第19話 おでん狂想曲

冬といえば鍋物が我が家の主体であるが、それと同じようにおでんもまた食卓を彩ることとなる。

自分で作っても良し、出来合いを買ってきても良し、食べに行くも良しという隙のない逸品なのであるが、少年期に家で見た回数はそれほどに多くはなかったように思う。

別の拙作で恐縮ではあるが、旨いおでんを出すスナックがなくなってからは年に一度か二度見ればよい方であったように思う。

今になってみれば、その理由が準備の大変さに比べてあという間になくなってしまうことにあったのではないかと察せられるが、当時は滅多に来ないその味を喜んでいたように思う。

変わり映えのする食材があるわけでもなく、大根と玉子と蒟蒻に厚揚げがあれば我が家では十分に土俵へと上がることができていた。

無論、それだけで終わりということではほぼないのだが、例に漏れず私にとっておでんの主役は大根である。


今の私がおでんを作ろうとすると、まずは大根と玉子の仕込みを行う。

卵を茹でる合間に大根を切り分け、一度電子レンジにかけてしまう。

余裕があれば米のとぎ汁で炊くのであるが、そのような手間を自分だけのためにかけたのは酔狂で作った一度きりである。

加えて、煮込み時間が短く済むように二口大に切り分けることが多い。

面取りをすることもあるが、大抵はそのままの形で煮込んでしまい、大根も一本丸ごと使ってしまう。

根の先の方は辛味が増すのであるが、おでんを一度炊いてしまえば大根を使う料理をすることは暫くないこともあって気にせぬようにしている。

卵は茹で上がった端から殻を剥いていき、張った出汁へと放り込む。

大方の場合、これまでに二十分ほどは過ぎてしまっており、さらに煮てから味が染みるまでに冷ますという過程も必要であるため、実際に食べるのは翌日だ。

そのため、おでんを仕込んだ翌日は仕事に気が入り、終業後は帰宅の意志が全身に漲ってくる。

そして、家に帰って温め直す間に電子レンジで日本酒に燗をつける。

ずんぐりとした白磁の徳利は、しかし、書かれた漢文の力によって洗練されたものへと転じていく。

「澤ハ山下ニ在リ其ノ気上ニ通ズ潤ハ及草木百物」

中身が異なるのはご愛敬というものであるが、それでも、酒が五臓六腑に染み渡ると乾いた三十路男の身体にも何か新鮮なものが流れてくるような思いがする。

そこへ、まずは大根を一つ摘まむのであるが、その温もりはさらに酒を勧めようとする。

あとはいつもの晩酌となるのであるが、冷えた寝床が待つだけの男にとってこれはこたえられないものである。


とはいえ、味そのものは確とした腕を持つ料理人のいるお店で頂くものの方が良い。

以前、専門店の中でもやや敷居の高いところへ伺ったことがあるが、いずれも煮込まれたものをそのまま出すのではなく、一仕事加えてある。

瀟洒な姿をしたおでん種は私をも格調高いものにしようとし、おだてられた私も小粋を気取って酒を傾ける。

なに、酒場は浮世と離れたものさとうち笑いながらではあったのだが、天性の野暮はこの程度で治るものではない。

お隣の淑女お二人がゆったりと飲み食いされながら、あれこれと話に華を咲かせている。

あのおでん屋のカウンターには、しかとした出汁と鮮やかな香水の香りが置かれていた。


気取ることのないおでん屋もある。

これも別のエッセイで述べたことであるが、長崎は銅座にある「桃若」さんは呑兵衛としての素顔と少年としての仮面を共に見せることのできる場である。

大きなおでん鍋を囲うカウンターの一角に陣取り、中身をゆっくりと眺めながらその日のアテを選ぶ。

話の種は取り留めもないもので、若大将のお子様の話などを伺うと燗酒が何故か旨くなる。

ここで大学の教授と鉢合わせしたこともあるが、おでん鍋の前にはそのような垣根などない。

役者の揶揄に使われる大根が主役を張り、牛筋が引き立てに回る鍋を前にしては、等しく人であり、等しく酒飲みである。

そして、白菜がおでん種になるというのもこの店で知った。

鍋から転じても温かく迎え入れる鍋と店の在り方がこの上なく嬉しかったのを今でも容易に思い出すことが可能である。


熊本でもおでん屋に行くことはあるのだが、私が以前足繁く通ったアニソンカフェバーの下にもおでん屋があり、そこもまた和やかなひと時を過ごすのに適している。

そのカフェバーを主に切り盛りしていた女の子もそこに行くことがあるという話を聞き、盛り上がったこともある。

その店も女の子もどこかへ消えてしまったのであるが、それはまた別の話。

おでん屋だけはなおそこに在り、コロナ禍が過ぎた暁にはまた伺いたい一軒である。


コンビニのおでんもまた、私の生活には欠かせぬものである。

冬場の冷え込みが私に人肌を求めさせる夜は、コップ酒と合わせて帰りに買い求める。

牛筋、大根、玉子と押さえたうえで、後はその時の気分に任せるのであるが、それを一人でやる愉しさもまた良い。

 この宵は コンビニおでん コップ酒

という迷句を生み出した私は、そこに在る寂寥感よりももっと別のものを描こうとしていたように思う。


そして、一人で作るおでんの究極の形が「クッキングパパ」は二五巻にあるぐーたらおでんである。

おでんの種が大根、蒟蒻、牛筋の三種のみであることから「具が足りない」ことと、作り手である田中さんの「ぐーたら」な性格とを掛けた名付は傑作である。

これを読んだ幼少期、こうした在り方を情けないと思うほどにはませた小僧であった。

荒岩主任(当時はまだ昇進の話をしらなかった)のような在り方に憧れ、こうした家庭を築くのだと気負っていたように思う。

それが、今や我が家のおでんには牛筋すら入らぬことが多い。

蒟蒻も臭みを取ることが億劫で入れぬこともあれば、簡略にしたものを入れることもある。

このような在り方を、当時の小僧が見ればなんと言うだろうか。

また、それを聞いた今の私は何と言うだろうか。

少なくとも拳骨の一つを落とすことに何の躊躇いもないことは確かである。


宵深し 玉子を友に 酒を酌む 割れば三人みたりと 笑う深酔ふかよ


なお、私のおでんで練り物が登場するのは最後の日である。

足が早くなるという私の経験則によるのだが、鍋を分けることを知らぬ私はこのおでんにどのような「名前」を付けるべきかと悩む次第である。

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