第11話 最後の晩餐

今年もいよいよ終わりを迎える。

今年一年を表す漢字が密と発表されたが、まるで五年も十年も老け込んでしまったかのような一年を今年は過ごした。

年の初めこそ、友人の結婚式という晴れやかなものであったが、その後は疫病と災害とが連なり、自粛要請もあって沈みがちな一年であったように思う。

この疫病は、特に現代社会において遠く隔絶されたものと考えられがちの死が非常に身近なものであるということを我々に知らしめたように思う。

臨終は病床や施設で迎えることが多くなり、爆撃や幼児死亡も目に触れなくなっている。

それ自体は悪いことではないが、その分だけ死が間近に迫ってきた時の恐怖感は大きくなっている。


ただ、人はいずれ死ぬ。


それは事実であり、だからこそ一日一日の生が精彩を持つようになる。

私にとって死は幼少のころから付き合ってきた相棒であり、執筆を進める際には常に頭の片隅へ置いておく。

そして、日常に置かれた死への実感は、食前のいただきますに集約される。

これが最後の一食になるやも知れぬという覚悟の下に、腹を満たしている。

とはいえ、年の終わりぐらいは自らの死期が分かり何でも食せるという妄想をしたところで罰は当たるまい。


さて、最後の晩餐というからには酒からして人生の幕を閉じるに相応しいものにするべきであろう。

まずはヱビスの瓶麦酒を蕎麦味噌でやる。

今やクラフトビールだの、プレミアムビールだの、季節限定商品だのと様々な商品があるが、私にとっての王道はこの一本である。

無論、普段は飲めない。

飲めたとしても缶麦酒がいいところである。

それでも、子供の頃から見慣れた光景であり、大人になって知った贅沢である。

最後に理想郷を臨んだところで叱られることはないだろう。

慌てずに一口ずつ注いでは飲み、息を吐く。

惜しむようにして味噌を嘗めればそれだけで十分なのであるが、折角の晩餐である。

次へと進むことにしよう。

白菜漬けと野沢菜漬けを小盛でいただき、ヱビスを空ける。

ラベルに鎮座する満面の笑みが輝かしい。


日本酒へと切り替え、鴨南蛮蕎麦を小盛でいただく。

最後の晩餐といえど、まだ抜きで頼むには小恥ずかしく、また、鴨南蛮は麺まで酒肴となるのでこの形で頂く。

汁を一口含み、酒をやって山椒をぱらり。

心にくべられた薪に火が点き、一心不乱で麺を啜り、酒を呷る。

鴨の脂と関東風の汁が織りなす掛け合いは、熟達した漫才のように鮮やかで、一部の隙も無い。

合いの手を入れるように酒をいただくのであるが、店であれば菊正の樽酒になるだろうが、熊本であれば通潤酒造は生原酒「初めのいっぽん」を軽く燗付けてやる。

搦手に長けたものや吟醸香の豊かなものでは、それらの良さが生かされることなく土俵を割ってしまう。

腰の据わった純米酒の味わいは一本芯が通り、見事に調和の華が咲く。

そして、葱。

鴨に葱とはよく言ったもので、褐色の川の流れに身を任せる白い姿は主役を陰に日向に支えようとする。

これらの食で楽しんだ後、鴨南蛮は蕎麦湯によって汁物に転ずる。

味噌汁も澄ましもスープも何せむに、ということでこれ以上に酒に合う伴は少ない。


ここで鮑の炙りと烏賊素麺をいただくのはあまりにも横道に逸れ過ぎであろうか。

高二の頃に対馬の友人の家を訪ねたことは既に述べたとおりであるが、その際に獲れたての鮑の刺身が供され、貝類についてアレルギーがよく分からなかった当時の私は泣く泣く食べるのを差し控えた。

あの時の悔しさは初恋の人に思いを告げられなかったことに次いで深く、いまだに取り返したいと思う過去の一つである。

楽しそうに食べる友人たちの顔を恨みこそしないが、羨望を以て思い出す。

ただ、強いて言えば鮑は火を通したいと思っており、最後の晩餐である以上は思うに任せていただこうと思う。

鴨南蛮が前になければバター焼きも良いだろう。

一方の烏賊素麺は、できれば自分で釣り上げたものをいただきたい。

大学三年の頃に乗船実習に参加し、二週間の天国と船酔いという地獄の先に迎えた最終日、希望者は船釣りを行うこととなった。

竿もないほどに単純な仕掛けで、軍手を嵌めて初秋の夜の海に向かう。

やがて、引っ掛かりを感じて急ぎ引き上げると、赤く染まった烏賊が船端に上った。

 羊水の ごと揺らぎけり 盆の海

これより四年ほど前に高校生の全国文芸コンクールで最優秀賞を取った俳句が不意に頭を突いて出たのであるが、この時の海は確かに揺らめいていた。

その時以来、烏賊釣りに手を出したことはないのであるが、最後にもう一度あの情景を収めたいと感傷があるのだろう。


海の幸を愉しんで再びおかに上れば終盤戦。

酒肴とおかずの横綱たる出汁巻き玉子を迎えよう。

ただ、その露払いに煎り銀杏で口を改める。

殻を割り、黄金の実を迎えて口に放る。

呑兵衛にとってこの一連の動作は慣れたものであり、だからこそ今宵は愛おしむように両手を用いる。

そして、出汁巻き玉子に相対するのであるが、実家を離れてからは中々良い出汁巻きに出会えず、いわゆる「おふくろの味」として諦めかけていた。

実家の蕎麦屋で出していたものであるから、おふくろを謳いながら、実際には父と母のいずれかが分からぬものである。

ただ、母の巻く出汁巻きは柔らかく、父の巻く出汁巻きは確とした弾力があった。

同じ材料と分量を使いながら差が出るというのは面白いが、大らかな母と気の細かいところのあった父の姿が浮かぶようで面白い。

話を戻すと、思い出によって良い出汁巻きの基準が上がってしまった私は、それでも、あるお店の出汁巻きと出会い感服させられた。

井の中の蛙であったことを肥後の地で知らしめた出汁巻きを止めに杯を置く。

残るマヨネーズも大根おろしも平らげて立つ鳥跡を濁さぬようにする。


締めは熊本の米と山葵とおかかによる山葵丼とする。

炊き立てのご飯を丼に盛り、鰹節を満開にし、摺った生山葵を豪快に盛る。

これに生醬油をかけまわして頂き、掻き込んで手を合わせる。

こうなればもう思い残すこともないだろう。


正月は 冥土の旅の 一里塚 晩餐もまた 逢坂の関


それにしても、先のない人間が他者の命をいただくのも考えさせられるところである。

鳴らぬ除夜の鐘に耳を澄ませ、止まらぬ煩悩を一つでも片付けられるようにしたい。

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