第4話 コンビニ弁当に見た闇と光

先日、会社が繁忙を極め、先を急ぎつつ某赤いコンビニへ寄った。

片手で持てる飯を買い、颯爽と会計を済ませて立ち去ろうとしたところ、

「あの、よろしければ、クリスマスの予約を行っていますので……」

と、白黒の案内を差し出してきた。

「いや、先を急いでますので」

と言って気障きざに去ったと思っていたのだが、車に戻るとその案内が助手席に座っている。

上目遣いで気弱そうに差し出してきた女性を前に逡巡しゅんじゅんして、生唾なまつばを飲んでからうやうやしく受け取ったのが現実であったのだ。

これが野郎相手であれば迷うことなく打ち捨ててきたのであろうが、どうにも妙齢の女性に弱いのが三十路寡である。

一つ舌打ちして、にやつく自分の顔をバックミラーで確かめ、駐車場をすごすごと飛び出した。


そう言えば、とこの時思い出したのは四年前の二月のことである。

コンビニの行事食を進んで予約することがなく、買い求めるにしても行事の後の値引きを狙う私が人生で初めて恵方巻を予約した。

ついてくる特典に惹かれたというのが一つの理由であるが、その予約はいつも帰りに酒を買って帰っていた店で行っている。

私の帰途には複数のコンビニがあるのだが、当時は家の近くのコンビニではなく、わざわざそのコンビニに立ち寄っていた。

それというのも、この店は季節商品の酒を値引きすることが多く、その値引き幅も大きかったからである。

加えて、当時きびきびと働いていらしたお兄さんが、

「もう少しすると、あのビールが安くなりますよ」

と教えてくれたものだから、足繫くその店に寄るようになった。

そして、この予約はそのお兄さんがいるときを狙って行った。

こうした商品にノルマが課されることは世の常である。

異郷の地で一人暮らすというのは心細いものであるが、こうした時に少し愉しくなれるのが嬉しいこともある。

家で安売りされた酒と恵方巻を並べて食べたのであるが、あくまでも太巻きとして切ってからいただいた。

それがいけなかったのか、あのお兄さんは今その店にはなく、酒の安売りもあまりしなくなった。


コンビニといえば、先輩との帰りしなの会話である。

「今日の晩飯はなんにするかねぇ」

「何にしましょうか」

私は自炊をすることもあるが、先輩はどこかで食べて帰るか買って帰る。

私も繁忙期に差し掛かると深夜営業をするスーパーに立ち寄ったり、台所に立ったりすることが億劫になり、コンビニ弁当で夕食を済ますことが増えてくる。

特に、今年は春から梅雨にかけてテイクアウトの利用を重ねていたため、自炊をする習慣が途切れてしまい、コンビニ弁当が自然と多数を占めるようになった。

加えて、某青いコンビニが変質を遂げてしまったがために立ち寄ることができなくなり、自然と立ち寄るコンビニも絞られるようになる。

結果として、毎晩のように近所の立ち寄ることになるのだが、十一月に差し掛かる頃にはマスクの中に籠った溜息が気になるようになっていた。


新商品でございます、という顔をして居並ぶ弁当。

昼に食べたでしょ、というお叱りをしてくるカップ麺。

向こうに同じものがありますよ、と諭してくる冷凍麺。

もう一品が皮下脂肪の元じゃないか、と笑ってくる総菜類。

いずれも異なる姿を見せながら、その隠した表情はいずれも同じであり、いかに気合を入れて食卓に並べたところでないはずの隙間風が冷たい。

それでも、一日の仕事を終えて翌日の英気を養うためにいただく晩餐である。

安易に妥協してしまえば私の生活に響いてしまう。

そのため、食品を丹念に見比べてどのような手を指すのかを、ドラマの主人公や棋士にでもなったつもりで入念に考えていく。

店員からすればいつレジに向かうかも分からぬ迷惑な客と成り下がってしまった。

また、私は人に見せる物語の主人公でもなければ、天才的な手筋を見せる人間でもない。

ごく平凡な、ありきたりな、それでいて自惚れた、しがない三十過ぎの男である。

深夜の街に煌々と輝く店の中で与えられる役目など、道化に過ぎない。

そして、選んで買っていただいた後に出てくる溜息は、翌日着けるマスクの中に逃げ込んでおり、その晩もまた入店と同時に溜息を吐くこととなる。


その溜息はまるで、

「いつまで、その自分であり続けるのか」

という諦観を持って私を諫めるようであり、また、

「コンビニの飯と今の自分とは写し鏡のようなもの」

と言って笑うかのように感じる時もある。

麺にしようが弁当にしようがパンにしようが、これは変わらない。

それを痛切に感じるのか、酒量ばかりが増えていく。

今年、腹に溜まってきたものは皮下脂肪だけではないのかもしれない。


こうした鬱屈を抱えながら日々を過ごしていると、溜息すらなく同じものをコンビニで買っていた時期を思い出す。

私が以前食品業界に勤めていた頃、埋まらぬ欠員に対処するため朝は五時から夜は十一時まで現場で働き、その後に自分の仕事を行っていた時期である。

一か月ほど休みなくそのような中で働き、吐き出す相手も上司に相談できる機会もなく疲労のみが蓄積していた。

転職の話をする際に、この時の経験から自分の勤めたかった業種でも体力が持つという自信を得て今の職に就いたという話をするが、それはあくまでも建前である。

この後、休みが取れる時期に入ってから即座に転職に向かって動き始めたのであるが、それまで持ったのは運がよかったのと心の支えがあったからである。

当時、地域限定で販売されていた「ぶっかけおろし蕎麦(千石台大根)」を私は毎晩のように買い求め、いただいていた。

子供の頃はよく泣いていた私であるが、この頃の私は泣くことさえも忘れ、粛々と日々を過ごし、粛々と蕎麦を啜っていた。

よくもまあ馬力の出なさそうなものを食べて過ごせたものだ、と今思えば感心するが、そこにはこれが最後の晩餐になっても良いようにという思いがあった。

故に、この一杯は私を文化的な人間として繋ぎとめてくれた命の恩人とも言える商品である。


それを振り返ってみれば、今の私の在り方に愕然としたものを感じる。

コンビニすらも見放したかという嘆きは、天に唾するように自分の心に刺さる。

当時はできなかった十円禿に手をやって、また溜息を吐いた。


蕎麦一つ 傍に置けぬと そばたてる 心をわらう オリオンのゆう

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