第23話 インスタント麺の解すもの

アレルギーなどもあって、私がインスタント麺を初めて口にしたのは中学生になってからではなかったかと思う。

その時は禁忌に足を踏み入れたような思いがして、堪らなく甘美なものであったのだが、その実はチキンラーメンであり、今にして思えば何の変哲もないものである。

それから二十年ほどが過ぎ、今では日常生活の一部となっているが、それを振り返ってみるのも一興ではなかろうか。


先にパンの話をした際に、繁忙期となるとその忙しさの度合いによって食が変わると記したが、比較的にしても余裕がある際には同じ種類のカップ麺を連日の昼食とする。

これに対して職場の先輩は、

「もう舌がダメになっているんだろうなぁ」

と心配をされていたが、その実は同じ食を繰り返すことで一つの型に自分を当てはめようとしているに過ぎない。

朝の九時前にスーパーへと伺い、そこで悩む時間を極小化したいという思惑もないことはないが、残念ながら味で悩むためこちらは効果が薄い。

こうした食事の在り方は、前職でも二週間通してカレーを昼食に取り続けた例や繁忙期前の夕食を卵かけご飯と白菜漬けの例など複数存在する。

この時の条件は可能な限り単純な食事であること。

こうした時にいただくカップ麺は、期間限定のものやあまりに好みに過ぎるものではない方がよい。

あくまでも繁忙を日常の一部にするために食自体を絞っているのであり、そこに特別感を与えてしまえば全て台無しとなる。

だからこそ、冒頭の先輩の揶揄に繋がるのであるが、逆に同じものを食べさせておきながら半月ほどは飽きを感じさせないカップ麺も素晴らしい。


こうしたカップ麺には期間限定商品も多く、平凡な日常に少しの鮮やかさを与えてくれる。

失敗した、と思う商品を手にすることもあるが、それもまた人生の起伏に似て一興である。

中にはある個性が強すぎて扱いに困るものもあり、先日発売されていた「わさびを利かせたおろしそば」はその代表である。

味自体は関東に近い濃厚な甘汁なのであるが、大根おろしを加えることで甘みが少し出て全体の深みがぐっと増す。

ここまでは良いのである。

ただ、これに山葵わさび香料の入った調味油を加えると辛味が利いて全体が整うのであるが、この香気が問題なのだ。

初めてこれをいただいたとき、西洋山葵の強烈に刺激的な期待の塊が肺胞を充足し、散弾のようにその壁を貫いたのである。

そのあまりの刺激に悶絶しながら咽び、そのまま椅子から転げ落ちて只管に咳込んだ。

この様子を見た上司が心配して声をかけてくるのだが、それに答えることすらままならない。

復帰までに四、五分を要したのであるが、そのまま恐る恐る食べ進めて完食した。

この後、リベンジマッチのように買い求めてはいただいていたのであるが、その度にやはり肺に届く山葵の刺激との闘いとなる。

開発された方はよほど食べ方が上手かったのだろうなと感心したのだが、同時に味が好みであっただけに扱いに困ったものである。

今は店頭で見ることが無くなり寂しいものであるが、これにとり天を組み合わせた時の至福は初回の咳込みと共に私の海馬に収められている。


高級志向のカップ麺ということで、複数のかやくやスープの入ったものもあるが、それを見るにつけ基本的に何も加える必要のないカップヌードルの偉大さを痛感させられる。

この商品があさま山荘事件で警官の食べる姿を呼び水として広まったという話は有名だが、確かに、こうした時に手軽に食べられ身体を温められるというのは有難い。

キャンプに合うのも基本的にはこうしたカップ麺ではなかろうか。

その一方で、待ち時間が長かったり、複数の小袋を駆使したりして作り上げるカップ麺はデスクワークで荒んだ心を大いに盛り上げる。

特に、ノンフライ麺は待ち時間が長くなりやすいが、その合間の高揚感というのは起伏のない日常に在っては代え難いものである。

後入れの調味料やらかやくやらを入れるように求められるのも、逢引の女性に待たされるじれったさに似て愉しいものである。

常に余裕を持てという言葉は、カップ麺からも発せられるものであるらしい。


台風などの災害を前にして、備蓄用のカップ麺を買うこともあるが、早めに準備ができる場合には油揚げ麺を多くするようにしている。

ガスや電気が使えぬ場合、湯を確保することができずに水を用いることとなるが、油で揚げた麺の方が調理時間が短く済むからである。

油の酸化の問題もあるが、備蓄期間を短くできる独り暮らしであれば大きな問題とはならない。

油の酸化が気になるようであればノンフライ麺を準備する方がよく、熊本地震の際に長崎で購入した大量のカップ麺を消費していて、最後の方は酸化した油の臭いに苦しめられたという経験則もある。

昨年の台風の際にはこの時の経験を生かして最長二週間を想定した備蓄を行ったのであるが、この時に準備したものは難なく消費することができた。

歳をとるというのは災害と葬儀に慣れるということなのかもしれない。


袋麺についてはどうしても鍋という洗い物が出てしまうために利用回数が減ってしまうが、それでも一人暮らしには欠かせぬものである。

一方、熊本で時に伺う雀荘ではそれが見事な一品へと変貌を遂げる。

恐らくサッポロ一番の味噌ラーメンを利用されているのだが、溶き卵を同じように準備してもその味に至ることができない。

鉄火場に不似合いな温かさは、それだけで印象を大きく変えるのかもしれないが、それ以上に商品として出すという覚悟の差がそこには在るのかもしれない。

そして、自分でこうした袋麺を調理する際には、種々の野菜を入れることがある。

そうした時に便利なのはコンビニで売られている冷凍野菜やカット野菜なのであるが、これを軽く炒めておくという手間については気にかかることはない。

既に洗い物が出ることが確定している以上、大きな差はないという腹の括り方である。

しかし、そうした具材を一度は丼に上げ、後に麺を茹でた鍋へと入れてから盛り付け直すことで洗い物を減らそうとするせせこましさも残っている。

こうしてできたラーメンがなんだかんだで最も身体にしっくりくるというのは何とも皮肉めいている。


簡略も 気怠しされど 腹は空く 三十路寡の 詮の無き宵

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