁は焼売の弁当である。

 こう聞くと東は横浜の崎陽軒を思い出す方が多いのかもしれないが、私にとってのシュウマイ弁当は、鳥栖は中央軒の「焼麦しゃおまい弁当」と「焼麦しゃおまい」である。

 この弁当は再加熱が可能という訳ではないのだが、車窓で開くとその香りが辺りに漂い、香りの騒乱状態となる。

 最近では「香害こうがい」なる言葉もあるようだが、旅先では少々大目に見ていただけると有難い。

 小ぶりなものを一つ一つ丁重にいただきながら、麦酒を口腔一杯に広げ、筑紫平野や九州山地の雄を眺めていると、

(ああ、これから旅が始まる……)

という思いで胸がいっぱいとなり、否が応でも期待に笑みが零れ出す。

 傍から見ればしがない酒飲みの姿なのであろうが、それも車窓に在っては絵になるさと開き直るほどには、居直ってしまっている。

 こればかりは旅路でなければどうしても味わえぬものである。


 印象的な旅の食といえば、以前に紹介した京の正月の卵かけご飯があるが、それと同じようなものとして肉まんがある。

 大学二年の冬でなかったかと思うが、九州を列車で一周した際に門司港駅へと終電で降り立ち、近くにあるというインターネットカフェに立ち寄ろうとした。

 以前、伺った際にそれがあることを車窓から認識しての行いであったが、話を伺ったところつい先ごろ閉店されたという。

 ホテルも覗いてみたが、とても出せる金額ではなく、二月の門司港で一晩を過ごさざるを得なくなってしまった。

 玄海灘から吹き寄せる北風のなんと厳しいことか。

 立ち寄ったコンビニで暖を取り、肉まんとホットレモンを買い求めて外で食す。

 その時に得た温かさというのは格別で、空き交番の椅子で寝ることを思いつくまで希望を繋いでくれた美味であった。

 今はもうあのような無茶な旅路をせぬよう心がけているが、あの肉まんの豊かな味をもう一度味わいたいという自分がいるのもまた事実である。


 修学旅行で頂く食事というのは、生徒児童にとっては目を剥くようなものであるが、高校時代の修学旅行では急に高熱を出して頂けなかったことがある。

 持っていたカロリーメイトを摘まみ、担任の先生や他の急病人と共に病院へと担ぎ込まれたのであるが、病院名を告げたところでタクシーがどこに行くのか分かってくれぬ。

 他にいくつかの拠点を伝えてやっと向かうことができたように覚えているが、これを担任と二人で笑った。

 そして、病院では、

「いやぁ、あの子も大変そうですね。大丈夫だといいんですが」

「心配しているお前が、二番目に熱が高いんだけどな」

と担任とやり合った。

 結果として大事には至らず、翌日にはネズミの国を闊歩する少年の姿が見受けられたそうだが、彼は友人に、先輩の有難い話を聞かずに済んだのはよかったと笑いながら言っていたという。


 旅先ではどうしても間食が多くなる。

 気になった店に立ち寄っては、つい何某なにがしかを買い求め、それを道すがらいただくというのは逆らいがたい欲求である。

 その分だけ旅空の下ではよく動き、エネルギーを消費するというのもあるのだろう。

 何気なく立ち寄った肉屋で、揚げたての唐揚げを袋に詰めてもらい、畦道で頂く楽しさ。

 異郷の百貨店で頂く、濃く煮つけられた玉蒟蒻に芥子を付けたものの味わい。

 車内で過行く風を浴びながら頂く、揚げ蒲鉾の至福。

 いずれも家で頂くこともできるものであるのだが、その時の絵と合わせると乗算となって幸せが増す。

 地のものは地で頂くべしというのは、何も環境に限った話ではない。


 宿に泊まれば豪華な食事を求める気持ちもあるのだが、ホステルで安く済ませるときに行き交う人々の持ち寄る食事というのもまた良いものである。

 浅草のホステルで酒と安い弁当を買い込んだ私は、共用室で晩酌をしていたのであるが、そこに広がる食卓はことに豊かなものであった。

 その中でも特に印象的であったうちの一人は韓国からの旅行客で、純白のワンピースに白菜を入れた辛ラーメンという対比が味わい深かった。

 華奢きゃしゃな身体の中へと吸い込まれていくものを見ていると、その鮮やかな朱色に吸血鬼のある宵を思い描いてしまったのはあまりにも想像が豊か過ぎるか。

 そして、もう一組の男性二人組は楽しそうに焼きそばを作ろうとされており、その危なっかしい包丁使いを見て私は思わず手助けに入ってしまった。

 拍子木となっていた人参を薄く切り分けてから晩酌に戻ったのだが、この酷い野暮にお二人は礼を述べて下さった。

 それから慣れぬ手つきで悪戦苦闘しながら鼻歌交じりで麺やら具やらを炒めた二人は、皿を前にして静かに十字を切った。


 往来の じる安宿 この宵は ただ世の様を 絢爛けんらんと知る


 ドイツとカリフォルニアから来たお二人は、何とも美味しそうにその一杯を召し上がっていた。

 私の酒もまた、より旨くなった。

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