第12話 京の食景色

新たな年を迎えたが、それは心の区切りであり、物語るうえでの大きな変化はない。

特にコロナ禍にある今年はいつもよりもより自堕落に過ごす正月であり、せめて心を安らげればと祈る次第である。

とはいえ、どうしても家にいてばかりでは気が塞ぎがちになってしまい、世の中よりも先に自分の心が波乱に満ちてしまう。

それならば、と昨年のゴールデンウイークに昔の旅路を思い出しながら過ごしたのを習って、旅先での食を思い出して無聊の慰めとしたい。


京都を初めて訪ねたのは高校の修学旅行の際であり、その夕食は何の変哲もない団体旅行用の食膳であった。

それでも、一日中今日の街を駆け巡って友といただく食事というのは何よりも美味しいものであり、何よりも愉しいものであった。

無論、酒はない。

ただ、酒が常に付き纏う今の食膳と比べ、どちらが幸せかと問われれば返しようがないというのもまた事実である。

いずれにせよ、修学旅行の宵も今の酒場での晩餐でも大いに笑ってしまう。


京都らしい料理を初めていただいたのは就職した年であり、二三の時である。

京都の料亭ではその持て成しを充実させるべく、一言さんお断りを掲げるところも多く、小料理屋に入るにしても珍しく気が引き締まった。

ミニ懐石として供されていたものを二合ほどで頂いたのであるが、特段に美味しいものであったかと言われればそこまでではない。

しかし、仕事ぶりに丁寧さが見え、値段に見合った仕事がされており、穏やかな雰囲気が整っていればそれだけで満足である。

酒で火照った顔を引き連れ、鴨川沿いを歩く楽しみというのは自分が劇画か何かの人物になったような心地にさせ、同時に何者でもないことを痛感させた。


話が逸れるが、先の「一見さんお断りの話」は決して今ある客にのみ力を注ぐべく出されるだけのものではない。

馴染みの客であれば、その性格や好みを理解しておりそれに合わせた持て成しをすることができるが、一見さんとなるとそうはいかない。

そうなると十分な持て成しを一見さんにはすることができず、結果として持て成しに差が大きく出てしまう。

それでも良いというのは客の論理であり、それと同じように、それではいけないとする店の矜持もまた愛されてしかるべきではなかろうか。

故に、そうした店であれば紹介や常連に連れられて行けば良く、今の私には最も縁遠い世界と言える。

とはいえ、他人のうちに土足で上がり込むというのも野暮であり、機会があればと呑気に構えている。


さて、話を戻すとそれからも京都を訪ねることはあったものの、一昨年の夏に京都を訪ねた時が最も充実した食膳であったように思う。

夜の九時頃に到着した私は、久方振りに京の夜の路地を愉しみ、それから一軒の居酒屋に立ち寄った。

キリンの中瓶で始めたのであるが、里芋のビシソワーズ風が突き出しとして出てきたことに驚き、常連と思しき外国人女性が愉しげに日本酒を傾ける様に圧倒された。

四十の半ばほどであろうか。

金髪の合間に白いものが見え、店主との話題だけを耳にすればどこの居酒屋でも目にする光景となる。

思い返してみると、駅を出てから目にする人々の多くは異国の顔立ちをされていた。

異国情緒まで京都に取られたのかと苦笑した元長崎人は、出された万願寺唐辛子の旨みに酒を重ねた。

そこで、少し仕事の落ち着いた店主との話に移るのだが、

「では、京都には何度もお越しになっているですね」

「ええ。何度来てもいいものですね」

「でも、もう見るものもないんじゃないんですか」

「そんなことはありませんよ」

「何か見て楽しいものでも」

「辻斬りでもありそうな、不気味な夜の路地が最高ですね」

この一言で完全に勘違いをされてしまったらしい。

「いえ、まあ、確かに昔はやくざの方も多かったからですね」

「まあ、そうでしょうね」

「それでも、今はそこまでではありませんよ」

困惑した店主を尻目に、ハイボールで生麩の田楽をいただいた。

やってしまったなあ、という思いと共にこうしたやり取りの愉しさは何よりである。


その居酒屋を出て、再び京の闇に身を委ねる。

熊本も街中を外れれば街灯は少ないものの、京都は一つ路地に入ってしまえば夜に支配されてしまう。

景観保護条例などでその街並みを維持しようとする取り組みがあり、古い町並みの保存に熱心ではあるものの、昔の景色とは大いに異なるものであろう。

昭和の香りも、明治の風光も、化政の在り方も、元禄の繚乱も遠くなってしまい、それを建物に求めることはできそうもない。

しかし、この闇の深さは幕末の辻斬りを彷彿とさせ、地の人の気配がないことも相俟って京の街が歩んできた歴史を感じられるように思う。

そのような路地の奥深くでイタリアンの店を見つけ、稚鮎の西洋風南蛮漬けで酔いを重ねた。

ここで締めれば格好が付いたのであろうが、京都駅に引き返した私はなか卯でかけ蕎麦の小盛をいただいた。


私にとって京都となか卯は切っても切り離せない関係であり、初めて一人で京都を訪ねた学生時代、立ち寄った店もまたなか卯であった。

正月であったために空いている飯屋が見当たらなかったこともあるが、このような店があるのかという興味が先に立って入ったことを今でも覚えている。

今にしてみればすき家の親戚でしかないのであるが、流石京都には洒落たものがあるなと井の中の蛙は思ったものである。

親子丼とかけうどんとが食い始めであったのだが、それに対する悲嘆も自分への憐憫もなく、旅行というよりも放浪に近い自分の有様に酔いしれた。

その後、清水寺を訪ねたことも記憶に残っているが、程よい人出の中を凛とした寒さに背を正していくのが心地よい。

そして、京都の市街を歩き回ってから土産などを買い、いよいよ帰る段となった。

夕闇が迫る中駅に辿り着いたものの、懐が酷く寂しいことに気付いてしまった。

そこで、駅のホームの立ち食いの店に寄り、ご飯と生卵で二百円ほどの夕食とする。

特別な食は何もない、しかし、往来の喧騒と行き交う列車の音の中で頂いた卵かけご飯は、京で頂いた中で最も鮮烈で最も濃厚な食であった。


花も実も 金も名誉も 能力も なくも笑うも 銀シャリの下


一昨年に訪ねた京都駅には白米が失われていた。

これもまた変化によるのだろう。

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