第31話 江戸の粋

 首都東京は日本でも最大の都市であり、それに応じて様々な店が軒を連ねる。

 その中には飲み屋もあれば、秘め事を行う店もあり、当然のように飯屋も多くある。

 それは、太平の江戸の世から始まった街の在り方であり、震災、戦災、経済成長を経て今の姿を見せる。

 火が点けば消し炭になるような街並みは、今や摩天楼に囲まれ、大火に見舞われる恐れは減ったものの、さらに別のものを失ったようにも見える。

 そのような都市を「東京砂漠」と評することもあるが、高校二年生の冬に部活の関係で尋ねた際、その姿に圧倒され呆然とした。

 その夕食は部活の顧問に連れられたチェーンのとんかつ屋であったが、街並みにてられていたのか胸やけを起こしてその晩は部屋で寝込んでしまった。

 その時に感じた、長崎との違いは未だに私の中にとどまっており、今では熊本との違いとして厚く堆積している。


 一方で、初めて東京を訪ねたのは高校一年生の夏であり、高校の研修旅行ということで当時の先端科学に触れて回った。

 その中で、東京大学の有名な学生食堂に立ち寄ることもあったのだが、最高学府を支える食というのはこのようなものかと溜息が止まらなかった。

 その前に別の大学で理工系キャンパスの学生食堂を利用しており、比較対象があったというのもそうした思いに拍車をかけた。

 広々とした空間に行き交う人の流れは、それまでに見た食堂の在り方を蹂躙し、それでいて絵画や書籍を持つ学生がアカデミアの香りを漂わせる。

 学生運動を象徴する事件があった地下に、今やこのような空間があるというのは皮肉と言うべきなのか、それとも現代の有難さと言うべきなのか。

 いずれにしても、機会があればまた訪ねたい食堂の一つである。


 東京に初めて一人で伺ったのは学生の頃であったが、それ以降、欠かさずに立ち寄るのは駅の立ち食い蕎麦である。

 初めの頃は駅構内にある店で頂いていたが、一昨年に訪ねた際には立ち食い蕎麦の専門店も訪ね歩いた。

 決してたいそうな味という訳ではないのだが、立ち寄るたびに覚える安心感を何と表現すればよいのだろうか。

 西日本ではこれをうどんに置き換えなければならないのだが、江戸のフェストフードである立ち食い蕎麦をいただくと、連綿と続いてきたものが見えるような気がする。

 それは、神社再興の碑の由来が震災によるのかそれとも戦災によるのかも知らぬ巫女が御朱印帳を書く姿とは対を成すようで、その実は元より人の往来の激しかったこの街では変わらぬ姿なのだと思い知らされる。

 その場に在る人々はみな、砂漠の隊商のように各々が旅路の先にこのオアシスへと集い、また、各々が旅へと出る。

 私もその一人であり、だからこそこの一杯を求めに行くのだろう。


 麺といえば、浅草演芸ホールに立ち寄って寄せを愉しんでいると、突如として木久蔵ラーメンの販売が始まった。

 林家木久扇師匠の手で描かれたラーメン天狗を看板にしたその品は、一門の弟子の手によって次々と売られていく。

「落語の修行ではなく、ラーメンを売らされる」

 耳にしたことのある諧謔かいぎゃくを目の当たりにして苦笑した私は、しかし、これ以上はいらぬと悲鳴を上げる鞄を尻目に一つ買い求めた。

 これを家に帰ってからいただいたのだが、看板に偽りありで誠に美味しいものであった。

 いずれ訴えも起こさねばなるまいとうちみながら箱を眺めていると、その内側にこのラーメンが生まれた経緯いきさつが書かれていた。

 戦中に生まれた木久扇師匠は番組で見せる笑顔と剽軽ひょうきんの裏側で山あり谷ありの人生を歩まれているのだが、その中で出会った中華そばの素晴らしさに感銘を受けたという。

 その感動を伝える一品は、無論、微かに金の匂いもするのだが、なに人に笑いをもたらす上での匂いであれば、それもまた心地良い。


 新しいものが次々と現れては消えを繰り返すこの街は、しかし、古いものを今に留めることも忘れない。

 浅草に在る酒屋は以前にも紹介をしたが、少し離れたところには煎豆や落花生などの豆菓子を専門に扱う店もあった。

 外に開かれた店は、ビルディングと自動車に囲まれながら、瓶や木製のガラスケースという今にしては歪なものの中に商うものを詰めている。

 はじき豆を一袋あがない、それを宿でゆったりといただく気分というのはそれが令和であるのか昭和であるのかを忘れさせるものであった。


 浅草にはこうした店が多く残されているが、喫茶店もまたカフェではない在り方をしかと残している。

 立ち寄ったその喫茶店は、若者のたまり場などではなく、黄金週間の合間をして馬券売り場の様相をていしていた。

 競馬中継を眺めながら、時折手許の新聞に何かを書き込む紳士淑女の合間を縫ってお店の方はしきりに動かれる。

 供されたオムライスには味噌汁が付き、お手元と共に出されたさじには紙ナプキンが巻かれている。

 これが堪らなく嬉しい。

 きゅっとした酸味が運ぶ昔の香りは、しかし、この店の中に在っては確かな現代性を持っていた。


 そして、浅草の街に出るとついつい立ち寄ってしまうのが「神谷バー」であり、我ながらミーハーも良いところなのであるが、やはり「電気ブラン」をいただいてしまう。

 無論、チェイサーに麦酒をいただくのも忘れない。

 甘いその一杯は、三十度という強さを忘却の彼方へと追いやり、くいと傾けさせようとするから中々に危険である。

 ここもまた、仲間のあるなしにかかわらず、出自の如何いかんにかかわらず、己がままに任せて酒を楽しむことができる。

 喧騒は合奏に似て酒の席とでも言うべきか。

 酒文化のやや下火になりつつ現在においても、こうした場が燦然さんぜんとした輝きを持つというのは、これほどに頼もしいこともない。


 こうした輝きを見て回った一昨年の黄金週間の末であったが、光の裏には影があるのもまた真理である。

 あるかつ丼のチェーン店に小腹が空いて立ち寄ったところ、店は留学生と思しき方三名によって切り盛りされていた。

 日本人が喜びと休みを謳歌する中、異国の地に暮らす彼等は何を思うのだろうか。

 無論、それはその前後で回った店の方々も同じである。

 そして、立ち去る際にただ一人、ごちそうさまと声をかけた私は、外で再び店に向かって深々と礼をした。


 柵は 虚ろに消えて 蜃気楼 涙も消える 乾きの果てに

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