葉月 望未

1 秘密



 真っ赤な唇に触れたら最後、それはするすると砂粒のように落ちていく。


指先で触れれば膜が破裂して、それは中から透明な液体となってどろどろと流れ出ていく。


艶やかで透き通る、か細い声のそれはほとんどが耳朶を伝って流れていき、残った微量の糸みたいなものになって何の躊躇もなく真っ直ぐ鼓膜に入ってくる。


秘密。とは、私の中でそういう形をしている。



 罪深さと儚さを秘めた微量の毒と密。胸の深いところに少しずつ蓄積されていき、根をはっていく。


 毒が溢れて隠しておけなくなったその時というのは唐突に訪れ、秘密は隙間から簡単に零れ落ちていく。そして、まるで暴かれるように露わになり共有される。


 目の前にいるその人の秘密を受け入れれば、まるで何かの契約でもしたかのように縛られることになる。


 だからこそ人の秘密を知りたくないし、自分の秘密があるとするなら絶対に話そうなんて思わない。秘密を共有することを想像するだけで肌が微かに波打って喉の奥の方から気持ち悪さが渦巻いていく。気持ち悪さはだんだん胸の中へと下がっていき、嫌悪感として私の中に留まってしまうだろう。


 秘密は自分の中だけに留めておくからこそ「秘密」と言うはずなのに。


でもその本質は人に話すこと、なんだろうな。そうじゃなかったら「秘密」なんて言葉、生まれないはずだもの。


 秘密の共有なんて、狡いじゃない。一人で抱え込まなきゃいけないから秘密と呼ぶべきものなのに、それを他の誰かにも背負ってもらうなんて。



「君は秘密を悲観的に考えすぎじゃないか?」


 彼がこちらを一瞥した。


私は弧を描くコンクリートの道から自分の膝へ視線を落とし、小さく溜め息を吐き出した。


 右手で左腕をさすりながらゆっくりと顔を上げて彼を見ると、彼のその目は前を見つめていた。彼は私が見ていることを感じているはずなのに今度はこちらを少しも見ないで、ただ余裕に満ちた微笑を浮かべるだけだった。


 車内の隅々にまで冷房が行き渡り、肌の表面がひんやりとする。皮のシートは私の身体に合ってくれず、滑る感じがして居心地が悪い。高級な、良い車なんだろう。


「それはだって、貴方が変なことを言うから」


 私は腕をゆっくりとさすることをやめずに窓の外へと目を移す。細くて高い木は柔らかな光と共に木陰をつくってくれる。風に揺れると地に降り注ぐそれらも揺れて、なんだかとても眩しいものに思えた。清くて潔くて、純然で。私とはまるでかけ離れたもののように感じた。


だって、彼のことなんて見たくない。そう思っているはずなのに耳だけは後ろばかりを気にしている。気持ちと体が相反して、ばらばら。



「もっと近づきたいと思ってさ。ほら、もう他人じゃないんだし」



 彼は明るい声で、おそらく笑みを浮かべながら何の躊躇もなく当たり前だというように軽く言う。



「だからって距離のつめ方が雑よ」



この人は自信に満ち溢れ、私よりも知識を持っていると自負しているように見える。私の気持ちも全部汲み取れるとか、そんなことさえ思っていそうで怖い。




「秘密って、俺はわくわくするけど」



 一瞬にしてざわざわとした嫌悪感が這い上がってきて私を侵食する。それは指先にまで行き渡り、気づけば無意識に左腕を右手で強く握っていた。


喉が冷たい空気に触れて衝動的に声が出てしまいそうになった。唇をかたく噛むことでなんとかそれを阻止して右手の力を抜き、左腕の爪が食い込んだ鋭い痛みと鈍痛に集中した。


 光を塗りつぶしたような重い日陰になったその瞬間に、自分の酷い顔が助手席の窓に映った。私は硝子の奥の顔をじっと見つめた。



「人の見られたくない部分を見るのが貴方は楽しいの?悪趣味ね」


 私の声は酷く落ち着いていた。



「いちいち突っかかってくるね」



 けれどその落ち着きにも似た諦めと蔑みは、胃の辺りで徐々に湧き上がってくる怒りへと変わっていく。彼の小さな、確かな笑い声によって。

 この人はいちいち私の癇に障ることを言う。



「私は秘密なんてないし、あったとしても話さないから」



冷たく鋭い声を意識的につくり出して、私は貴方の言いなりになんて決してならないと示す。


 車が山に沿って大きく曲がる。それに合わせて体も揺れる。私はその自然な体の傾きに反発してシートベルトをぎゅっと握り、揺れる体から目を逸らした。




「じゃあ秘密を明かしたくなった時には俺に言って。今日は俺の秘密だけ明かすから。参拝した後にね」




「そんなに秘密を明かしたいの?どうして?」




 さっきまで体に入っていた力が嘘のように抜け、私は自然と彼の方を向いた。彼は左手でハンドルを握って右手で窓下の辺りに肘をつき、耳の裏に触れていた。



 さっきと全く同じの微笑を浮かべながら私に執着なんてしない、上辺だけを故意に見るような目をしながら。




「君と俺はこれから家族になるんだよ。だからこそ秘密の共有をするんだ」


「貴方の言っている意味が全くわからない」



 彼から出る言葉は全て信じられないような気がした。



「手っ取り早く深い関係になるために必要なことさ」



 彼は瞬きをしてから目だけを動かして一瞬だけ私を見た。彼は山に沿うカーブの多さばかりを気にしているようだった。


私は眉間に深い皺を寄せる。大きな溜め息を吐き出して手の甲を額にくっつけ、体を少しだけ前に傾ける。落ち着け、と心の中で呪文のように唱えた。



「手っ取り早くって、ああ、どうしよう私、貴方のこと嫌いになりそう」



「嫌いになられちゃ困るなあ」



 彼はそう言ってくつくつと喉を鳴らし、笑った。




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