あお

飲酒オーバードライブ

第1話

死んだ兄について知っていることはほとんどない。こう言えば随分と薄情な弟に思われてしまうだろうが、実際、ぼくがことは履歴書に記入されているようなことでしかない。

 兄はぼくが物心がつく前に死んでしまった。ぼくがようやく父や母のことをパパだのママだのと呼び始めて、自らの力でそこらを動き回るようになった頃に。ぼくと兄は歳が大きく離れていたから、その頃兄がぼくにどのように接して、どんな兄弟だったのかなんて分かる筈もない。朧げにそういう情景があったような気もするけれど、決してそれは確かなものではない。

 ぼくの家は金銭的な余裕が余分にあって、所謂、裕福な家庭に──それはとても幸運なことに──ぼくは産まれ落ちた。父は勤め人で、会社は東証の一部に上場している。世間的にもそれなりに名の知られた企業グループの持株会社で上役をやっていた。なんだか蜥蜴みたいな印象を与える父の顔立ちをぼくは幼い頃心地よくは思っていなかった。幸いなことにぼくも兄も母親に似たお陰で父の面影を携えることにはならなかった。それが今の父に対する嫌悪の源流かと言うなら、またそれは別の話になる。そんな父と自分が産まれる前に凡そ二十二年も付き合っていた兄はさぞ苦労しただろう。そうに違いない。ぼくならば耐えられない。

 兄が死んだのはそんな父の所有するクアラルンプールの別荘でだった。兄は当時夏休みの最中だった。数人の帯同者を連れて別荘で誰とも会うことをせず余暇を過ごしていたという。シェフも、ハウスキーパーも、通訳も、運転手も、警備も。誰一人として同じ屋敷にいたのに兄の死に気が付かなかった。兄は涼しい顔をしてプールの水面に揺蕩っていたらしい。ポロシャツもハーフパンツも身に付けたまま、暮れてゆく空を見上げながら息絶えていた。死因は心臓発作。他殺でも自殺でもない、通りすがりの不幸だった。享年十七。これらを全てぼくはつい最近人伝に知った。父も母も兄のこととなると頑なに口を開かなかった。周りの人間も一様に話してくれることはなかった。それでもなんとか聞き出せたのはたったこれだけの事柄だった。

 そして、ぼくは兄の享年と同じ年齢に足を踏み入れた。十四年前と同じようにクアラルンプールの別荘はあって、プールには水が満たされている。ぼくは兄が息を引き取った時のように水面を揺蕩い、空を見上げている。ここ数日ずっとこんな調子だから、ハウスキーパーたちはぼくを気味悪そうに見ている。兄とぼくは瓜二つの顔立ちで、そんなぼくが兄が死んだ様を再現している──ように見える。故意ではないのだから──。それはもう側から見れば言葉を詰まらせてしまうだろう。

 兄のようにしてみれば随分と気持ちがいいことに気がついてしまった。力を抜いて、体とこころの全てを水に預けてしまう。ぼくはぼくの体の制御を手放して、弱々しく吹く風にさえ流されてゆく。自由も束縛もなく、ぼくがただそこに在るだけの存在みたいに。

 もうすぐ日が沈むぐらいにぼくはプールから上がった。目一杯に水を吸った服を脱いで、ローブを羽織る。

 わざわざ金曜日の夜に日本を発って月曜日までの三連休をここで過ごす予定ではあるが、ぼくはこの別荘があまり好きではない。兄が死んだからというわけではなくて、家具の趣味が合わないのだ。せっかくの温暖な南国の陽気に反する真っ黒けで重苦しいロココ調のソファなんて本当に酷いセンスをしている。そのことを話すほどぼくと父の仲は深くはないから、ずっとこのままだった。そしてこれからもこのソファは居座り続けるのだろう。まるで落ちないインク染みのように。

 価値観の話として。ぼくと父は血縁関係を疑うぐらいに反りが合わない。多くの分野でそれはあって、数年前はよく衝突した。父のことを殴り飛ばしたこともあれば、父に火掻き棒で殴られたこともある。けれど、ぼくはそれをある種の幸運であったとも思っていて、早い段階で相互に理解し合うことが不可能だと気付かせてくれたことで父との衝突はなくなった。互いに互いの幸せを踏み荒らさない領域を心得て、それにさえ注意してさえいればぼくも父も取り敢えずは穏やかな暮らしを送ることが出来る。表面上。

 ポーチの一人がけのソファに座ってコーラを飲んでいると、チェストの上でバイブレーションが暴れる。画面を見れば見慣れた父親の二文字。

 「はい」

 少しだけ悩んでから出る。

 「そっちはどうだ」

 「快適です」

 「そうか」

 心にもないことを互いに自然さを装い言い合う。これは定型文のようなものだ。時候の句と同じ。

 「時間はあるか」

 「大丈夫です。何かありましたか」

 「大した話ではない。暫く日本を離れることになった」

 「左遷ですか」

 ぼくが言うと父は傲慢さを隠そうとせずに、「そんなわけないだろう。わたしを他の連中と一緒にするな。相変わらず、愛想の一つもない男だ……」

 そういうところはあなた譲りなのでしょうね、と出かかった言葉を喉元で止めた。

 「半年ほどニューヨークに行く。その後帰国する予定だが、本宅には戻らないだろう。合わせて一年ほど家を空ける。人は残していくから不便はないだろう。わたしが留守にしている間に何かあれば鳥羽に言え。金も纏った額を置いておく。好きに使え」

