3 母







 母は、人づきあいが苦手なくせに真面目で責任感が強い。だから私は母が生きづらそうにしている横顔を小さい頃からずっと見てきた。


眉尻を下げて口角をあげて人と話をする母の唇がいつも微かに震えていることに、私だけが気づいていた。もしかしたら母自身も気づいていなかったのかもしれない。唇を触っているところも震えを気にする様子も見受けられなかったから。


近所の人と話し終えた母は最後に会釈をして相手の背中を見た後に私と目を合わせる。そして、「ごめんね。行こっか」と唇の笑顔をさっきの人の時よりも半分にして、母は静かに私に言った。そして、どちらからともなく手を繋いで、遅くもなく速くもなく歩きはじめる。


私は幼心にも、あまり親しくない人と話した後の母が不憫に思えてならなかったし、その時の表情を見ると喉に近い胸の奥が呼吸の残骸と感情の苦しさに詰まって、痛かった。



「礼、しないの?」


「礼?」



 時がたって落ち着いた朱色の厳かな鳥居を彼は難無く通り過ぎた。そこには何もありません、とでも言うように飄々と。


 彼はきょとんとした顔をして私を見る。


 鳥居を潜った彼と、潜っていない私。まるで境界線の真っ赤な線が引かれている気がした。



「お母さんはいつもしてるけど、お辞儀。ここの神社、お母さんとよく来るんでしょう?だから今日も私を連れてきたんじゃないの?」



 なのに、どうしてそんな顔をするんだろう。私の言っていることがわからないという顔は、何なのだろう。


母は神社が好きだから自然と作法を身に付けていった。けれども作法が大事で守らないといけないという気持ちからではなく、神様がそこに鎮座しているからという敬う心の元に成り立っている、清らかな気持ちから行っていることのように私は感じていた。


だから私が鳥居に入る前に軽くお辞儀をしたとしても、神様の通り道と言われている真ん中を歩いたとしても母は何も言わないし嫌な顔ひとつしない。


 母が大切に思っているもの。それは信仰心にも近いのかもしれないけれどそんな母を見ていた私は、気づいた時にはもう同じように作法を身につけていた。



「あーいや、君のお母さんはそんなこと言わなかったから君は言うんだな、と」


「私は言うよ。お母さんの娘だけど、中身も容姿も違うじゃない。似てるだけで全く違う人間なのよ」



 彼は私から視線を外してばつが悪そうな顔をした。思わず眉間に皺が寄ってしまう。彼はお母さんと歩調を合わせようとか、そういう誠実さを欠いているように思えてならない。


こんな人と結婚して、お母さん本当に大丈夫なの?



「俺はいつもこうだけど、君のお母さんに鳥居の前ではちゃんとお辞儀をしなさいなんて言われたことはないな」


「そうよ。そういう人だもの」


 彼は、どこまでも私の期待を裏切っていく。母を素直に祝福したいのに、これじゃあ、こんな男とじゃあ喜んであげられないじゃないの。


 私は、鳥居の前でいつもよりも頭を下げてお辞儀をした。自分のサンダルが目に入って目を少しだけ瞑り、開けた。頭を上げるその瞬間、母が私に彼のことを初めて話したあの時の柔らかい、唇の震えない笑顔が浮かんだ。あんな顔、久しぶりに見たのにな。


 私は彼の横を通り過ぎて、道を歩いて行く。後ろから「上手くいかないな」という小さな声が溜め息と共に聞こえてきた。


 この神社はお母さんが特に好きな神社。家から車で一時間程で、車やバスでしかこれない場所なのに参拝者は少なくない。とても有名とまではいかないにしても、ほぼ観光地と化している。


 拝殿までは長い道のりで、時間を計ったことはないからどれくらいかかるのか曖昧だけれど多くのことを考える時間、もしくは一つのことを深く考える時間はたっぷりとある。



「ねえ、君ってさ、自分とは違う考えの人を受け入れない人?」


「は?」


 楼門ろうもんを潜ろうとしたところで、後ろから無愛想な声が降ってきた。


長い時が染みこんだ木の色がつくり出す影はいつもより濃い気がする。楼門を潜るには高さがある階段を三段ほど登る必要がある。


彼は、階段に足をかけた。だから今は、私が彼を見下ろしている。笑ってない。笑っていないどころか声と一緒で落ち着いた静かな、悪く言えば無愛想な表情をしていた。



「君はさ、私の母親に全て合わせろって俺に言ってるんだろ?合わせないなんて最低な人間だって言うんだろ?俺の言う事には耳を貸さない」



 彼が一段、ゆっくりと上がってくるたびに私との距離が近くなり身長は私を越していく。一歩、後退りをした。



「君のお母さんじゃない時のお母さんと俺は、お互いに『合わせる』っていうやり方をして一緒にいるんじゃないんだよ。意味、わかる?」



 来ないで。思わず、心の中でか細い声が零れた。彼は影の中に足を踏み入れて、その体を私と同じように沈ませた。



「凄い顔してる」



 そこでやっと、彼は私を馬鹿にしたように小さく笑った。その瞬間に逃げる隙間ができて、私は勢いよく前を向くと楼門を下る階段三段を足早に下りた。


どうしてこんな奴をお母さんは好きになったの?


何なの。あの人は、一体何なの?私は、何か間違ったことを言った?ううん、言ってない。


 歩く速度はどんどん上がっていく。赤い小さな橋を抜けて、緩やかな坂道を登っていく。サンダルで来た所為で上手く歩けない。硬い石畳は足をつけるたびに酷く反発してくるようだった。


 息が激しくなっていき、次第に体が熱くなってくる。


 どうして私、こんなに動揺しているんだろう。あんな男の言葉なんて、嫌なら聞かなければいいだけなのに。あいつの考えがわからない表情への恐怖?



 ただ、嫌だという思いははっきりとした輪郭を浮かび上がらせて私の中に現れていた。さっきまでは気に障る奴だけど、嫌いに「なりそう」なだけだった。


でも今は、嫌い。大嫌い。後ろを振り返りたくない。あいつと話したくない。


心身ともにその嫌だという思いで満たされ、その気持ちを原動力に足を動かしていた。




「君一人で進んだら一緒に来た意味がないだろ」



 後ろから、思ってもいないような軽い声が聞こえてくる。声の大きさからして、距離はそう離れていないらしい。男と女の歩幅はやっぱり違う。どうしよう、追いつかれる。



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