第5話 仏門のクリスマス

いよいよクリスマスを迎えたが、今年は本当に何もないクリスマスを過ごすこととなった。

彼女や家庭がないことで寂しいクリスマスを心配される私は、しかし、そのようなことには別に何も感じることがない。

正しくは、なくなった、とするべきか。

二十代の頃はそうした在り方を羨ましく思ったものであるが、三十路の今では夜の街に繰り出して楽しむ方が気楽でよいと感じるようになってしまった。

馴染みの女の子や店の男性と語らいながら、シャンパンなどを空け、豪快に散財する。

夜が明けてから財布の中身を見て後悔と愉悦との混じった奇妙な感情に挟まれるのがこの上なく愉しい。

しかし、それが今年はかの病原体せいで叶わぬものとなってしまった。

天災か人災かとんと分からぬという顔をしながらSNSでも冷かすより他にない。

せめて今宵は長たらしい昔語りを許されたい。


幼少の頃、我が家でクリスマスといえば八百万の神の一柱を祝う祭典であった。

母に訊ねたことがある。

「うちにサンタさんは来ないの?」

「うちは仏壇がある仏教徒やかね。キリスト教徒のとこにサンタは行くとよ」

子供に仏教徒という言葉を放った母はなかなかの英傑であるが、人を騙して世を嗤うことにかけては天下一品の人物である。

姉はその魔の手に屈し、酢生姜を口にして顔を歪ませたが、私は騙されるわけにはいかない。

母に続けて訊ねた。

「じゃあ、なんでクリスマスケーキは食べるの?」

「日本は八百万の神様ば信奉しよる。なら、キリスト教の神様の生まれた日ば祝うとは自然なことたい」

「でも」

「やけん、四月に仏様の誕生ば祝って甘茶ば飲むやかね」

子供の脳味噌ではこれが限界である。

納得した私はクリスマスケーキや鶏手羽のステーキなどをいただく一方で、クリスマスプレゼントはあったりなかったりという在り方を受け入れた。

故に、サンタが自分の親と気づくというイベントを経験することもなく、サンタからプレゼントを貰ったという周りを見て、キリスト教や隠れキリシタンの多いことだな、と感じたものである。

やがて母の言うことがどうやら違うらしいと気付くのであるが、それに対して特段の恨みも怒りも覚えることはなかった。

むしろ、今の私の宗教観はこの言葉から始まっており、四月八日には仏陀の生誕を般若湯で祝い、クリスマスにはキリストの生誕を聖杯で祝う。

要は酒を飲む口実という訳であるが、多くの人々の心を救ってきた宗教の創始者に思いを馳せたうえで頂く一杯というのもなかなかに乙なものである。


母の悪戯といえば、幼い私がクリスマスケーキの上に乗った砂糖菓子のサンタを口にしようとする際に、

「あいたたたたた」

と言って戸惑う様を愉しむというものがあったことを付け加えておく。

ひよこ饅頭や鳩サブレでも同様の被害を受けたことがあるが、今ではそのようなことを言われようと武士の情けとひと思いに頭からいただくようになるまでに成長した。


大学生にもなると、家族で過ごすクリスマスに別れを告げるのだが、当時の私は必死になってアルバイトが入ることを祈っていたように記憶している。

そうすることで、

「クリスマスは予定がある」

ということを言い張ることができ、彼女がおらずとも寂しくないのだと自らを慰めることができた。

アルバイトが終われば、近くの飲み屋で仲間や職員の方と飲む。

故に、私の学生時分のクリスマスは白木屋の味がして魚民の味がして和民の味がするのである。


就職をしてからは中国地方最大の歓楽街である流川の近くに住んでいたこともあり、クリスマスにそちらへ流れ出たこともあった。

しかし、最も印象に残っているのは当時の住まいの一階にできたレストランでのディナーである。

仕事を手早く片付けて帰り、お、こいつにも春が来たのかと錯覚する先輩の視線を浴びながら、予約していた店に飛び込んだ。

できて一年も経たぬ店内は私を含めて三組ほどしかいなかったように思うが、私はいつものようにカウンターに腰掛け、出てくる品々を愉しんだ。

このような時にイタリアンを一人で頂こうとする豪胆だか無神経だかを、当時は既に備えていたのであるが、このような客を受け入れた店主も豪胆である。

もうけを考えれば明らかに他の二組のようなカップルの方が良い。

それでも、店の温かな持て成しは平時と一切変わらぬ。

穏やかな笑みを湛えた店主と給仕の男性とが私の一手先を読むかのように動かれ、良いひと時を過ごすことができた。

私も負けじとビールの後にワインボトルを開けてその心遣いに応える。

瀬戸内で採れた野菜を基調に構成された品々は素材一つ一つが個性を放つ。

店主の味付けはそれを壊さぬためか繊細なものであり、快闊でありながら穏やかそのものであった。

たっぷりと時間をかけて飲み、食い、存分に酔った。

帰りはそのまま上へと行けば良いのだが、その僅かな道のりが酷く名残惜しく感じられた。


その頃、同じ課の先輩は美人の御新造とお子様に囲まれ、頻りに私へ、

「早く彼女を作れ、寂しくないのか」

と心配を孕んで言ってくださっていた。

揶揄からかいのみであれば何も感じない私であるが、私に妻帯などを勧める言葉の中で最も響いたのはこの先輩の言葉であったように思う。

ただ、響くからといって実行するとは限らない。

また、最後にお付き合いをしてからは独り身であることが堂に入ってしまい、後はないだろう。

子供の頃は先輩のような家庭を持っていることが当たり前のことと思っていたが、今はコンビニで買ったおでんとカップ酒を一人でやるのが日常である。

ただ、繰り返しにはなるが、夜の街に出られぬ悔しさに酒が苦味を増す。


サンタクロースのモデルとなった聖ニコラウスは、娘を身売りさせねばならなかった貧者に金を渡した伝説を持つ。

それゆえに子供の守護聖人としての役目を持つようであるが、このような時世に在っては身売りさえままならない。

聖人のように貧者を救う者もいない。

ただ、このような時だからこそ、垣根を超えてサンタクロースが至ればいいのに、と思うのはあまりにも子供染みているだろうか。


荷一つに 身一つ率い 夜を駆ける 男の姿 夜の街の顔


試みに、昨夜は靴下を枕元に用意して眠ってみたが、中は空のままであった。

仏門が悪かったのか、それとも大人であることが悪かったのか、それは分からずじまいである。

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