2 神社
「お手をどうぞ」
「ひっ、やめてよね本当に」
助手席の扉を開けようと手をかけると、それはひとりでに開いた。驚いて固まっていると視界いっぱいに黒のシャツが広がった。顔を上げると案の定、彼。
自分でもどこから出したのかわからない、初めて聞く高い変な声が出た。
鳥肌が立ち腕を何度もさすって差し出された手を無視し、彼を避けながら外へと出る。
「女性は皆こういうことされるのが好きなんじゃないの?」
「好きじゃない!」
首を傾げながらきょとんとする彼を見たら不本意にも大きな声が出てしまった。
駐車場を歩いていた老夫婦が振り返ってこちらの様子を窺うように首を微かに傾けたのに気がついて、慌てて口を両手で押さえる。
感情的になってしまった、駄目だ、私はすぐ人のペースにのせられちゃうんだから。彼みたいな人には特に。だから細心の注意を払わないといけないのに。というか払っているつもりだったのに。
ふわふわの柔らかい、珈琲が多めのカフェラテの色をした髪が私の端っこで揺れる。
「ほら、行くよ。そんなに怒るなって」
彼は意外にも一瞬、私に触れることを躊躇したようだった。けれども結局は私の手首を掴んで緩く弱い力で引っ張り、私に歩くよう促す。
「意外」
するりと呆気なく離れていった彼の手を辿って彼の背中を見つめていたら、自然と声が零れ落ちた。
彼は何も言わなかった。もしかしたら聞こえていなかったのかもしれない。
彼が歩くのにあわせて動くシャツの皺と背中のラインを目でなぞる。華奢で若い、体。若い。彼は、若い男の人。
勾配が急なコンクリートの坂道を登っていく。人は疎らで歩きやすいけれど、今になってサンダルで来たことに不安を覚えた。
山を登るわけではないけど此処は山の中で、道が整備されているといってもサンダルで来るような場所じゃない。
彼の車に乗り込んだ後、彼からはじめて行き先を告げられた。
観光客も多いし、道も整備されているからサンダルでも全然大丈夫だって。と彼は軽く言った。
寒いけど可愛いからこの服がいい、足が痛くなるけどこの可愛い靴を履く。私は可愛さを追い求める旅をとっくの昔に卒業していた。
だから山に行くならちゃんとした運動靴を履いていきたかった。この人の前なら尚更。だって彼の前でお洒落をして女性らしさを露わにする必要は全くないんだから。
若い男は、すいすい前を歩いて行く。距離がゆっくりと、けれども確実にひらいていた。
「ねえ!」
走って行って彼に追いつこうなんて気はさらさらなかった。ただ、訊きたかっただけ。彼は足を止めて私がいたことをまるで今思い出したとでもいうように勢いよくこちらを振り返った。
「お母さんの!どこを好きになったの?」
私は足を止めずに、大きな声でそう言った。
彼の目はみるみるうちに開いていき真ん丸くなっていく。私は坂に沿って首を上げて、彼のその姿を見据えていた。
私達の近くを歩いていた家族連れやら恋人達やらはこちらを一瞥したり怪訝そうな顔をして私達を避けながら足早に神社へと向かって行く。
彼にやっと追いついた私は彼の前で足を止めて、更に首を上げた。その目に動揺の色はもうなかった。あるのは、落ち着いた怒りと不快感。彼の口元にあの笑みはない。
「どうしてそんなことを訊く?」
「だって、私よりも若そうな貴方がどうして母のことを好きになったのか気になるのは当たり前じゃない?」
世間から見れば、それは奇態。でも所詮、他人事だから世間様は別にどうだっていいだろう。だけど面白がるし、話のネタにだってする。所詮、他人事だから。
でも私は違う。他人事じゃない。だからこそ、そういう嫌な目を向けられると覚悟をしてでも結婚をすると決めた彼と自分の母をどうにかして認めたい、と思っている。
この、不快感を。この、畏怖を。この、羨望と喜びを。
これらの渦をなんとかして幸福と、彼らを支えたいという心に変えたくて、だから私は今日この男についてきた。
でも私の心はそれを拒否していて、目の前の若い男を父にする気になれない。仲良くする気になれない。それでも、母の幸せを願う矛盾した心。
渦巻く感情は私をどんどん飲み込んで、どうにかしないと嫌な感情で満たされた駄目な人間になってしまいそうで。
彼の唇が微かに開いて、ゆっくりと目が合う。
「……秘密」
「……は?」
間抜けな声が出た。彼は、いくらか低めの声で、はっきりと口にした。
秘密って、ふざけているの?けれどその言葉の声は出ず、口を噤んだ。
彼が目を細めて感情の上書きをしたようにあの微笑を浮かべた所為だ。
ぞっとした。彼の心の動きがわからない、理解できないという恐怖だった。
この微笑は作り物だってことくらいわかる。
「秘密を明かす時に教えてあげてもいいよ」
彼は再び前を向いてから体を少しだけこちらに向けて、酷い顔をしているであろう私に静かな声でそう言った。
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