4 熱



 私は大股で歩こうと、大きな一歩をつくり出した。けれど、運動をしていない体にはすぐに限界が訪れる。


 左足が石畳の隙間に引っかかってしまい、体がぐらりと大きく傾いた。長い時を経て木の根が石畳の下まで伸びて盛り上がったところや、脆くなってしまった部分が欠けてしまっているところがあった。



 ただでさえ歩きにくいサンダルで来ているというのに、道は決して私に優しくなかった。



「何、やってんだよ!」



 お腹が刹那的に締め付けられ、それと同時に熱を感じた。石畳の溝に落ちた足先、揺れるワンピースの裾、男の腕。



「核心をつかれて逃げるなんて、君はまるで子どもだ」


「貴方って全然優しくないのね」


「こうやって助けてるのは君の中じゃ優しさに入らないわけね。まあ君が言う通り俺は確かに優しくはないが、上辺だけを取り繕って偽善者になるつもりはないね」



 私はお腹にまわされた彼の手によって支えられていた。


すぐ後ろに彼がいるその距離の近さに熱っぽさを感じていた。あったかい、じゃなくて熱い。



その腕もその触れていない彼の胸板やお腹の部分でさえも。その熱さで自分の冷たさが引き立ち、自分はこんなにも冷たかったのかと思い知らされた。



 彼は、正しいことも正しくないことも言っている。それは、私の主観を軸として。



「私、貴方のことが嫌い。どうして初対面の人に此処まで言われなきゃならないの?私は逃げるわよ。だって嫌なものから逃げたくなるのは本能がそうしろって言っているってことだもの。でも、私は逃げるのに加えて余裕がなくなると何もかもがわからなくなって考えるのを放棄してしまいそうになる。私の悪い癖だってことくらいわかる。もういい歳した大人なんだから自分を客観的に見ることくらいできる。何度も直そうとしてる。でも、上手くいかないの。さっき貴方が言ったことを私は嫌だ、怖い、と思った。それは私に欠けているものとか、私が気にしていることだからよ」



 熱い。冷たい。口から言葉がするすると落ちていく。




「急にそんなに喋ってどうしたの。俺が怖いの?」



 彼は穏やかな声の中にいくらかの冷たさにも似た鋭さを秘めた声で私に言った。



「子どもって言われたからよ。これでもちゃんと考えているの」


「でも君がさっき言ったことは弱みの部分だろ。俺にそれをやすやすと教えてしまうなんて」



「私は、逃げられる嫌なことからは逃げてきた人間なの。でも、今回ばかりは逃げられない。こんな駄目な私でもたった一人の母親だもの、幸せになってほしいわ」


 彼は、「ああ、そうだろうね」と小さな声を出した。



「俺は君のお母さんの大切な人になるわけだから、無条件に拒否したくもなるだろうな。嫉妬とか、親が女になったのかっていう嫌悪感とか」




 彼はするりと私のお腹から手を下ろして、隣に並んだ。そして、俯きがちに瞬きをゆっくりとしてから私を見て、小さく笑った。それは、寂しさのようなものが入りまじって上手く口角が上がらないというふうに見えた。



 彼は私からすぐに目を逸らすと先に一歩を踏み出して、ゆっくりと歩き始めた。だから私も歩き始める。


 彼は、掴み所がない。その表情も言葉も行動も、ちぐはぐだ。傲慢な人かと思えば、明晰な筋を通す考えを持っていたり私の気持ちを汲み取ったり。



「ここさ、パワースポットって言われてるだろ?」


「そうね」



 私はさっきまで勢いよく話してしまった唇に指先で触れてから頷いた。



「俺の友達にさパワースポットとか全く信じてない奴がいるんだ。そいつは、そんな不確かなもの信じられないって。だってパワースポットならその場所の周りは栄えているはずだ、木が生い茂ってるだけじゃないって言っていた」



「へえ、面白い考えを持ってるのね。お友達の『栄えている』は東京みたいな、高いビルが多くそびえ立つ場所のことを言うのね」



「ああ、そうだろうね」



「ところでどうしてこんな話をしたの?私、さっきまでお母さんには幸せになってほしいって言ったのに、その話はもう終わり?」



 私はお友達の話についての感想もさながらに話を戻した。このまま彼のペースに流されてたまるものかという意地もあった。


彼はお母さんを大切にしてくれているようにも思えるし、大切にしていないようにも思える。


私を容赦なく言葉や態度で傷つけた彼はわかりやすい優しさも気遣いも持たない。


自分が思ったことを素直に言葉にしているように思えるけれど彼のそういう部分はお母さんを本当にちゃんと大切にしてくれるのか信じがたいところがあって、つまり彼は時に残酷な人であるような気がしてならないんだ。



「幸せにするよ」




 足にひんやりとした空気が触れた気がした。彼は真っ直ぐ前を見て静かにそう言った。



「嘘よ」



 私は顔を顰めて、その投げやりの気持ちに頭が痛くなった。その目は、その動きのない表情の白さは、作り物。



「私、貴方の考えていることが全くわからない。その上辺だけの言葉と表情は何?」


「驚いたな。そういうのわかるの?」


「わかるわよ。だって私自身がそういうことをする方なんだもの。もしかしてもうこの話はしたくないの?さっき話を急に変えたわよね。それにそのいい加減な態度」



「君って俺に何かを言われないうちは強気だよな。ああ、俺はもうこの話はしたくないよ」



 沈黙が流れ、周りの音が明瞭になる。川の流れる落ち着いた透き通る音、鳥のさえずり、葉が微かに揺れる音。それと共に雨に濡れた木の匂いと懐かしさが混じった匂いを感じた。道の端っこや石壁にある苔の匂い。



「君はさ、君の主観で俺に母親を任せたらまずいって、幸せになれないって思うんだろう。でもさ、それって君が君の母親であった場合の話で俺と結婚するのは君じゃない。君にとっての不幸が君の母親にとっては幸福かもしれない。自分でさっき言っていたじゃないか。私とお母さんは違う人間だって」



 ふいっと顔を微かに上にあげて、目にかかった前髪をよけようとしていた。まるで自分よりも劣っている生物として私は見下されているように感じた。そういう、口調だったのかもしれない。



「結婚する前の男はどんな人間にも良い人だって見られる存在じゃなきゃダメなのよ。ねえ、わかんない?」



 彼は鼻を鳴らして「わからない」と、そう言った。



 体は熱を帯びているが、皮膚の表面は木陰や近くにある川のお陰でひんやりとしている。


 私は、この人とはきっと一生、わかり合えない。




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葉月 望未 @otohana

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