 「お気遣い痛み入ります。鳥羽さんは本宅に?」

 「お前がクアラルンプールから戻る朝に休暇から戻る。細かいことはあれに聞け。全て言ってある」

 鳥羽さんは父の秘書のような人物で、随分と長く父のことを支えている。会社の人間ではなく、仕事というよりは父の身の回りのマネージメントを引き受けている。四十ぐらいの、ごわついた黒髪をポマードで流した如何にもという風体の男。兄の死後クアラルンプールに駆けつけたのは父ではなく彼だった。ぼくのことを若、だなんて仰々しく呼んで、父と喧嘩をすると決まって彼が様子を見に来た。けれど、別段彼に気を許しているわけでもなければ、彼がぼくを可愛がっているわけでもない。彼は事務的に、ぼくは父の付き人という認識でしか接点はない。だからこそ、何時、何処にでも父と同行する彼が今回はぼくに付けられることに不安を覚えた。

 「鳥羽さんは同行されないのですか?」

 「暫く鳥羽はお前に付ける。使える男だ。大抵のことはこなすだろう」

 「変なとかはやめていただきたいのですが」

 「付けられて困ることでもあるのか」

  「まさか!!」ぼくは電話越しに肩を竦めて、吹いてみせた。「あなたが困るのではないかと心配したんですよ!!だって……、ほら!!あなたの外聞の悪い部分は今まで全て鳥羽さんがどうにかしてきたんでしょう」

 父は少しの間口を閉した。今、どんな表情をしているか検討もつかないが、きっとあの蜥蜴のような顔の下でぼくに罵声を浴びせているのだろう。ぼくはコーラの空き瓶をチェストに置いて、ほくそ笑む。

 「鳥羽がいなくてもこちらは何の問題もない。それと新しくハウスキーパーを一人雇った。お前が帰る頃にはもう仕事を始めている筈だ」

 口早に言うと父は通話を切った。頭に来たのだろうか。自分の安寧の領域を踏み荒らされて腹が立ったのだろうか。しかし、手の届く範囲にぼくがいないから殴ることも出来ない。さぞ、はらわたは煮えくりかえっているに違いない。

 父とぼくの価値観の相違と、互いを刺激し合わない暗黙の了解とは別としてぼくは父を攻撃する。それはまた違う方向に伸びる嫌悪からすることで、父もそれを認めている。父も同じようにぼくを攻撃するからだ。ぼくたちはに放射された嫌悪を抱き合って、互いを憎しみ合っている。根深く、粘度もあり、解消される兆しもなければ、その気もない。

 夕食を口にしている時、ハウスキーパーの一人と目が合った。すぐに彼女は目を背けて謝罪した。現地で雇っている人間で、長いことこの別荘の管理をしている。ぼくは何かあったなら教えてほしいと彼女に訊いた。

 「いえ、その……。少し言いにくいことなのですが……。坊っちゃまがお兄様と瓜二つで、懐かしく思えてしまったのです……」

 「それはよく言われるよ。ぼくが物心つく頃には死んじゃってたけど、写真なんか見分けがつかないって」

 「お二人とも奥様によく似ていらっしゃいます。あぁ、昔は奥様とお兄様と坊っちゃまの三人でここに来られて静養されてらっしゃいました。本当にお懐かしい限りです」

 彼女は流暢な日本語で兄と母の思い出噺をしてくれた。ぼくはそれを聴きながらミディアムレアに焼き上げたテンダーロインにナイフを通す。

 ぼくの知らない兄。ぼくの知らない母。明瞭に浸透してこない話の数々はまるで知り合いの友人の話を聞いているようだった。

 「あの日もお兄様は坊っちゃまと同じようにポーチでコーラを飲みながら電話を……」

 新しいハウスキーパーのことを思う。わざわざ本宅に新しく雇うなんて珍しいことをしたものだと。

 愛人かもしれない、と思うと得心がいった。だから鳥羽さんを置いていくのか、とも。けれど、父親の愛人と一つ屋根の下で、しかも身の回りの世話をされると考えると少しだけ憂鬱な気分になった。相手だっていい気はしないだろう。金が目当てで身、それとも本当にあの父に入れ込んでいたとしても、その息子のところにいきなり放り出されるなんて。そして、そんなことを考えていると折角の上等な肉が不味くなってしまう。ぼくはすぐに考えるのをやめて、未だに続く兄と母とぼくの身に覚えの無い思い出噺に耳を傾けた。

 

 

 

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